1話:農家の長男が定時制高校へ
主人公の久保伸介は橫浜市でも川崎市と町田市に近い地区で昔から米を中心
とした農業地域で生まれた、久保の実家は、米、さつまいも、きゃべつ、白菜、
野菜全般を作っていた。昭和20年代、1950年頃、青葉区市が尾、鉄町、
新吉田町で梨が作られるようになり「浜なし」のブランドで親しまれていた。
1953年当時は、8人で暮らしていたが、伯父、叔母が、東京、橫浜の中心部
へ出ていき、祖父、祖母、両親、父の久保栄一は1926年生まれ、母、久保富子
は1929年生まれだった。1950年に久保伸介が誕生し、2年後の1952年
に妹の久保米子が生まれ、合計6人で大きな農家2軒に住んでいた。両親ともに、
のどかな農家に育ったせいか子供達にも勉強しろと、うるさく言わず、農家の
手伝いをさせていた。そのため、久保伸介も、それ程、勉強熱心ではなかった。
1965年、昭和40年に横浜市は港北ニュータウン計画や横浜ベイブリッジ
計画などを発表。これらはその当時、とてつもない壮大な計画だった。
当時はニュータウンの場所が、まだ港北区だったため、港北ニュータウンと
名付けられた。
ちょうど、この年1965年、昭和40年に第3京浜道路が開通し、その翌年
1966年、昭和41年に田園都市線の溝の口駅から長津田駅が開通した。
当時は田園都市線の名前通りに全くの田園地帯であり久保伸介の家から最も
近い所に市が尾駅ができた。それでも市が尾の中心地から1km離れており家
から駅まで徒歩15分、自転車、バスで5分だった。
1963年、久保伸介が中学に入り3年後の1966年に卒業し高校に進学
せずに両親の農家を手伝っていたが、さすがに父の久保栄一が男子、中学卒業
ではまずいと言い、1967年4月に川崎市久地にある神奈川県立向の岡工業高校
の定時制を受験させて合格して機械科に入学した。その後、長男の伸介は農家を
手伝いながら、定時制・夜学に通い続けた。
その当時、久保栄一が農家だけの収入では生きていけないかも知れないと言い
以前から付き合いのあるN証券の担当者、佐藤賢一に息子の久保伸介を紹介した。
その後、N証券の担当者、佐藤賢一の溝の口支店で開かれていた株投資口座に
バイクで通い勉強を続け、2年後、18歳になった1968年10月に口座を
開いた。そして伸介の1969年の年末にに投資資金として2年間の農家の
手伝いの給料での中から50万円を入金した。
その後、1970年11月12日にN証券の担当者、佐藤賢一からの情報で
ソニー株を360円で千株36万円で買い残金が14万円となった。
そして1971年に神奈川県立向の岡工業高校の定時制・機械科を卒業した。
1972年には父、久保栄一の知り合いが社長をしている地元の佐藤工務店と
同じく知り合いが社長をしている鈴木モーターの2つの会社で勉強しながら、
働き、時給200円の給料をもらい、設計、大工仕事、家の修理、庭仕事、
家の塗装、左官、バイク、自動車、農機具の修理の仕事を教えてもらい先輩に
ついて仕事を手伝った。
1973年4月8日に電話でソニー株が上げてるから1580円で売りの
指示を受け売り、税引き後利益91万円を得て、残金が105万円となり、
仕事で貯めた金25万円を加えて、残金を130万円にした。