パンドラの箱に残ったもの
『残念ながらもう愛していませんの』続編
「ご懐妊でございます。」
愛する妻の隣でその言葉を聞いた瞬間、喜びが胸を熱くさせた。
「ありがとう!ありがとう、」
思わず妻を抱きしめる。
「こちらこそありがとうございます。旦那様のお子を身籠もることができて本当に幸せです。」
その言葉に胸がチクリと痛み、我に帰った。
本当に幸せなのか?
そのことが胸に浮かんだ。
妻の愛する者は私ではない。
本当は後悔しているのではないか?
さっきまで熱くしていた胸とは違う、内臓の奥底からチリチリと燃えるような身を焦がすような焦燥感が私を襲った。
頭をよぎる不安を消し去るように妻を抱きしめる腕に力を入れる。
妻はその腕の力に気がついて、私の背中に手を回した。
その手は人に寄り添う優しい温かみのある手だった。
美しく、どこまでも慈愛深い、私の妻。
きっとまだ私の気持ちには気づかれていない。
だから、だから、早く打ち消さなければ。
幸せなんだ。
妻を愛しているんだ。
だから、この幸せを壊したくない。
「愛している。」
縋るように絞り出した言葉に、
「わたくしもお慕いしております。」
と妻が言う。
きっと私のように身を焦がすような熱を帯びた『愛』ではない。
そのことが浮き彫りになるのを知っていても、確かめるしか無かった。
見捨てないでくれ。
本当はそう言いたいけれど、言えないから言う『愛している』。
その醜さも気づかないでくれ。
「奥方様のご懐妊おめでとうございます。」
側近である男は妻ではなく、私に形式だけ祝福の言葉かける。
その言葉に気持ちが入っていないのは明らかだった。
私の側近は妻のことを愛している。
昔から、そして今も。
だからこそ一度離れた私の元に戻ってきてくれたのだ。
私の妻の側に居るために、私が妻を不幸にしないか見張るために。
以前のように親友にはもう戻れない。
そもそも、妻も親友も一度私が壊してたというのに二人とも戻ってきてくれた、それだけで幸せだったのに何故にこんなにも胸が騒めくのだろうか。
妻と親友、二人とも想い合っている、それだけなのだ。
二人とも不貞なんてしない。
私と違って誠実な二人だ。
私にはもう妻と側近の二人しかいない。
他の人間は過去に私が起こした騒動で皆引いていった。
二人が居るからこそまだまともに接してもらえているが、二人が戻ってきてくれなければ、今も私は一人で笑い者にされていただろう。
私は結局、二人に割り込んでも自分が幸せになりたかったのだ。
ある日のこと、仕事の合間に妻の様子を見に部屋を訪ねた。
愛しい我妻はベッドの上でスヤスヤと気持ち良さそうに眠っている。
お腹の膨らみが顕著になってきて、妻は眠ることが多くなっていた。
今この時も妻はお腹の中で我が子を育ててくれていると思うと愛しさが込み上げ、私は眠る妻の髪を撫でる。
ベッドの横のチェストには編みかけの小さな靴下と、妻の好きな詩集。
きっとお腹の我が子に読み聞かせしているのだろう。
この時、私は後ろめたさを忘れて幸せな時間を享受していた。
しかし、詩集に挟まっているしおりを見つけ、心が揺らぐ。
私は結婚直前、妻と元親友である側近との繋がりを見つけていた。
それは側近が以前拾っていた野花のしおりだ。
あの花を見つけた時の側近の柔らかな笑顔を、前にも後にも見たことは無かった。
あの時はなんてしょぼい贈り物なんだと心の中で馬鹿にしていたが、妻はわざわざしおりにして大切に身につけていた。
それが何も言わない妻と側近の真実だった。
私は思わずその詩集に挟んであったしおりを引き抜く。
そして、それは自分の送ったキキョウのしおりだとわかり、ほっと胸を撫で下ろした。
もう、過去だ。過去なんだ。
振り切ろうとしたが、私は鏡の前にある小さな宝石箱を見つけてしまった。
駄目だとわかっていながらも進む脚を、伸びる手を、確かめたいという欲を止めることができない。
その宝石箱に近づくたびに鼓動が大きくなっていく。
やっぱり…
宝石箱の中身には絶望が入っていた。
こういう時にばかり感の働く自分が嫌になる。
私は震える手で野花のしおりを取り出す。
捨ててしまおう…
そうすれば妻も忘れるのでは?
しかし途中で手が止まる。
また踏みにじるのか?
あの時、私は何をした?
私はあの頃、性悪女を選び、彼女を虐げ、苛つきの捌け口にしていた。
また、彼女の気持ちを踏みにじればどうなるかわかっているのか?
『残念ながら、もう私は愛してませんの。』
白昼夢のようにそう私に告げる彼女が脳裏に浮かぶ。
「旦那様…」
愛おしい妻の声に慌てて宝石箱をひっくり返してしまった。
「すまない…」
蓋の取れた宝石箱とその中身を彼女の元へと運ぶ。
「形ある物はいずれ壊れますから、お気になさらないでくださいませ。」
そう言う妻の小さな手に宝石箱がすっぽりと収まっている。
「…これも…」
渡しそびれていたしおりを妻に手渡すと、妻はそのしおりを見つめて言う。
「旦那様は私のことをキキョウのようだとおっしゃってくださいましたけど、私は自分ことを野花のように思ってますの。何度嫌われようとも、図太く居座る野花…けれどそのおかげでしっかりと花を咲かせることができました。」
彼女は私を見て優しく微笑んだ。
「…すまない。」
『何度嫌われようとも』
そんなんじゃない、私は彼女をただ踏みにじり続けただけだ。
「こちらこそ、執拗に追いかけ回してすみませんでした。お許しくださいませ。」
妻がクスリと笑う。
その可憐さに、改めて魅力を感じると共に罪悪感が胸の中を駆け巡る。
「…違う。私が…」
「愛しています。」
私の言葉を遮るように妻が言う。
それはずっと欲しかった言葉…
彼女はキラキラと瞳を輝かせて私の言葉を待っていた。
「愛してる。」
そう言って私は彼女を抱きしめた。
彼女の『愛している』は私の『愛している』と違う。
違うけれど、どうかその穏やかな『愛している』が続く限りは側にいて欲しい。
胸にじんわりと広がる温かさが私を満たしていくのがわかる。
私は今幸せなのだ。
リクエストにより書かせていただきました。
楽しく書くのが好きなので、リクエスト嬉しいです。
もちろん、誤字脱字などのご指摘も嬉しいです。