このまま
初めてちゃんとしたようなものを書きました。
読んで頂けると嬉しいです。
1
後ろの扉が開いて今すぐにでも音楽室のお化けが襲い掛かってくるんじゃないかって現実味のないことは考えてないけど、校舎内を見回りに来た先生が入ってくるかもしれない可能性にはドキドキしていた。ひんやりした冷たい風が僕の頬の感覚を奪おうとしてくる。それに抗おうとコートの右ポケットから使い捨てカイロ(貼らないタイプ)を出そうとしたのだが、ここに来る途中彼女に奪い取られたのを思い出した。ふと彼女の方を見る。彼女は自分が用意していた使い捨てカイロと僕のそれを両方の頬に当てて暖をとっていた。
「この景色を見れることが何もない田舎の唯一の良いところだよねぇ」
しみじみ、と言った感じで彼女が呟く。僕は両方の手の平に吐息を当てて、氷のように冷たい頬にそっと押し当てた。
2
僕と彼女の関係は、遡ると小学二年生の頃算数の授業で筆箱を忘れた彼女に鉛筆と半分にちぎった消しゴムを渡したところから始まった。
「ありがとう!」
二人にしか聞こえない程度の大きさで、その時僕にだけ向けられた彼女の満面の笑みに正直言うと僕は一目惚れをした。次の日の朝教室に入ると僕の机の上によく分からない妖精がプリントされた新しい鉛筆一本とナイロンに包まれた消しゴムが置かれていた。そのお返しにノートの切れ端を綺麗に切り取って「ありがとう」と一言書いたお礼の手紙を筆箱の下に誰にも見られないようにそっと忍ばせた。ちなみに当時もらったその二つは今でも使わずに大切に保管している。それから彼女は僕を友達認定してくれたみたいで、僕達はたまに遊ぶようになった。二人で川に行ったり花火をしたり秘密基地を作ったり、僕にとっては本当に幸せな何気ない日常でこのままこれがずっと続くんだと思ってた。しかしもともと活発だった彼女は中学に入学すると部活動に励むようになり当然友達の輪も広がっていった。一方の僕はというと本を読むことくらいしか取り柄がなく、共通の趣味を持つ友人と時間を共有するくらいで、決して楽しくないわけじゃないけど、比べるものじゃないって分かってるけど、彼女のあの笑顔を思い出す時間と目で追う時間が増えた。いつだって彼女は楽しそうで目が合うと優しく微笑んでくれたし、話しかける勇気がない僕とは違ってすれ違いざまに挨拶もしてくれた。僕にだけの笑顔じゃなく皆に向ける笑顔で。
そんな日常の中で微炭酸がパチッと弾けたのは中学三年の受験に差しかかる頃だった。僕と彼女は志望校は同じだったが学力が違った(決して馬鹿にしているわけではない)。
「私に勉強教えて、おねがいっ」
断る理由がないので頷くと彼女はあの日の笑顔をまた見せてくれた。死ぬ気というのはこういうことなんだなと思うくらい僕は限りなく丁寧に分かりやすく教えさせてもらった。合格発表の日は一人だと不安だしどんな結果であれ一緒に頑張ってくれた人と見たいという彼女の希望を尊重した。結果は悲鳴に近い叫びと突然の抱擁だった。
かくして同じ高校に通うことになった僕達は、同じ中学から僕たちの通う高校に通う人達が他にいなかったので友達ができるまでという条件で、家からバス停までの自転車とバスに乗って学校に向かうまでの登校と下校とを共にすることになった。それから二年半という月日が流れた。それはただ僕達と同じ方角から通っている生徒がいなかっただけでお互い予定があるとき以外に一緒に登下校をしなくなる理由もそうするタイミングもなかっただけなのだが。
「ねえ」
学校が始まった当初はお互いにどこか緊張感がって無理にでも会話を続けさせようとしていたのだが、一週間もするとそんなものどこかへ消えてなくなり二人とも思い思いの時間を過ごすようになった。僕は本を読み、彼女はイヤホンを耳に当て音楽を聴いている。朝のバスに揺られる時間はそういう時間になっていったから彼女に話しかけられたのは久しぶりのように感じた。
「ん」
僕は読んでいた本から視線をずらして彼女の声に反応する。
「私ね、ずっとやりたかったことがあるんだ」
そう言った彼女の顔を見ると、その表情はあの頃を思い出させた。
3
小学校の屋上で星空を眺めたい、それが彼女の提案だった。断る理由がなく提案を受けたその日は丁度終業式で学校が早く終わったので、下見がてら五年ぶりに母校に行ってみることにした。学校から帰宅し私服に着替え、バスの中で読み終えようと思っていた本を読み終え、時間に間に合うように待ち合わせ場所に向かった。彼女の家だ。
高校に通う今でも同じ通学路を通っているのだが、自転車に乗りながらの通学になったので歩くのは本当に久しぶりだった。あの頃から身長も伸びたので目に映る景色も違って見える気がする。田んぼだらけだった農道は少し開発が進み一軒家がちらほら立ち並ぶようになり、シャツを汗と泥で輝かせた子供たちもどこにも見えないので「気がする」ではなく事実違うことに気付いた。しばらく道なりに歩いていると彼女の家が視界の端に入った。角を曲がると彼女が家の前で既に立って待っていた。
「おそい」
「ごめん」
少し微笑みながら彼女は言った。歩き始めた彼女の隣を歩く。こうして二人で歩くのも本当に久しぶりだ。
「並んで歩くの久しぶりだね」
思っていたことを彼女が言った。なんだか恥ずかしくなって何も言えなかった。
それからは冬休み何をするとか、少し先に控えた大学受験の話とか何気ない話を繰り返していると小学校の校門の前に着いた。ここに通っていた頃はこの校舎がまるで世界で一番大きいんじゃないかって思っていたけれど、長い時間を経て改めて見た元学び舎は片手に納まるくらいんじゃないかってくらいちっぽけに思えた。たぶんそれは今が冬休みでグラウンドを駆け回る少年少女が見当たらないからかもしれない。僕は踵を返して今まで歩いてきた道を引き戻そうとした。すると左手が温かいものに包まれた感触があった。彼女の右手が僕の動きを引き留めていた。
「どこ行くの」
「え、こうして無事にまだあることを確認したから帰るんじゃないの」
「夜来て屋上の扉が開いてなかったらどうするの、ほら行くよ」
「えっ、ちょ、」
彼女になされるがまま防犯意識の低い校門をくぐる。ちっぽけに思えた校舎は近づいていくにつれて本当に小さく感じて、あの頃ここに全部詰まってた夢と希望はもうどこにもなかった。残っていたのは今は誰もいない教室の群れと良くない噂の多かった三階の音楽室だけだった。
「この音楽室にも夜な夜な鳴り響くピアノの旋律、みたいな七不思議あったよね」
音楽室前の長い廊下を速足で進んで突き当りを右に曲がり、階段を少し上って屋上に続く扉の前にたどり着くまで彼女の返答を待ったが見事に無視されたことに落ち込んでいると、ドアノブの回る音が二人しかいない校舎に響き渡った。
「開いたよ」
まるで鍵が掛かっていないのを知っていたのような表情で僕を見た。薄暗いのではっきりと見えてはいないだろうが落ち込みが滲む顔を見られたくなかった僕は扉を少しだけ勢いよく押し開けて、一足先に屋上へ出た。突風が全身を引き締めるように吹いた。顔に滲んでいたものもどこかに吹き飛んでいった気がした。
「開いててよかったね」
いつの間にか僕の隣に並んでいた彼女が言った。けど僕には分からなかった。
「いったん帰ろっか」
今度は彼女が一足先に扉を抜けて校舎の中へと入っていった。分からなかった。さっき彼女が何であんな表情をしたのか、僕には分からなかった。
4
午後十一時、使い捨てカイロ(貼らないタイプ)を右手に持ち、昼間より暖かい恰好をして僕は家を出た。昼間と同じ道を歩いて彼女の家を目指した。あれからずっと、彼女のあの表情の意味を考えていた。あの時、何故あんなに寂しそうな表情をしたのか、女心を分かっていない僕が悪いのか、彼女心を教えない彼女は悪くない。暗闇に目が慣れ、使い捨てカイロがようやく暖かくなり始めた頃、彼女の家が見え始めた。
「おそい」
「ごめん」
微笑んだ彼女の表情は昼間の時と変わらないように見えた。僕の勘違いなんじゃないかってくらい自然に笑って、昼間の出来事が実はなかったんじゃないかってくらい、普通だった。
「あ、」
右手に持っていた使い捨てカイロを彼女に奪われた。作られた暖かさが冬の夜に消えていく。彼女は初めから左手に持っていたものと僕から奪った右手のもので頬を埋め尽くした。
「女の子は寒がりなんだよ」
そういうなら初めから二つ用意しておけばいいのに、とは言えなかった。両手をコートのポケットに突っ込み、これ以上手がかじかまないように努力していると校門の前を気付かずに通り過ぎてしまうところだった。
「こうやって見ると結構雰囲気出てるね」
「怖いの」
何となく、流れで聞いたつもりだった。
「な、何言ってんの!そ、そんなわけないじゃん!」
明らかに動揺している。彼女が怖がりなのを今初めて知った。もしかしたら音楽室の話をした時も無視されたんじゃなくてただ動揺してただけなんじゃないかって思うと勘違いしていた僕がただ恥ずかしくなった。けれど僕が勝手に解釈した真実は僕を少し強くさせた。
「帰ってもいいんだよ」
彼女はまんまと挑発に乗った。
「行くよ!」
強引に僕の手を引っ張り、防犯意識の低い校門を抜けて彼女は不気味に佇む夜の校舎に足を進めていった。
5
深夜の校舎内は心霊的なものを少しも信じていない僕でも怖気づくものがあった。特に三階、音楽室前の廊下なんか別の世界に迷い込んだ気になるくらいその雰囲気があった。音楽室の七不思議も間違ってなかったのかもしれない。
「わ、私の前を歩いてよ」
「後ろから音楽室のお化けが襲ってくるかもしれないよ」
僕にはまだこんな冗談を口に出せる余裕があったが、そんな冗談を冗談と捉えることが出来ないくらいに余裕のない彼女とはやっぱり並んで歩くことになった。建物の老朽化が進んでいるのか、少し風が吹いただけで窓がカタカタと音を立てて、それに過剰に反応する彼女が僕の右腕にしがみつくまでが彼女の一つの流れになっていて、それに過剰に反応するのが僕の中で一つの流れになっていた。長い廊下を半分ほどまで攻略した時、外で起爆剤のスイッチを押したように強い風が吹き、それに反応して校舎全体が叫び声をあげたのかと思うような、ビュオォォォという声が耳を強く刺激した。その声によってスイッチが押されてしまったのか、元学び舎に負けないくらいの悲鳴が僕の右耳を使えないものにした。言葉にならない声が出た気がした。
「び、びっくりした」
「び、びっくりさせないでよ」
僕は左手で右耳をマッサージし、彼女はもぎ取るつもりなんじゃないかってくらい僕の右腕にしがみついた。そこに過剰に反応する僕はもういなかった。
その後は何事もなく廊下を進み終え、屋上へと繋がる扉の前まで来ることが出来た。
「これで鍵がかかってたら笑えないよね」
本気でそう言っているであろう彼女を視界の端で見て僕は少し微笑んだ。汗ばんだ左手でドアノブに手をかける。昼間と同じ音がして鍵なんかかかっていないことを確信した。
「開けるよ」
ドアノブを回し、左腕全体に優しく力を込めてゆっくりと扉を押した。隙間から漏れる微かな星の光に吸い込まれるように、僕と彼女は貸し切りのプラネタリウムへと入っていった。
6
「綺麗だね」
頭上でどれよりも輝くあの星と彼女が重なった。隣に座る彼女も僕にすればあの星と同じくらい輝いていて、十七歳にもなって好きな女の子の顔すらちゃんと見れないなんて本当に情けない。けど僕は決めてきたんだ。いつまで経ってもこのままじゃダメだ、今日こそ、今日こそちゃんと伝えようって。
「あそこに三つ星が光ってるの見える?」
彼女にそう言われて指さす方向をなんとなく見た。頭上の真っ黒なキャンパスの上で無数に輝く星の中、強く光る星を三つ確認することが出来た。一つは彼女と重なった星だった。
「あれ冬の大三角形なんだって、大三角形は夏にしかないと思ってたよ」
今調べたんだろう、彼女の右手には使い捨てカイロではなく明かりのついた携帯が握られていた。
ふと思う。彼女は僕なんかと一緒にいて、僕なんかと星を見て、楽しいのかと。友達の少ない僕を小学二年生からの仲として気を使って仕方なく遊んでくれているだけじゃないかと。心の優しい彼女ならきっとやりかねない。僕と彼女を繋いでいるのはあの日の鉛筆と消しゴムだけなんだ。僕の心が星の光じゃ照らせないくらい暗くなっていく。
「星って見てるだけで発見が多くて楽しいね」
僕は僕の心がどんな状況であれ彼女の声には反応してしまうようにできているのかもしれないし、彼女の笑顔で今までのどんなネガティブな考えも飛んでしまうくらい単純に出来ているのかもしれない。
「綺麗だね」
これくらい簡単に、かつ柔らかい表情で伝えることが出来たらいいのに。十年という長い月日の中で育んだこの気持ちはそんな簡単に言葉にはなってくれない。でも、決めたんだ。どう転んでも鉛筆と消しゴムだけで繋がった関係より前に進もうって。彼女にちゃんと、想いを伝えようって。
僕は心の中に隙間を作り始めた。彼女の答えをちゃんと受け止めれるくらいの余裕と、現実をちゃんと受け止めれるくらいの余裕と、余裕がある男のほうがモテるってどこかで聞いたからだ。心の引き出しの中をちゃんと整頓して引き出し五つ分くらいの余裕は確保しておきたい。けれど彼女との思い出はすぐ思い出せるように、甘いものは別腹みたいに少し特別な引き出しに収めることにしよう。あの日の彼女の笑顔はすぐ引き出せるように。
三角座りをして膝の上に置いた両手の右手の袖口を普段なら気付かないくらい軽く引っ張られた気がした。目を向けると右手の袖口に僕のではない手が伸びていて、それが彼女の左手というのはすぐには分からなかった。そのまま視線は彼女の左腕を伝っていき、目が合うところで止まった。
また分からなかった、彼女の表情の意味が。昼間の時とは違い今度は緊張しているように見えて、それが左腕を伝ってせっかく作った心の余裕を埋めていく気がした。
「また、見れるよね」
星なんて明日も明後日も明々後日も晴れていればいつだって見れる。そんなこと口にしなくたって、わざわざ僕に聞かなくたって分かることだ。彼女はそんなに星が好きだったのか。見れないことを思って緊張しているのか。なら僕が一言「見れるよ」って言ってあげることによって安心するんなら今すぐにでも言ってあげたかった。でも言えなかった。直感が今しかないと言っていた。幾多の恋愛経験も実戦もしてこなかった僕の頭が「言え!」と言っている気がした。
もう一度、ちゃんと彼女の目を見つめた。彼女は待っていた。作った心の引き出し五つ分の余裕がもう四つ埋まっていた。
「す、、す、、」
引き出し一つ分の余裕じゃ息を漏らすことが限界で、そのあとの言葉が続いてこなかった。一つ分の余裕も彼女に対する想いで埋まっていく。デキる男は溢れる想いってやつをそのままダイレクトに伝えれるのかもしれないが僕はデキない男だ。溢れる想いをどうにか抑えようとしてしまう。
「す、、、」
「・・・」
「・・・綺麗だね」
本当に情けない。あれだけ覚悟してきたつもりだったのに、寸前になって逃げてしまった。せっかく整頓した引き出しもグチャグチャで、彼女の笑顔もすぐには思い出せそうになかった。情けなくて彼女の顔もまともに見れない。冬休みの間は会わなくて済むけど、学校が再開したらしばらくは適当に理由をつけて登下校も別々にしよう。これで僕の孤独な戦いは終わっ
「ばか」
右の頬にチクッとした感触があった。隣を見ると三角座りをした彼女が膝の上で腕を組んで、その中に顔の下半分隠していた。
僕と彼女の微妙な距離感の間に小さく丸められた紙くずのようなものが落ちていた。さっき彼女はこれを僕に投げつけたのだろう。拾い上げてみると相当年季が入っていてあまり強く握るとボロボロに崩れてしまいそうだった。そっと開くとうっすらと何かが書いてあるのが分かった。ズボンの左ポケットから携帯を取り出し、微力な光で紙を照らした。
分からなかった。そこにあった文字は彼女のものではなかった。今の僕のものでもなかった。その幼い五文字は、昔彼女の筆箱の下に忍ばせた手紙だった。僕が鉛筆と消しゴムを今でも大切に保管しているように、彼女も持ってくれていたのか。彼女の横顔を覗く。どこを見つめているのか暗くてよく見えなかった。やっぱり彼女心は分からない。