1.時間
おかしい。何かがおかしい。何がおかしいのかと聞かれたら答えられないが、とにかく何かがおかしいのだ。
「一体何が…」
僕はぽつりと呟く。その声は、静寂の中へ溶けていった。耳に入ってくるのは、自分の動く音のみ。それ以外は何も聞こえない。
「…あっ!!」
と、そこで僕は『何がおかしいのか』気付いた。急いで時計を見てみると、案の定、
「…止まってる……」
針は動いていなかった。
おかしかったのは、音が全く聞こえなかったことだった。いつもなら、針の音が部屋中に響いているのだ。
(電池切れだな…)
僕は時計を手に取り、裏の電池蓋を外した。そして、古い電池を抜き、新しい電池に取り換えた。これで直るはずだ。
「…あれ?」
しかし、時計の針は一向に動かない。電池切れではなかったのか。
「とうとう壊れちゃったか…」
僕は溜め息をつき、時計を片手に部屋を出た。そしてリビングに向かう。リビングにいる母に、新しい時計を買う費用の交渉をするためだ。
「お母さーん、時計が…」
リビングの扉を開けながら、声をかける。しかし、そこに母はいなかった。
「出掛けてるのかよ…」
仕方ない、帰ってくるのを待つか、と僕は呟いた。辺りには静寂が流れる。
僕は静寂が嫌いだ。何だか、寂しさを感じる。だから僕は、何か音を出そうとテレビをつけた。
「…あれ?」
テレビはついた。しかし、大きな違和感がある。それは、
「何で…動かない?」
画面が停止していること。
画面に映る有名な芸能人は、笑ったままで動かない。勿論、音も聞こえない。一度電源を切ってつけなおしても、変わらなかった。
「テレビまで壊れてるなんて…」
僕は大きく溜め息をついた。今日は何かと不幸な日だ。
暫くの間ぼーっとしていた僕だったが、喉が渇いたためキッチンへ向かった。
しかし、キッチンに着いた途端、僕の歩みは止まる。そこには、
「…お母さん?」
母が笑顔でフライパンを片手に、停止していた。フライパンの下では、火が赤々と燃えている。
「ちょっと、お母さん?」
僕は母を揺すった。母の体から温もりは失われていない。良かった、死んではいないようだ。しかし、それなら一体どうして動かないのだろうか。
僕はとりあえず火を止めようと、母の前で屈んだ。そこで、僕は有り得ない現実に気付く。
「何、これ…」
赤々と燃え、近付けば熱を感じる。そんな火が、動かずに止まっているのだ。有り得ない。
今日は色々とおかしい。時計とテレビが壊れていたり、母や火が止まっていたり。一体どうしてだろうか。
「…まさか」
僕の頭に、一つの仮説が浮かんだ。最も、現実的には絶対に有り得ないことだが。
僕はそれを確認するために、急いで玄関に向かった。そして、靴も履かずに外へ飛び出す。
「…有り得ない」
外には、『有り得ない』世界が広がっていた。僕は唖然と、口を開けたまま突っ立っていた。
何もかも、止まったままで動いていない。信号も、車も、時計も。そして人間までもが、停止しているのだ。これは一体どういうことなのか。答えは、一つしかない。
僕以外の時間が、止まってしまったのだ。今の世界で、時間の流れに逆らっているのは僕だけだ。止まっている人々からすれば、一瞬の出来事なのだ。
「あは…あははは!」
僕は久々に大声で笑った。この状況が、とても愉快だった。今だけは、この世界は僕のもの。こう思うと、楽しくて仕方なかった。
さあ、何をしようか。どうせなら、いつもはできないようなことがしたい。今は僕を怒る人などいないのだ。何をしようが僕の自由だ。
そんなことを考えながら、いつもの道を歩く。そんな時、ふと目に止まったのは、
「…あ、先生だ」
僕の担任教師だった。
担任といっても、いつも遊んでばかりで学校には滅多に現れないが。だから僕は、先生がとても嫌いだ。殺せるのなら、殺してしまいたいほど。
(今なら、殺せるのか)
僕は口角を上げた。楽しくて仕方がない。今の僕には何でもできるのだ。例えるならば、神。
一度家に帰って包丁を持ってきた僕は、包丁を先生に向けた。やはり先生は動かず、薄笑いを浮かべたままだ。
「さようなら」
僕は笑いながら、包丁を突き刺した。グチャリ、肉が切れる感触がする。服に血がついてしまったが、僕は気にしなかった。それどころか、人を殺すという行為に快感を感じてしまっていた。
僕は高笑いしながら、今度は学校へ行ってみた。今は、一時間目が始まる少し前くらいか。しかし、僕のクラスは荒れている。
「あいつらも、うざいなあ」
僕は教室の扉を開けた。そこには、いつも通りゲームなどで遊んでいるクラスメート達がいた。勿論、教室に教師はいない。
「うざい、うざい、うざい」
僕は、楽しそうに遊ぶクラスメート達を片っ端から刺していった。何だかせいせいした気分だ。
そして、僕の机の上に置いてあった花瓶を倒す。花は枯れ、水も殆ど入っていない状態だったが。
「あはははは!」
教室中を真っ赤に染めながら、僕は高笑いを繰り返す。でも別に、罪悪感なんてものはない。僕はただ、要らない人を消しているだけだ。
<ヤメテ>
突然、頭の中に声が響いてきた。機械的なその声は、妙に僕を苦しめる。
<コレイジョウ、イミノナイコトヲスルノハヤメテ>
なぞの声は、さらに聴こえてくる。頭に直接響くような、無機質な声。何故か僕は、その声が怖かった。
「っうるさいうるさいうるさい!」
謎の声に動揺して、意味もなく包丁を振り回す。しかし包丁は、既に息絶えている奴らを更に切り裂いただけだった。
声は未だ、響き続けている。僕は頭を抱えて座り込んだ。
<モウコレイジョウ…>
『罪を犯さないで』
やがて、無機質な声は生身の人間のものに変化していった。そしてそれと同時に、僕の周りが暗くなる。
『大丈夫、きっと貴方はまだやり直せる』
顔を上げた僕が見たのは、『僕』だった。顔つきや声が少し、ほんの少しだけ大人びている。
『はじめまして、過去の僕。』
そう言って『僕』は薄く笑った。よく見ると、『僕』の瞳は涙でうるんでいる。それは瞬きをすれば、簡単に頬を伝っていった。
『もう、やめて?このままじゃ、貴方は……』
『僕』は泣きながら言う。それが僕には理解できなかった。
(この僕に刃向かうのか。この僕を…)
僕は、僕を止めようとする『僕』が邪魔になった。怒りが湧いた。殺意が湧いた。だから僕はまた同じように、『僕』を刺した。
『…何で……?』
『僕』は静かに倒れこむ。床には赤い血が流れていった。それは他の乾いた血の上を上塗り、更に赤く染めていく。僕はそんな様子を、嘲笑いながら見ていた。
『この罰は…未来で、必ず……』
僕を睨み付ける『僕』はそう言ったきり、動かなくなった。そして刹那、『僕』は其処から消えた。飛び散った血も、全て始めから無かったことのように消え去ったのだ。
そして、その直後。突然世界は動き出した。僕が刺した奴らが倒れこみ、喚く。僕は包丁を握り締めたまま、その場で立ち尽くしていた。時計の針の音が、やけに煩い。
動かなくなった奴らが息絶える間際、僕を睨み付けていたような気がした。
それから数分後。警察官達がやってきて、僕を取り押さえる。僕は何の抵抗もしなかった。いつの間にか握っていたはずの包丁は、床に突き刺さっていた。
そのままパトカーに乗せられて、警察署へと連れていかれる。僕は何故か冷静だった。全て他人事であるかのように、何も言わずにただ無表情でいた。
「それで、どうして君はあんなことをしたんだい?」
年配の警察官が、取り調べ室で僕に聞く。物腰の柔らかい言い方だったが、表情は到って真剣だった。
「さあ、どうしてでしょうね」
僕は薄く笑い、そう返す。そんな行動さえも、もう自分ではないようだった。
僕は何も喋らなかったが、この事件は解決したらしい。"一人の学生が気を狂わせて、クラスメートを皆殺しにした。"ただそれだけの話なのだという。
落ちていた包丁に傷一つない僕の血と離れた場所で謎の死を遂げた教師の血がついていたことは、隠蔽されたらしい。都合の悪いことは隠す、警察はいつもそんなものだ。
やがて僕は牢屋に入れられた。本当は死刑になってもいいくらいだが、未成年だという理由で無期懲役となった。未成年、それで罪が軽くなるなんて、警察も大したことがない。
それから幾月。もう牢獄の生活にも慣れた頃。でも僕は、未だ現実を信じることができずにいた。否、どこか客観的に自分を見ていたのだ。もう、自分が自分ではないようだった。
そんなある日、僕は夢を見た。人生を変えたあの日の夢。それは何故だかとても鮮明で。まるであの日を客観的に見ているようだった。
(ああ、なんてくだらない。あの日の僕は、なんて醜いのだろう。)
そして僕は、一つの行動を始める。どうせ夢の中、起きればまた無機質な牢屋の中なのだ。それなら、夢くらいしか楽しみはない。
それなら、僕は――――――。
<ヤメテ>
《次のニュースです。》
《今朝、とある囚人が刃物で刺されて亡くなっているのが発見されました。》
《何故亡くなったのかは、分からないそうです。》
《凶器は、未だ見つかっていません。》