一ページ目 『怪物よ泣き叫べ』:七行目
遅れて申し訳ない。
やりたいことが多すぎた。
赤い夕方と黒い夜の境目が半々になる頃。
先生とシオリの二人はあの館の前にいた。
結構年期の入った古い洋館で、壁の塗装があちこちはがれていた。今にも崩れそうだ。大きな庭もあるが、草が自由放題に伸びている。幸せそうだ。
先生とシオリの二人は遠慮なく、堂々と庭に入った。
そして両開き扉に備え付けられたベルを鳴らす。
「はーい! アレックス先生」
そんな若い女性の声と共に扉が開いた。
ちなみに、先生の名前は決して『アレックス』ではないし、『シュガー』でもない。
「えっと......。どちら様ですか?」
「初めまして。歯医者をしております、トム=ウルフです」
そして、歯医者でなければトム=ウルフでもない。
「......初めまして。ここの院長をしております、クローバーです」
クローバーは二人のことを怪しんでいるようだった。
まあ、無理はない。
ひとりは真っ黒で、もうひとりはぶどうを頭の上に乗っけているのだから。
「すみません。急にお邪魔して」
「いえいえ......どのような、ご用件で? ここはただの孤児院ですが」
「僕たちは旅人でして、昨夜、この町に辿り着いたのですが......お世話になった宿が営業を停止いたしましたのでね。今夜泊まる場所がないのですよ。困り果てたところで、ふと、この屋敷が目に入りまして。どうか、自分らをここに泊めさせてはいただけないでしょうか」
「はあ......。えっと、少々お待ちください」
院長はそう言うと、中に戻り扉を閉めてしまった。
......。
............。
..................。
さすがに怪しすぎるか、と先生は肩をすくめたものの、以外なことにもう二度と開かれることはないと思われた扉はあっさりと開かれ、中から院長が身を出した。
「はい、どうぞご遠慮なく、お入りください。部屋がいくつか余っていますので、案内しますね」
「......感謝します」
先生とシオリは院長に中へと案内され、質素な部屋を紹介してもらった。
家具以外はゴージャスな部屋だ。あの宿と違ってカビ臭くなく、窮屈でもない。旧ドイツで一晩借りた城を連想させる壁紙に、お洒落なデザインの窓枠。
そして、カーテンらしきボロボロの薄い布に、触れただけで倒れそうな薄い机に薄い椅子。
豪華と質素が入れ混じったような、ちぐはぐな空間だ。玄関は見栄を張っているのか、これより多少マシではあったが。
「素晴らしい部屋を貸していただきありがとうございます。ここならゆっくり、体を休めそうです」
「あはは、お世辞ありがとうございます。あ、そうですね......。夕食はもう、お取りになりましたか?」
「いいえ、それはまだ」
「よければ、ご一緒にいかがですか? 是非とも、子供たちに旅の話をお聞かせください」
普段ならば、先生は丁重に断るだろう。だが、こんなおいしい話はない。多くの人は食事の際、口が軽くなるものなのだ。
ちなみに今、先生とシオリは潜入調査中である。
Isの連中に頼まれたとか、そういうわけではない。先生は今、ほぼ私情で動いている。もちろん仕事のことを忘れてもいない。
『クライアント』はこの孤児院にいると、先生は確信さえしている。
「それはありがたい。ご馳走になります」
「では、食事の準備ができましたら呼びますね」
クローバー院長はそう言うと、廊下の奥へと消えて行った。厨房に向かったのであろう。コックを雇う資金があるとは思えない。
先生は部屋の扉を閉めたうえに鍵をかけ、そしてダブルベッドへと倒れこんだ。
「......やはり、嘘は疲れる」
「先生、無理しないでね?」
シオリは横になった先生の隣に腰を下ろしながら言った。
そして先生の頭を撫でる。
「さーて、と。どうしたものか......。警鐘はまだ鳴ってはいないものの、それも時間の問題だな。仕事はもちろんのこと、怪物もできれば......」
「どっちを優先するの? 仕事と、怪物」
「仕事だ」
先生は断言した。そして
「あと、お前は怪物のことは気にしなくていい」
そう付け加えることも忘れない。
これは『俺の私情に口をはさむな』という警告でもある。