ラストシーン
秋山千晶が同級生の男子三名の顔面を殴打し、一週間の謹慎を受けた。
文化祭が終わり、余韻に浸りながらも各展示を壊し、片付け、学校はあっという間に元の学び舎の姿を取り戻した。
それが先週の月曜日のこと。
幸魂高校はその後火曜水曜と二日間の振替休日期間に入り、またとない平日の休みに遊園地や観光名所を訪れる生徒が大半であった。
そうして遊び疲れた者、再びの学校に倦怠感を隠さずに臨む者、案外普段と変わらぬ姿で登校する者、様々な思いを胸にそれぞれの文化祭は終わりを告げ、日常へと帰ろうとしていた。
みもりは休みの間に生徒会の打ち上げと、そしてクラスの打ち上げの両方に参加して、普段は節約している小遣いが二日間で随分と消費したことを若干悲しみつつも、十分にその尊い時間を楽しんでいた。
ちなみに、クラスの打ち上げには千晶も来ており、多分にからかわれたりもしている。当然主犯は蘭菊と千夏であった。
文化祭が終わったため、今度は来年に向けて後処理が生徒会の仕事としてはやってくるわけだが、奏音は、少しくらい休むことも大切です、と今週は作業を行わないことを生徒会面々に伝えた。
みもりもここ最近は、ただでさえ劇の練習と生徒会の仕事、という二束の草鞋を履くような真似をしていたのに加えて、今回の騒動があり心身共に疲れきっていたので、その配慮を有難く享受し、たまにはと授業が終わったタイミングですぐに帰宅し、家でゆっくりまったり、インスタントコーヒーを飲みつつ読書三昧な日々を謳歌していた。
そして、みもりが衝撃的な噂を耳にするのは、週明けの月曜のことである。
朝早くに登校したみもりはクラスにていの一番に「聞いた!?」と全員から尋ねられた。
何の話なのかさっぱりわからないみもりが聞き返すと、件の話を聞かされたのだ。
事件が起きたのは土曜の午後、帰りのホームルームが終わり、下校時刻となった直後のこと。
廊下に出て話をしていた一年生の男子三人組に千晶が殴りかかった。
そのまま三対一の喧嘩が始まり、互いに怪我を負ったものの幸い誰も軽症以上のものはなく、病院に搬送されるような事態にはならなかったそうだ。
駆けつけた教師がどうにか止め、その後詳しい話を千晶と、他三人に聞いたのだが的を射ないようで、どうして千晶が急にきれたのかは不明らしい。
ともかく学校側としては一旦落ち着かせること、そして保護者に説明をする時間をもらうことが必要だと考え、千晶は勿論、三人の男子生徒に関してもひとまず一週間の謹慎処分を下す、という方針を採った。
それ以上詳しい話は生徒側としては把握できていないらしい。むしろよくまぁここまでの情報を知ることができたものだ、と暢気にみもりは考えた。
「何か聞いてる?」
朝だけで二桁は聞かれたその問いに、毎回同じ答えを返す。
「知らないですわ」
知らないものを期待されても困る、別に自分は秋山千晶の何でもない、と宣言しているかのような冷たい返答に、『一年一組のクラスメイトは森崎みもりと秋山千晶が喧嘩した』と見当違いの見解を一致させた。
恐らくは別れてしまったのだろう、そのショックか腹いせか、千晶はむしゃくしゃして殴ってしまったのかもしれない。そのような妄想を察したクラスメイトが微妙に慈愛の表情をみもりに向けるが、当のみもりは別れるどころか付き合ってすらいない。ついでに好きだなんだという話をしたこともない。
みもりはあまり変な噂を聞きたくはなかったし、自分のところになにかを尋ねにも来ないで欲しいと感じていたのだが。
噂というのはしかし、どこにいても聞こえてくるものだ。
「聞いた? 秋山くんの話?」
「聞いた聞いたー急に殴ったんだって? なんか怖いよねー」
「元々見た目もちょっと怖いしねー」
「あー、俺もあいつらに話聞いたら本当に文化祭について雑談してただけなのに殴られたっつってたぞ?」
「なんか前文化祭の練習してるときも急に森崎さんにきれたことあったらしいし」
「第一この時期に転入とかおかしいもんな」
「もしかして前の学校で暴力沙汰やらかして転校させられたとかないよな?」
「いやわかんねーぞ」
「口も態度も悪いし、口数自体も少ないし、無愛想だし」
「そういえば友達がこないだ図書館にいる秋山見かけたって言ってたな。なんか難しい本読んでたらしいぜ?」
「なにそれ、自分は高校レベルじゃ満足できない、みたいな?」
「さーなー」
うるさい。
廊下から教室から、どこからともなく千晶の話が聞こえてくる。
辟易してしまう気持ちをどうにか縛り付けて、みもりは授業の準備をして、教科書を眺める。
最初の授業は数学だ。そろそろ覚えるべき公式も増えてきて大変なのでしっかりと予復習はしておきたい。かなり腕を動かす必要があるが、そうしないといざ試験の場で解けるかどうか自信がないのでなるべく自分の試行錯誤も含めて紙に書いて勉強している。
最近の数学はもはや数式ばかりで、数字を書く機会が減ったようにも思うのだが、これが本来の数学なのかもしれないと考えると、少しだけ面白くも感じる。一足す一が学問にならないことはよくわかるし、その理解の有無が世界の重要な理であるような気もしない。
(これ以上はどうでもいい思考になりすぎる……気がしますわ)
気を紛らわそうとする自分の無理やりな思考がすぐに途切れる。
どうにも集中できない。
「あー、みもり?」
と、そこに千夏が心配そうな顔で話しかけてきた。
その顔からして、恐らく彼女も千晶の話だろう。
「その、気にしなくていいと、思うよ? 私たちはほら、秋山くんが優しいこと知ってるし、その、殴ったのって何か事情があってのことだと思うし」
(……?)
一瞬、何を言われてるのかわからずに疑問符を浮かべたが、すぐに千夏の発言の意図に気付き、今の自分を客観的に見ると、そう映るらしいことを知る。
「あの、私、落ち込んでませんわよ?」
「うん、だいじょう……んん?」
千夏がフリーズする。
落ち着いた様子のみもりに、何故か励ますつもりで首を傾げる千夏。奇妙な光景がそこに残り、千夏は、
「あ、うん、大丈夫なら、いいや……」
と自分の席に戻っていった。
戻ってからも何か納得いかない様子で呟いていたが、みもりは聞き耳を立てるようなことはせず、ぼーっと授業が始まるのを待つ。
ぼんやりと眺めるのは、誰も座らない、誰も近づかない、とある席。
一日で何十人もみもりの元を訪ねてきたのは、果たして、千晶に対する関心が高いのだと喜ぶべきか、千晶とみもりの仲が半ば前提になっているのかもしれないと憂うべきか、はたまたそのことは喜ぶべきか。
みもりは授業が終わると、すぐに下駄箱へ向かった。
いつもよりも早足でぐんぐんと廊下を進む。
「あれ、みもり?」
「あ、詩織」
声をかけられた方を見ると、自分とは逆方向、つまりは生徒会室へ向かおうとしている詩織と鉢合わせ、その詩織が下校しようとしているみもりに、どうかしたのかと訴えている。
隠すことでもないどころか、メールか電話で話しておこうとは思っていたみもりは簡潔に、何も悪びれることなくお願いをする。
「私今日、ちょっと生徒会お休みします」
「え、は? いや、まぁいいけど、なんで?」
「う、ん……? なんで?」
「なんで、ってみもりのことでしょーが」
呆れて頭を抱えた詩織だったが、みもりの目を見て、どうやらふざけてるわけでも、自分を見失ってるわけでもないらしいことにはすぐに気付いた。
タイミング的には千晶に関わること、だろうと思うのだが。
ひょっとするとこれから千晶に会いに行くのかもしれない。
ただ、それにしては少々、テンションがおかしい、ように詩織には見えた。
落ち着きすぎ、ではなかろうか。
「そうですわね。私のことね。うん、うん。千晶に会ってきます。噂は聞いてるでしょう?」
「聞いてるけど。でもみもりが、その、あんまり慌ててないね。もしかして秋山くんがどうしてあんなことしたのかみもり知って、るわけないけど、察しがついてたり、する?」
「そんなことでも、ない、ですけど」
「そっか」
微妙な否定。
みもりは質問に対して、答えるべきときはきちんと答える。
言いあぐねるときは下手な嘘をつく。
今は、誤魔化すほどのことでもないことを、誤魔化した声色だった。
詳しく訊きたいとも思ったが、千晶のことで特に力になれることもない。詩織はぽんとみもりの肩を掴んで、百八十度回転させる。そのまま、少しだけ、背中を押してやる。
「わ、詩織?」
「いいよ、先輩には言っておいてあげる。その代わり、んと、そうだな。責めちゃ駄目だよ」
「ありがとう詩織。でも」
みもりは手を振りながら、特に普段と変わらぬ笑顔で、しかし。
「責めますわ」
などと答え。
やはり何を考えているのか全くわからない、と、詩織は悶々とするのであった。
千晶も千晶で素直じゃない上に感情がわかりづらい話し方をしていたと詩織は感じたしみもりも千晶の心情が読めずに悩んでいたりするらしいのだが、みもりも大概素直ではない。ついでに何を考えているのか、案外わかりづらい。
親友ならではの経験則からおおよその推察はできるのだが、最近、特に千晶絡みになるともはや詩織の手には負えない状態なのであった。
詩織は廊下に立ち尽くし、既に消えた背中に向かって、愚痴る。
「ちょっぴり大人になっちゃってさ、馬鹿みもり」
それが同じくらい。
嬉しいことを。
自覚して。
詩織は仲間の待つ生徒会室へ、小走りで進んでいった。
みもりは真っ直ぐ出来る限りの全速力で家に着き、部屋に入るやいなや制服を脱ぎ捨てた。
家には誰もいなかったが、みもりは特に何も聞いていないので母と理紗は買い物にでも出かけているのだろう。
軽く汗を流す程度にシャワーを浴びる。烏の行水とばかりに洗面所へ出て、髪を乾かす。量が多いのでどうしても時間がかかるが、少しでも濡らしたならば気にしないわけにはいかない。長い髪を下ろして丁寧に、丹精込めて流していく。癖のあまりない艶やかな流線が毛先まで続いている。
ひとまず髪を整え終わると、気勢をそがれる前にさっさと洋服を見繕う。
派手すぎず、地味すぎず。ふざけていると思われない程度に、しかしながら、ださいとは思われないように。
暗いワインレッドのプリーツに合わせたニットのトップスは秋に映えるチャコールグレー。足首を覗かせる靴下を履き、スニーカーで行こうかなと、全体にガーリーな印象と大人しい印象の双方を持たれるよう工夫を考える。
内心、わかりにくい名称多いわよね洋服って、と思いつつ、しかし覚えるのがそう苦痛でもない自分もそう嫌いではない。さすがに今現在の小学生がテレビに出てきて紹介するようなアイテムは知らないことが多いが。知らない、というか、小学生があんなに化粧だなんだとするもんじゃあないのではないか、とみもりは思ったりもする。ただし、その辺りは親の影響が強いのかもしれない。
年端のいかない少女たちのおしゃれ事情に思いを馳せながら、リップを塗る。唇に艶や光の反射があるか否か、というのは印象に相当な違いを与えるものなのだが、女子が思っている以上に大半の男子はその差に気付かない。気付いて指摘しないのではなく、気付いていないらしい。
気付いてくれるだろうか。
わからない。
「行ってきます」
誰もいないが、家に、自分の帰るべき場所に対して、出かけてくる、戦ってくると宣言しておく。
幸い今日は風がそう強くはない。下ろした髪が乱れる心配はそこまでなさそうだ。が、さすがにそのまま出るのは憚れて、部屋に戻って薄い上着とマフラーを身につける。
再度家を出ようとして、ふとあることを思いつく。
ペンを手に取り、さほど悩まず手を動かす。次いで文庫本と漫画を数冊棚から手に取り、ぱらぱら捲り、手提げバッグに入れて、全ての支度が完了する。
目的地は、秋山家。
徒歩二十分強で辿り着いた秋山家。
一度行ったことがあるため、やや早足で歩いたらそれなりの時間で到着することができた。迷わず来れるか、絶対の自信があったわけでもないので、一応そのことに安堵して、大きく深呼吸をした。
少しの緊張を解くように、長く息を吐いて。
それから躊躇わずに呼び鈴を鳴らす。
インターフォンから、聞き覚えのある優しい声がノイズ混じりに響いた。
「はい」
まだ秋山家ではインターフォンにカメラ機能は搭載していない、そのため、この時点ではまだ声の主はみもりが来たことを知らない。
「あの、私、千晶、くんのクラスメイトの森崎みもりです」
「あぁ、森崎さんちょっと待ってて」
数秒の後に玄関から出てきたのは、年相応に落ち着いた格好をした美奈だった。バツ一で、再婚前の男の家にいる独身女性、と聞こえは悪い立場にある彼女だが、そんなことを微塵も感じさせない明るさと強さ、エネルギーをその内に宿しているのがありありと伝わってくる。
千晶に対して誠実に向き合い、それでもなお千晶の父、大和との再婚を願った美奈のことを、みもりは嫌いではない。むしろ、好意的に捉えていた。
どんなことがあっても強く前を向いていけるのは、そう簡単ではない。
家族という繋がりが問題となれば、なおさらのこと。
「あらあら森崎さんいらっしゃい……ふふ、可愛い格好ね。髪も下ろしてるし、あ、リップだけ塗ってるのかしら」
「はい。少しだけ洒落てみました」
「似合ってるわよ本当。それでええと、もしかしなくても、千晶くんかしら?」
さすが、話が早い。
表情を読むのに長けているのかもしれない。
「はい、家にいますか?」
「ううん、今は出かけてる。行き先は言ってなかったけどたぶん、図書館」
「そう、ですか」
家にいないと聞いて肩から力が抜ける。
しかしすぐに気を取り直して図書館に移動しようと切り替える。
「森崎さん。千晶くんは事件のこと、理由とか、何を思ったのかとか、私にも大和さんにも話してくれてない」
疑問形でもない、事実確認。
まるで、みもりを試しているかのように。
美奈の表情は玄関を出たときの心地よい笑顔のまま、変わっていない。
「ええ、理由はわかってます。そっちを責めるつもりはないですが……残りは責めようと思います」
その淀みない答えに、美奈は一瞬だけ目を見開いて、すぐに元の表情に戻った。
みもりは、自分が試されていることすら気付かず。美奈は、みもりが試されていることに気付いていないことに気付かず。
しかし、互いに千晶を理解していることは伝わって、まるで本物の親子のように視線を交わした。
だから、言うべき言葉は。
「行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい。気をつけて」
それだけで、十分だった。
それから今度はのんびり歩いて、みもりは図書館を目指す。
居場所が分かれば、急ぐ必要もない。変に走って汗を掻きたくもない。
夕闇に染まりゆく世界を眺め、溶け合う空と家屋とをみもりはまとめて瞳に閉じ込める。
「綺麗」
声に出してみた。素直な心が口から零れた。
「会いたい」
声に出してみた。素直な欲求が口から零れた。
それでも歩幅は変えずに。
通いなれた図書館へ。
小説を読む行為は、経験と空想から創造されると、みもりはそう考えている。
小説で描かれる世界は、ジャンルはどうあれ、未知の世界だ。
知らない人が、知っている世界か知らない世界で、知っている能力か知らない能力かを持ち、何かしらの事件に能動的にか受動的にか遭遇し、その解決にひた走る物語だ。
主人公はどんな人物なのだろう。
主人公のいる世界はどんな世界なのだろう。
普通の世界と言われても、みもりは自分の住む町のことしか知らない。
ファンタジーの世界と言われれば、みもりは想像の中で膨ませることしかできない。
自分の知る世界に知らない世界を重畳して、また自分の中に新しい世界が生まれる。
空想を経験する感覚が堪らなく好きで、みもりはもっと沢山の本を読みたいと、図書館に通うのだ。
図書館は知識と未知の宝庫で、学校で得られる人間関係はないかもしれないが、学校では得られない蔵書を有している。
しかし今日は、その図書館に、人間関係を求めに来ている。これまで幾度となく訪れたこの図書館に、初めて本以外の理由で足を踏み入れる。
平日の夕方は休日に比べ、図書館を訪れる人は多くない。
常よりも閑散とした空間の中に、みもりはすぐ目的の背中を見つけた。
迷わず進んで、隣に腰掛ける。
「……」
「……」
互いに一瞥する。
千晶の左隣に座ったみもりは眼前に垂れた髪を右手で耳の後ろに流す。視界の端に、変わらず本を読む千晶の姿が見える。
みもりもまた、来る前に持ってきた本を取り出す。別に図書館に来る予定で持ってきたわけではないが、様子を取り繕うにはもってこいのグッズだ。
だが、開くだけ開いて、みもりはそれを読みはしない。
自分と千晶の呼吸が合うタイミングを待って、話しかける。
「謹慎中なのに、図書館いていいんですの?」
本を捲る千晶の手が止まる。
「……」
返事がない。
まるで初めて会ったときのように。
気にせず、みもりは自分の言いたいことを続ける。
「人、殴ったんですってね」
「……」
「千晶は人を、殴るんですのね。殴れるんですのね」
「……」
「私も、詩織と喧嘩くらいしたことがあります。殴ったかどうか記憶は曖昧なものですが、お互いどうでもいいことでムキになって、思わず手が出たことくらいは。でもそれはまだ幼稚園とか小学校低学年とかのことで、もうずっと、喧嘩自体はあっても、暴力を振るうようなことはない」
「……」
「私は、人が傷つきやすいことを知っています。それも、今回のことでより一層。心も体も脆弱で、簡単に死んでしまいたいって、そう思えるくらい」
「……」
「だから、傷つきます。私たち、大人からすればまだたったの十五とか十六歳だけど、でも、少なくとも男子の、あなたの力は人を簡単に傷つける。殴るのもそう、勿論、言葉もそう」
「……」
「あなたの力は、言葉は、もう人を殺すことができる」
「……」
「千晶、あなただってわかってるはずでしょう。詩織がいなくなってからずっと私のことを見てくれていたのだから、よくわかってるはず。詩織の言葉がなくなったら、詩織の存在がなくなったら、私は耐えられなかった」
「……」
「そこまで知っていてよく人を殴れますわね。よく人を殴って平気な顔で、図書館で読書なんかできますわね」
「……」
「私、千晶のこと軽蔑しますわ」
「……」
みもりからの散々な物言いに対して、千晶は何も反応しない。
ただぼんやりと視線を前方に投げている。
それが無視しているわけではないことを知っているみもりは、もう一度だけ千晶の顔を伺って、視線を戻す。
静寂の空間から紙面に触れる音と足音だけが聞こえてくる。本を読んだり宿題をしたり、うたた寝をしたり、行為は自分の部屋でしていることと変わらないが、みもりがこの図書館という空間を好きなのは雰囲気と音があるからだ。
心地良いはずの場所が、今だけは少しだけ、空気が重たい。とはいえ重たくさせているのは、自分の心だが。
「……なにか、言いたいことはあるかしら」
「ねぇよ」
即答される。
言いたいことがあれば初めから言っているだろうから、その答えは予想できていた。だからみもりはもう一押しする。
「なにか、言ってよ」
今度は、お願いをする。
「そんなこと言いに来たのか森崎」
即答してくれた。
言いたいことはないと断言していたが、言い分がないわけではないだろう。
「人を殺せるだけの力で誰かを傷付けた。それで俺のことを軽蔑してる。あぁ、んで? お前そんなくだらない宣言するためにわざわざ来たのか? ご苦労だな」
棘のある言葉に、静かながら迫力のある声色。
千晶のペースに巻き込まれないように気を付けつつ。みもりは感情が表に出てこないようにも注意する。
「存分に蔑めよ。別にお前に嫌われようがどうでもいいことだ。元々友達でもなんでもねぇ」
「大石先生が少し世話を見てくれって言っただけ、ですものね」
「わかったらとっとと帰れ。邪魔だ」
「……はぁ」
本当は残念でもないくせに、残念そうな声を出す。
何もわかっていない。
自分のことを棚に上げて言うが、全く。この秋山千晶は人の気持ちを理解しようという気がないのだろうか。
今はこうして自分と話しているのだから少しくらいは真面目に考えて欲しいものだ、と。みもりは好き勝手に理想を押し付けてしまうが、それが出来ないからこそ言葉にして伝えなければならないのだ。
そもそも、軽蔑の言葉を伝えるためにわざわざ来るわけがないだろう。
「馬鹿にしないで欲しいですわ、千晶」
「何がだよ」
「さっき言ったのは、本音です。本当にどうしてそんなことしちゃったんだろうって思うし、どうしてそんなこと出来るんだろうって思うし、それで、やっぱりそんな千晶を軽蔑しますけれど。それ以上にちょっと、だけ、寂しくもなります」
「は?」
本気でわからない、と、ここで初めて千晶はみもりの顔を見た。千晶の目線が動くのを感じて、みもりも千晶の方を向く。目が合って、にやけてしまいそうになるのをみもりは我慢する。
「勝手に言いたいことだけ言って帰るわけないじゃないですか。これまでちゃんと私のこと見てましたか?」
「……早く結論を言え」
「どっちですか」
今度は千晶が思案顔になる。
みもりの言う「どっち」に含まれる二択の内容を考えているのだろう。
みもりからすれば考えるまでもないのだが。
考えるまでもないからこそ、例えば千夏、例えば詩織、例えば美奈からの言葉に対して妙な違和感を覚えたわけで、ついでに、みもりにとってその二択が浮かんでいたからこそ最初、千夏や詩織の言う意味を理解するのに時間がかかってしまった。
「どっち、ってのは」
「千晶が人を殴った理由」
「……あぁ」
伝わったらしい。
今更、とみもりは思う。
みもりは自分のことをあまり信用していないし、特別情緒に精通しているとも思わないし、他の生徒会役員ほど優秀だとも思っていない。
詩織に比べて怒りっぽいほうだとは思うし、何かと嫌悪感を抱く対象も多い。自分を人格者であるなどとは、露ほども思わない。
けれど、けれど。
秋山千晶が同級生を殴って謹慎している、と聞いて。
「千晶が殴った理由も聞かずにその行為を責めるなんてこと、私、しないですわ。って、そのくらいのことは千晶も理解してくれてるんじゃないかって思って、だからさっき馬鹿にしないで欲しいって言ったんですの」
千夏は言っていた。
千晶が優しいことを自分達は知っている。何か事情があるんじゃないか、と。
みもりは感じた。
そんな当たり前のことを、今更、と。
詩織は聞いてきた。
千晶がそうした理由について、察しがついているんじゃあないか、と。
みもりは感じた。
察しがついているわけじゃあない。察したわけじゃあない。千晶が人を殴ったとして、その理由なんて、わかりきっていることだったから。
「だが、どの道お前に関係ないだろ。俺の問題だ。お前が俺を嫌うのは勝手だが直接責められる謂れはねぇ。仮に俺が殴った理由を考えようともせずさっきの台詞が飛んできたなら害悪でしかねぇが、理由に心当たりがあって言いに来てんならそれはそれで迷惑だ。放っておけよ」
「……どっちかって、聞きましたけど。たぶん私、どっちか知ってる」
「知るかよ。森崎がどんな理由を考えてるのかなんざ」
徹底して拒絶の姿勢を貫いている千晶をほとんど無視して、みもりは挫けずに話を続ける。
でなければ千晶の言う通り、先ほどの自分の断罪がただの言いがかりになってしまう。ただの嫌味になってしまう。
そんなつもりはない。
伝えるべき言葉は全て伝えなくてはならない。
可能性は、事実に変えなくてはならない。
「家庭のこと、じゃない方でしょ……同級生を殴った理由」
「……」
「ならやっぱり関係あるんじゃない。私」
「……」
これで自分の確認はし終えたみもりは背もたれに体重を移す。
強張っていた体から力が抜けて、その影響か、思わず微笑んでしまう。
千晶の無言は肯定と受け取る。
結局、千晶は千晶、変わらない、変わるはずもない。
「その、だから、あ、ありが、とう、ございました」
「なんなんだよお前……人の事軽蔑するだの馬鹿にするなだの感謝するだの、一つにできねぇのか」
「できません。千晶に向けてる感情は一個なんかじゃ制御しきれなくて私も困ってるくらいなんですの。だから沢山ぶつけさせてください。今も。これからも」
「あ? これからもってさっき友達でもなんでもねぇっつったばっかだろうが」
「別に友達じゃなくていいですわよ。むしろ私、千晶と友達にはなりたくないですわ」
いよいよ理解が追いつかない、と千晶がこめかみに手を当てた。
ちょっと待てと言わんばかりに考えるポーズをとって、みもりの発言の意味を考えようとし、すぐに諦めた。
一連の動作を眺めるみもりは、自分の発言に振り回されている様を見て内心悦に浸る。
「あー、全然意味がわかんねぇんだが」
「いいですわよ。そのうち、いえ、すぐわかるように話します。話す、つもりです。たぶん」
「いやだからわっかんねぇよ何の話をしてんだ」
困惑した千晶の言葉には答えず、その代わりにみもりは自分の手提げ鞄を弄る。
そして手に取ったのは、単行本にして五巻分の、とある少女漫画。
みもりにとっては小さな頃の思い出の一つ。
あの詩織が覚えていて、カセットテープに吹き込んだメッセージにも登場した作品。
よくあるボーイミーツガール。不思議な魔法や不思議な種族のいる世界で、素直になれない少年が冒険を共にするお転婆で天然な少女と少しずつ降りかかる平和なトラブルを解決していく物語。
「これ、貸しますわ」
「これ、って少女漫画じゃねぇか読むよんなもん! つーかまた話題逸らしてんだろ!」
もう少しだけ静粛に願いたいところだが、千晶も本気で声を荒げているわけではなさそうなのでとりあえずは注意もしない。
ついでに、話を逸らしてなど、いない。
「詩織が覚えていてくれた作品なんです。だから、千晶にも是非、一度読んで欲しい」
「あのな森崎、お前さっきから」
「いいから借りて! 五巻ですしっ!」
「あ、おい!?」
漫画を押し付けて、みもりは立ち上がる。
逸る気持ちと火照る体が、みもりの理性を吹き飛ばして彼女の願いを勝手に叶えてしまう。
みもりが何を考えているのか全くわからない千晶。
伝える気があるのかないのか自分でも全くわからないみもり。
コンマ一秒、立ち上がったみもりと、面食らう千晶の目が合う。
その瞳に、自分の姿は映っているのだろうか。
どんな姿に見えているのだろうか。
ちゃんと、そこにいるのだろうか
「それ、とても素敵な作品。私、とっても好き、なの。とっても」
「そ、そうか……」
漫画の表紙には、ヒロインと思われる少女が鮮やか過ぎるくらいの色合いで描かれている。
あまり、高校生の男子が持っていそうでは、ないかもしれない。
「千晶」
「なんだよ」
「私はもうシンデレラじゃない。文化祭が終わって、魔法が解けてしまいました。誰も私のことを綺麗で優雅な貴婦人だとは思いませんわ。例え王子様であっても」
またしても突然の話であったが、これについてはなんとか千晶はついていくことができた。
なにせ、自分が言った、「どこにいても見つけ出してやる」という発言を今更羞恥から後悔しているくらいである。これはシンデレラと王子の関係を踏まえて言ったものだ。
そのため、今のみもりの発言がどうやら、「探さなくていい」という、ある意味千晶の決意は要らない、という趣旨の返答であるらしいことは理解ができた。
だが、みもりの言葉は、何も。「探さなくていい」から「探すな」というものではなく。
「私は、私のまま主役になりたいんです。灰をかぶったままでいい、いじめられたままでいい。惨めで小さくて、気弱で傲慢で虚弱で強欲で怠惰で腹黒で情緒不安定な、等身大の私を知って、そのままの私を受け入れて、そのままの私のまま、一緒に成長してくれる人と幸せになりたい。将来お城の舞踏会になんて参加しなくてもいいの。誰もが見惚れる綺麗なドレスなんかを着飾らなくていい。インスタントのコーヒーとか、スーパーで売っているお酒とか、背伸びしたって五桁の後半に届かない洋服とか、こうして静かな図書館で、肩を並べて本を読むような、そんな未来が欲しい。そんな未来を選んでくれる人たちと一緒にいたい」
泣くな。
みもりは念じる。
泣いてしまうのは、なにか、ずるい気がする。
今は泣いてはいけない気がする。
前を向け。
それで駄目なら上を向け。
けれど、話すべき相手はいまだ椅子に座っていて、それでは目を合わすことができない。
ならば、これは自分との戦いだ。
負けるな。
頑張れ。
「全部、この今は千晶がくれたんです。千晶がいてくれたから、詩織も私も、ここにいることができたんです。本当に本当に、ありがとうございます」
深く、頭を下げる。
心からの感謝は、してもしきれないが、何度しても、届いているのかどうか不安になってしまう。
感謝の言葉は重ねれば重ねるほど、何故か一つ一つの重みが消えてしまう。
だから何度でも、回数を重ねるたびに、強い気持ちをぶつけてやるのだ。前回よりも、もっと、と。
「だから、もう私のために誰かを傷付けたりなんか、しちゃ駄目、ですわよ?」
「……誰が森崎のためだ馬鹿」
「うん、わかってます。復帰したらちゃんと三人に謝ってくださいね」
みもりは少し、半歩だけ千晶から遠ざかる。
目は見たまま。
一瞬だって、千晶のことを視界から外さないようにしながら。
「私は待つだけのお姫様は性に合いませんわ。だから、自分から動くことにします」
森崎みもりならどうしただろう。
織上詩織ならどうしただろう。
そんなことを考えている内に取りこぼすものがあるというのなら、もう後ろは向かない。
前だけ見ることが正しいとは思えないけれど。
けれど、少なくともこの今ある世界は、彼女達が全身全霊をかけて託してくれた今なのだ。
彼女達が過ごすことができなかった今なのだ。
ならば、後悔なんて後からすればいい。
失敗なんて、幾らでも経験だと思えばいい。
今から百年後にはここにいる全員、一人残らず死んでいるのかもしれないけれど。
どうせいつかは死んでしまうのだけれど。
それでも認められない運命を、自分の望む形に変えた少女がいたのだ。
運命を、ものの見事に操ってみせた少女がいたのだ。
彼女が踏み出した一歩の大きさを思えば、このくらい、なんてことはない。
自分の願う未来を掴むために。
運命を操るなんて言葉が適切でないなら、自分の願うストーリーとでも言い換えればいい。
誰だって皆、ハッピーエンドを目指して生きている。
決まってしまったラストシーンを変えることは困難だが、必死にアドリブを挿し込めばいつかは自分のしたいエンディングを迎えることが出来るのではないか。
恥ずかしがって代役に任せていたのでは自分の理想に近づけない。
自分のために、自分の願いのために、自分が主役になるしか、ない。
「覚悟しててください、千晶」
「なんのことか知らんが、森崎が突っかかってくる覚悟くらいなら、まぁ」
「ええ、十分ですわ」
みもりは頷いて、頭を上げると同時に両手で髪を掻きあげた。
スカートも髪も一緒に、慣性と風にふわりと舞う。
「あ……」
そのみもりの姿を見て、千晶が何か思い出したような声を出す。
「なに?」
「いや、やっぱなんだ、センスいいな、服」
だからそれは、会った時にまず言ってくれれば、と考えてから、確かに今日は最初みもり自身も千晶のことを責める雰囲気から入ったわけで、無理か、と思い直す。
そもそも、みもりはこの要望を千晶に伝えてはいないのだから、改善されるわけもない。
言われないよりは言ってくれて勿論嬉しいために、今の自分がどんな顔をしているのかもよくわからないが、きっと表情だけで千晶がこの複雑な心境を読みとることは困難だろう。
「可愛い?」
せめてものカウンターとして、一つ、意地の悪い質問をしてやる。
きっと千晶は、答えることができないだろう。
「……」
やっぱり。
思惑通り、と得意気に挨拶を済まして図書館を出ようとしたみもりは、しかし。
次の瞬間。
「すげぇ可愛いと思う」
という、一撃で。
溶解してしまう。
がちがちに固めた心も表情も。
全ての防護壁が壊され、溶かされ、無防備な自分が現れてしまう。
「こ、これだからほんとに嫌なんですのよこの人……」
脈打つ音が全身を走る。
妙に視界がぼやけ出す。
「聞いたのはそっちだろうが」
「聞いたのは私ですわね!! 確かに!!」
あぁ、駄目だ、と。
そう感じてみもりは危うい手つきで鞄を持って、机に出していた自分の文庫本も中にしまう。既に千晶に貸した、とみもりが決め付けた漫画については置きっぱなしにして。
潤んだ瞳と震える声と緩んだ頬のまま、ぼそりと。
「早く学校来てくださいね。待ってますから」
それだけ最後に伝えて。
怒られない程度に走り、その場を後にした。
みもりは図書館を出てすぐ、激しい動悸と息切れをまるで走ったからだと自分に言い訳するかのように、全力で駆けた。
元より運動が得意ではないみもりはすぐにでも苦しさを感じるが、それでもめげずに限界を越えてなお数秒無理をして、ようやく立ち止まる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
心臓が跳ねる。
内側から爆発してしまいそうだ。
「な、に、してるんですの、私……」
走ったことと、千晶に対してしたこと、その両方を後悔、しそうになって。
いやいやと首を振る。
「後悔することなんて、ないですわ」
苦い表情を浮かべながら、鞄の中から文庫本を取り出す。
道端に立ち尽くして本を開く自分の姿は客観的に見れば異様だろうが、そんな周り、なんてものを気にする余裕は、みもりにはなかった。
文庫本の最後のページを開く。
開き、そこに。
一枚のカードが挟まっていることを確認する。
形は正方形に近いが、手作業で切ったのだろう、端があまり綺麗ではなく斜めになっているのがぱっと見でわかる。
大きさは掌に収まるか収まらないか、程度。
紙の色は白色。
ウィンクをしながら矢を構えている男の天使が描かれている。
そこには、『Happy Letter』と筆記体で印字がある。
これは、クラス全員からのハッピーレターとしてみもりに手渡された、一枚。
千晶が手配し、『どこか遠くに行ってしまう大切な人のために悲しむ森崎みもりに向けてメッセージを』と言う目的で書かれたもの。
そして、その紙の中心に。
黒のボールペンで。
荒々しくも繊細さの残る、動と静の混ざる文字が書かれている。
千晶からみもりへ送られた、そのメッセージとは――
『森崎が大切な人と一緒にいれますように』
「馬鹿……馬鹿なんですから、ほんとに」
みもりは本を閉じて、鞄にしまう。
下を向きそうになる自分を、前へ、上へ進ませてくれる想いの欠片を掴んで。
ぴょん、と。
小さく大きく、跳ねた。
ものの十数分、隣に座って好き勝手喋って勝手に帰っていったみもりの後ろ姿を唖然としながら見つめ、そのまましばらく動くことができなかった千晶は、心身ともにどっと疲れていることに気付き、一度大きく伸びをした。
結局、みもりが何を伝えたかったのか、正直なところ、要領を得なかった。
千晶はみもりの発言を反芻する。
殴ったことに対して責められた。蔑まれた。
馬鹿にするなと言われた。千晶が人を殴る理由など二択しかない、今回はこちらであろうと言われた。その推測は正しかった。
たくさんの思いを持っていると言われた。
友達にはなりたくないと言われた。
少女漫画をお勧めされた。無理矢理貸された。
これからどうなりたいのかについて聞かされた。みもりは主役になりたいらしい。シンデレラのように姫にならなくても、幸せを掴んでやると、そのために自分から動いてやると言っていた。
礼を言われた。
可愛いかどうか聞かれた。
「やっぱ森崎、わかんねぇわ」
千晶はぼやきながら、そっと。
みもりから押しつけられた漫画の一ページ目を開く。
開き、そこに。
一枚のカードが挟まっていることに気付く。
形は正方形に近いが、手作業で切ったのだろう、端があまり綺麗ではなく斜めになっているのがぱっと見でわかる。
大きさは掌に収まるか収まらないか、程度。
紙の色は薄いピンク。
ウィンクをしながら矢を構えている女の天使が描かれている。
そこには、『Happy Letter』と筆記体で印字がある。
このハッピーレターはクラスでみもりのために書いたものでもなく、『どこか遠くに行ってしまう大切な人に向けてメッセージを』という名目で再配布したものでもない。
当初の、『好きな人に一言添えて渡してください。相手からも貰えたら、二人は両想い!』という目的で配られたもの。
そして、その紙の中心に。
黒のボールペンで。
力強くも可愛らしさの残る、静と動の混ざる文字が書かれている。
みもりから千晶へ送られた、そのメッセージとは――
『早く気付いて』
――代役でしかなかったヒロインが主役へと変貌を遂げる、そんな。
運命を操るものだった。
これにて本編は終了です。
運命を掴み取る、二人の少女の物語でした。
引き続き、番外編をお楽しみいただけたらと思います。