時間を跳び越えて
織上詩織が二人いる。
そう叫んだみもりの眼差しを見たときのことを、千晶の内心はこうだ。
(ついに現実と虚構の区別がつかなくなったか……俺にできることはもう何もねぇな……)
思わず慈しみの表情を浮かべる。
可哀想に、と。
「……なに、その顔」
「なんでもねぇよ。で、なんだって?」
一応は真面目に聞いてやるか、というくらいの態度で千晶は聞き始める。
「詩織、二人いる。ううん、二人、いた」
「あー、その、なんだ。やっぱ今日も一回帰ったほうがいいんじゃねーの」
「なにその態度。変」
「変なのは森崎だろが……」
今のお前にだけは言われたくない、と千晶は思うが。
一旦は話が進まなくなる言動は抑えることにする。
しかしながら、織上詩織が二人いる、だけでは全く話が見えてこない。
「さっきなんかぶつぶつ呟いてたな」
「うん。ここ最近、詩織がなんて言ってたか思い出してた」
「それで?」
「幾つか、今考えると変だって思うことがあって」
ようやく互いに落ち着き始めたため、みもりは掴んでいた千晶の腕を放し、千晶は掴んでいたみもりの肩から手をどけた。
正面で向かい合っていた状態から、また隣に座る。
一定の距離は勿論、空けたままだ。
一度座りなおす間に、この空間が静かであることを思い出す。
この場には二人しかいない。だから会話が途切れれば静かになるに決まっているのだが。
それにしたって、今日が既に文化祭準備期間に入っているとは到底思えないような、閑散とした空間だ。
ここだけ世界から切り離されてしまっているかのようで。
少しだけ不安になる。
「ちょっと無理あるかなとは、思う」
「なんだよ、言えって」
「千晶がここに転入してきた日の朝。転入生が来るって事はけっこう噂で聞いてたみたいだけど、その、詩織は『あ』から始まる何かを言いかけて、朝のホームルームで話があると思うんだけど転入生が来るらしいって言い方をした」
「朝のホームルームで話があると思うんだけど、か」
妙な言い回しではある。
朝のホームルームで話があるかもね、ならわかるが。
話があると思うんだけど、とは。
あまり言わないだろう。
「だから、もしかして、なんだけど、詩織は、秋山くんって言いかけたんじゃないかって。転入生の名前が秋山千晶だってこと、知ってたんじゃないかって」
「なるほどな、つまりは、先輩と同じように、未来予知ができてたんじゃねぇかって、話になるのか?」
「ううん、違う。未来予知じゃない」
みもりは断言する。
千晶も、話だけを聞けばそう聞こえたから発言はしたものの、みもりが結論を先に言っているため、そうではないだろうということはわかっている。
未来予知ではない。
みもりが言ったのは、織上詩織が二人いた、ということだ。
「詩織は、どこまで知ってた? 自分がバスに轢かれること? それとも、存在が消えてしまうこと?」
そのどちらも、仮定、憶測の域を超えない。
どちらの説も間違っているかもしれないし、どちらかが真実なのかもしれない。
それは、詩織に聞いてみなければわからないことだ。
「存在が消えてしまうことを知って、その去り際にお願いしたことは何? 『私をよろしく』? 私って誰? これから消えゆく自分のことを親友にお願いする?」
しない。
きっと、詩織はそんなことしない。
自分が死んでしまうなら、むしろ、全てを忘れてくれていいよ、と。
そんなようなことを言うタイプだと思う。
「なら、詩織がお願いした『私』は、きっと、詩織のことじゃない。正確には、『これから事故で死ぬ織上詩織じゃない詩織』のことだ」
複雑すぎて一度聞いただけでは理解が及ばない。
もう少し噛み砕いて話すように千晶が言おうかと思うと、みもりはすぐに言葉を続けた。
「だからあの瞬間、『事故で死んだ織上詩織』と『事故で死んでいない織上詩織』がいたんだ。それで、それで」
ならば。
仮にそんな二人がいたなら、今この状況はなんだというのだ。
いや、そもそも二人いたからなんだというのだ。
詩織がお願いしたのがもう一人の自分だったとして、それがこの今の状況の説明になるのだろうか。
まだ、まだ何かピースが足りない。
みもりはまた思考する。
「あ、おい、考える前に整理させろ。つまり、どうやら俺の名前を予め知っている織上がいたんだな? だから、所謂、普通の、森崎の知っている織上じゃあない織上詩織が別にいたんじゃないかって言ってるんだよな?」
そういうことになる。
これまでずっと一緒に暮らしてきた詩織とは、同一人物だけど、どこか違う、そんな詩織がいたならば、詩織は詩織をよろしく頼むこともあるかもしれない。
「う、ん。そうだと思うの」
「なら、簡単な話だ。そういう映画をよく観たことがある」
「えい、が……?」
ここに来てまたどうして映画の話なんか、と思うみもりであったが、映画の話くらいのほうが現状の説明をするにはわかりやすいのかもしれない。
そうでなくとも、千晶は回り道をすることはあるのかもしれないが、そう面倒なことや直接関係ない話を急にし出したりはしない。既にそのくらいの信頼なら寄せているので、黙って千晶の話を待つ。
「知らないはずの俺の名前を知っていた、それはさっきも言ったが、つまり未来のことを知っていたんだろ。で、それをお前は別な織上詩織なんじゃないかって考えている。ならもう可能性としては一つしかないだろ」
そう言って千晶は、一つの、やはり、現実ではありえないはずの。
馬鹿げた可能性を口にする。
「タイムトラベル」
「……たい、む」
「お前も小説よく読むんなら、それも最近割とSFはまってんなら聞いたことあんだろ。タイムトラベル、タイムスリップ、タイムリープ、それぞれの言い方の厳密な定義まで俺は知らないが、とにかく時間遡行や時間跳躍だ。本来流れている時間の流れを無視して過去か未来に到達する現象のこと」
その説明を受ける前から十分に知っていたことではあるが、あまりに壮大な話になってきて、みもりは面食らってしまう。
だが確かに、感じていた違和感が、なんとなく、そうなのではないかと告げている。
「だから森崎が違和感を感じていた織上ってのは、『未来から来た織上詩織』を相手にしていたか、『今の織上詩織』と『未来から来た織上詩織』の二人と交互に話をしていた、とかなんじゃねぇのか?」
タイムトラベルとは、小説や映画で確かによく使われる言葉だ。
そのタイプは様々あるのだろうが、もっともわかりやすい例としてはタイムマシンなる時間を跳躍できる機械に乗り込むと、まるで電車に乗って場所を移動できるのと同じような感覚で時間を移動することができる、そんなものだろうか。
自分が生まれる前の過去を覗いたり、自分の死後の世界がどうなっているのかを知ったり、そんなことができる夢の中の話。
もしも、詩織がそうした現象を起こしていたとしたら。
それは、どうして。
そんな疑問にも、千晶はすぐに答えて見せる。
仮定を立てればいくらでも理屈とはついてくるものらしい。
「なら話がかなり簡単に見えてくるな。構図としては、今の織上と未来の織上の二人がいて、それで死ぬ直前に織上は、もう一人の自分をよろしく頼む、という意味で『私をよろしく』と森崎に伝えた」
「でも、なら、どうして未来の詩織が、ここに……」
「物語なら、森崎を助けるためとかがまず真っ先に思い浮かぶが」
「私を……?」
「だから、本来バスに轢かれて死ぬのは森崎だったんじゃねぇのか? それを見た織上が時間を戻ってきた。それが俺の言う『未来の織上』で、目的は自分が死ぬことで森崎の死を回避すること」
そんな千晶の話を聞いて、みもりが最初に思ったことは、詩織ならそれくらいのことはしそうだ、ということだった。
自分がどのくらい思われているかなど知らないし、理解することはできないが、詩織ならそういう選択をするかもしれない。
親友を助けるために自分の命を差し出すようなことを、彼女なら。
「……? あれ、でも、そしたら変、じゃない?」
「なにがだ」
「もし、そうだとしたら、もう一人の、その『死ななかったほうの詩織』は、どこにいっちゃったの?」
「……憶測に、すぎないから、どこに行ったのか、まではわからんが。今の理屈で、一応の説明は、つく、気がする」
歯切れが悪い。
だが理屈は通ると言った。
仮に詩織がタイムトラベルをしているとして、それと死ななかったほうの織上詩織がどこに行ってしまったのか、そもそも今この世界において織上詩織の存在が消えてなくなってしまっていることの説明が、どのようにできるというのか。
みもりも自分なりに考えてみる。
千晶はこの現象を映画や小説のように捉えると説明がつくようなことを言っていた。
それが正しいのかどうかわからないが、そうした発想をするほうが今は理解の助けになるのだろう。
ならば、こうしたタイムトラベルを扱った作品で、人が消えてしまうようなものがあっただろうか。
どうだろうか。
ぱっとは思いつかないが、しかし、時間を旅する者が常に注意されていた言葉が一つ、みもりの中に浮かんだ。
浮かんだままに、その言葉を発する。
「タイムパラドックス」
「森崎もそう思うか。俺もそれが原因なんじゃないかと考え始めてる」
みもりの言葉を千晶が首肯した。
タイムパラドックス、時間的逆説と和訳されるその言葉が意味するところとは、時間を扱う上で欠かしてはならない重要な概念である。
人間は自らの生きる時間が常に過去から未来へと一方向に加速も減速せずに流れていることを前提に生きている。
しかし、この流れの中に異物を混ぜてしまうと過去と未来とで齟齬を生じてしまう。ありえない、といわざるを得ない事態が起こされてしまう。
最も有名な例は親殺しのパラドックスであろう。
過去へとタイムトラベルを果たした人間が自分の親を殺せるのか否か。殺せたとすれば、親から子が生まれることはなく、親の殺人犯は存在しないのだから殺人も起きないはず、という矛盾が生まれる。
古くから疑問が投げかけられている議論の一つだ。
このタイムパラドックスが生じてしまったとき、どうなるのか。当然人類は観測したことがないため予想することしかできないのだが。
矛盾が起きるため過去に行くことは不可能であるとする者もいれば、矛盾になるような行動は自然と妨害が介入し、完遂に至らないとする者もいれば、矛盾が生じた瞬間に平行世界が創造され、今いる世界とこれまでいた世界とが分離されるとする者もいる。
どれも確認のしようがないので、真偽のほどはわからないが。
千晶はまさにこのタイムパラドックスが生じているのではないかと考えた。
「都合よく考えることにするが、仮に未来の織上と今の織上が出会ってもそれだけじゃ矛盾が生じなかった、と仮定する」
「けっこう無理がない?」
「知らん。相手にしてるのはもう一存在じゃない、時間だぞ。細かいことは一旦置いておく」
「こ、細かいかなぁ……」
決して細かくはないと思うのだが。
しかし、詰まっている時にはまず全て話を聞いてみるのも悪いことではないだろう。
「二人の織上がいて、そのうち片方が死んだ。それも通学路でバスに轢かれて、つまり、多くの目撃者を伴ってだ。だというのにこの時間には生きている織上詩織がいたならば」
「まぁ……変だよね、おかしいよね、ありえない、よね」
死んだはずの人間が生きていたら。
いや、もしも、死体を見つめる本人がいたならば。
弁明の余地もない、ありえない事件だ。
それも血や指紋、記憶にいたるまで全く同じ人物がそこにいるのだ。
そんなことは、あってはならない。
あってはならない、矛盾だ。
「じゃ、じゃあ、詩織が消えた、っていうのは……時間の矛盾を解消するために、そんな人物初めからいなかった、ってことにさせられたの?」
「かも、しれない」
「なんか、それって……」
それはあまりにも酷い話ではないだろうか。
事実かどうかはわからないが、もしそうだとすれば。
詩織はみもりを助けるために時間を遡行して、代わりに死に、起こしてしまった矛盾のために存在ごと消された。
あっていいのだろうか、誰かを助けるための行動が、そんな結末を迎えるようなことが。
「だが、そうだとしても、織上の発言は妙だろ」
「詩織の発言、って、その、私をよろしくって?」
自分が二人いるというのならば、何かおかしいことがあるだろうか。
おかしいのは二人いること自体であって、それ以上でも以下でもないように思える。
もし自分が二人いるならば、相方を任せておいても悪くない。
「よろしくって言ったなら、そいつは少なくとも、もう一人の自分の存在に気付いてるはずだろ。なら、これから自分が死ぬことによってタイムパラドックスが起こるかもしれないことに気付いてなかったのか?」
「その可能性に賭けたんじゃ?」
「それならそれでいいが……現に森崎はその発言だけは覚えてる」
「……なら、もしかして、消えている詩織が、どこかにいるかもしれないってこと?」
「その可能性が本当に、僅かだが、ある、気がする」
「詩織、が……」
実際のところ、かなり厳しい考えだろう。
所々都合よく解釈して、あることないこと適当に織り交ぜて仮説を立てている。
そんなことはありえないだろうと常識も訴えかけてくる。
諦めろ、と。
織上詩織のことはもう諦めろ、と頭の中で声が響く。
その声を無理矢理かき消して、みもりは遠くに小さく光る、ほんの微かな希望に縋ることにした。
いいじゃないか。
誰よりも大切な親友のことなんだ。
事実が確定するまでは、妄想に縋ったって。
もしかしたら世界の裏側で彼女が待っているのかもしれないと思ったって、そのくらいいいじゃないか。
「……」
真剣な顔をして、黙ってしまったみもりの頭を千晶は小突いた。
なんだ、と抗議を目で訴えつつ、みもりが顔を向ける。
「あんま怖い顔すんなよ。まだ、なんもわからん」
「怖い顔なんて、してない」
「してる。第一、言ったろ。その喋り方の時点でちっと怖ぇくらいだ」
もはや完全に元の口調から離れてしまっていることを再度指摘する。
みもりとしては、そんな口調のことなどどうでもいいのだが。
そこまで指摘され続けるとさすがに思うところがあり、念のためどの程度気になっているのかくらいは聞いてみる。
「その、そんな、変?」
「変だな。少なくとも会って一週間の俺が変だと感じるくらいには変だ」
「うーん、なんか」
なんで口調が変わってしまっているのか、と言われると。
詩織がいないからで。
詩織がいない以上、自分をそういうキャラに見せる必要がないからで。
ただ。
そのどちらが作られたキャラクターで。
どちらが本当の自分なのかはもうわからない。
どちらの状態でいるほうが楽なのかすら不明だ。
「織上に会えたときくらいは頑張って戻してみろよ」
「そう……させていただきますわ」
「おぅ、それそれ」
千晶は笑う。
みもりは笑えない。
だが、少なくとも一歩、前進しただろう。
詩織がどこかにいるかもしれない、という可能性に気付けた。
「あとは、見つけてあげるだけ、なのかな」
本当にそれだけで、大丈夫なのだろうか。
自信はない。
それでも、これから先どんなことが待ち受けているとしても、必ず詩織が取り戻すと誓った。
もしもこれから立ち向かう相手が未来だとか時間だとか世界だとか、そんな意味の分からないものだったとしても、みもりは一歩だって引く気はない。
タイムパラドックスが起きていようがいなかろうが、そこに詩織がいるならば、いるかもしれないならば、そこに辿り着く方法を考えるだけだ。
「ただ、やっぱり存在がなくなっている、以上は、普通の方法じゃ詩織に会うことは難しい、よね」
みもりの零した言葉に、千晶も同意する。
過程がどうあれ、結果として詩織は消えてしまっているのだ。
だから世界のどこを探しても、存在しないことに変わりはないだろう。
まだ世界のどこかに生きているのかもしれないとしても、それはやはりどこか次元を超越したような、そんな空間にいるのかもしれないし、詩織が恐らくはやってみせたように、過去を変えることで出会わなければならないだろう。
「詩織は、そうまでして、私を助けてくれたのかな。そうまでして、私に何かを託してくれたのかな」
「さぁな。だがそうだな、そこに強い願いがあったことくらいは認めてもいいだろ。森崎が今、こうやって織上に会いたいってのと同じくらいの願いが」
「そうだね。それくらいなら、信じられるかな」
みもりもようやく、ほっとした表情で笑った。
まだ心からの笑顔ではなかったが、これまでと比べれば随分と落ち着いた顔を見せたので、千晶も少しだけ安堵する。
安堵はするが、話は真面目にしておく。
「ただやっぱり、力が必要だろうとは思う。織上が今、どこにいるとしても、何をしているとしても。そこに行くための力がねぇと、ただの普通の高校生には何もできない」
問題の解決には、不思議な力が必要である。
それこそ、時空間に干渉するような、そんな力がなければ、難しいはず。
「う、ん……」
「なんとなく、そんな力を持ってるのが生徒会に集まってるんなら、森崎にもそういうのなんかねぇのか?」
「私は、特に、何も持ってない……」
普通はそんな力、持っているはずがない。
当然だ。
ついでに、持っていたとしても櫛夜のようにジャンケンに勝つだけの力など今回は役に立たないだろう。というかジャンケンに勝つ力が役に立つ場面がみもりには想像できない。
だが千晶の言うとおり、このままでは何もできない。
何か、人智を超えた力に触れなければ……。
と、そこで、みもりの脳内に閃くものがあった。
そういえば、と前置きをして千晶の反応を見ながら話してみる。
「千晶、さ」
「あ、俺? なんだ急に」
「運命を操ってしまえる、って言ってなかった?」
暫し、千晶は羞恥から停止し。
その後、みもりが言う台詞で、止めを刺される。
「運命、操れない?」