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翌朝ジールは、昼前になって部屋を出た。
夕べディーンと遅くまで話し込んでいたせいで寝坊したのだ。
ディーンも同じくらいの時間まで起きていたと思うのだが、彼はいつの間にか部屋から消えていた。
起きたとき、ジールの体にはディーン愛用の紫のショールが掛かっていて、朝食のカートが室内に引き入れてあった。朝食のプレートの陰に、隠すように封書が置かれている。
いつ用意したのか、封書のシールには王の親書を表す印が入っていた。ジールは開け放たれた窓から王の住まう塔を見た。兄の姿は見えなかった。
レントから聞いた話は、一部はディーンも聞き知っていたようだった。ハジ教授の人柄は評判が良く、ディーンやレイタも王立高等院改革の旗頭にと目をつけていたらしい。ジールが預かっていたハジ教授からと思われる手紙も、ディーンはその場ですぐに目を通した。
ハジ教授側に王宮とのパイプはないとレントは言っていたが、実は現学長を見限ろうとしている一派の何人かがガウロと旧知で、ディーンたちにも話が伝わっていたという。天敵・ガウロの名前が出て、しかもまた兄の欲しがっている情報を真っ先に進呈していたと知って、ジールは少し複雑な気持ちになった。
学長選は一ヶ月後だという。奇しくもディーンのお見合い舞踏会と同時期だ。
候補者は今のところ、現学長とハジ教授の一騎打ちらしい。若手や一部の反逆者たちの後押しを受けたハジ教授が若干優勢で、このまま何も起こらなければ、ハジ教授に決まりそうなのだという。しかし、ジールを使って王にコンタクトを取ろうとしてきた辺り、ハジ教授側は何らかの問題を抱えていると見ていいだろう。レントの言う命の危険は、あながち杞憂ではないのかもしれない。
この状況で、何の前触れもなく王がハジ教授支持を打ち出せば、追い詰められた現学長一派が何をするか分からない。かといって、放っておけるものかどうか。
とにかく下手に動かないように。またレントを通じて何か聞いたら、それとなくティータイムの時間などを使ってディーンかレイタに伝えるように。そうディーンはジールに念を押した。何も言われなくてもそれくらいの気は利く方だと思っていたから、ジールは何度も言い含められたことにちょっと傷ついた。
書庫に入り、机についてペンを取る。昨日レントが下ろしていった本は、まだ全て記録できずに積み上げてあった。一冊を取ってぺらぺらとめくる。ジールはそのまま黙々と作業に没頭しようとしたが、結局一行書いたところで机に突っ伏した。
「・・・俺、そんなに子ども扱いされてたのか。」
確かに、7つも年が離れた弟を想像すれば、ずいぶん幼い印象を受ける。しかし、ジールだって成長しているつもりだったのに。
それに、夕べのディーンは、考えることも話すこともかなりまともだった。そばにレイタもいないのに、てきぱきとジールに状況を説明し、指示を残していった。口調だけは相変わらずふざけていたけれど、それだけは地なのか、それともそれすら計算された結果だったのか、もう分からない。
ジールは何度か、ディーンが王として演説しているところを見たことがある。白の王として国民に語る兄は、とてもかっこよく見えた。堂々と力強く語る王の姿は、ぬいぐるみを愛用し、我が侭な幼児のようにジールに甘える兄の姿とは正反対だった。
どちらが虚像で、どちらが実像なのか。
自分は今まで、兄の一面しか見ていなかったのか。
「リヴァ?」
ジールは虚空に向かって語りかけた。
水の姫君は答えない。気配すらなかった。
昨日は途中からレントやディーンが側にいたから話しかけてこないのだと、ジールは思い込んでいた。しかし、ふと気づいたときには、彼女はそこにいなかった。彼女の体を構成する水はジールが与えたものだ。気配すら掴めないなんて、よほど遠くに行ってしまったとしか考えられない。
彼女ならその年の功で、悩んでいるジールを一喝してくれるだろうのに。
それとも、呼びかけにも答えてくれなくなるほど、ジールは彼女を失望させてしまったのか。
「何やってるんだろうな、俺。」
ジールはため息を吐いた。
最近、ため息ばかり吐いている気がする。こんなことだからリヴァに呆れられたのかも知れない。
書庫の戸を叩く音がした。またレントだろうか。昨日の今日で少し早い気もしたが、ジールは立ち上がって戸を開けに行った。