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その日は、やけに人に会う日だった。
一人目は城の廊下で、午後のティータイムからの帰り道だった。
兄王・ディーンの執務室での恒例のティータイムが終わり、ジールは城内を歩いて書庫に戻ろうとしていた。長年の癖で、なるべく人通りの少ないルートを通る。誰かに会って挨拶などされたくないからだ。そういう奴はどうせ、ジールを使って王に取り入ることを企んでいる。
だから、廊下で声を掛けられたとき、ジールは思いっきり不快そうな顔で振り返った。
「うわわわ。そんな睨まないで。怪しい者じゃありんせん。」
声を掛けてきたのは、ディーンより少し若いくらい、つまり20歳前くらいの青年だった。灰銀の長髪、どこを見ているのか分からないほど細い糸目、変な言葉使い、両手を横に振る否定のポーズも挙動不審だ。初めて見る顔だし、怪しむなという方が難しい。
しかしジールは、彼の着ている緑のローブに目をとめ、眉間の溝をちょっとだけ浅くした。
濃い緑に金糸のあしらわれたローブは、この国随一の高等教育研究機関である王立高等院所属の研究者にのみ許された衣装だった。
「お忙しいところ申し訳ない。ディーン王の弟君の、ジール様とお見受けしますが、間違いありませんか。」
糸目の青年は、言葉遣いこそ直ったものの、癖のあるイントネーションでそう言った。
ジールはどうしようか迷ったが、もう立ち止まってしまっていたし、嘘を吐いても仕方ないから、「そうだけど。」と答えた。糸目の青年は、「良がったー。」と胸をなで下ろす。なんだかその間延びした様子に苛ついて、ジールは問い返した。
「お前、誰だ?」
誰に対しても横柄な物言いはジールの癖でもあったが、自衛手段でもあった。王位継承権もなければ特に職を与えられているわけでもない穀潰しの王弟だからといって、皆にへりくだって小さくなっていては王宮では生きていけない。ジールが曲がりなりにも敬語を使うのは、兄弟の母親代わりであるレイタの外は、天敵であるガウロに対してくらいだ。もっとも、前者は幼少時からそう躾けられたためであり、後者は不快感の表れだった。
糸目の青年は、あわわわわ、とまた挙動不審に両手を振った。それが彼の癖らしい。
「私はレントと申します。王立高等院でハジ教授の研究助手をしています。
今日は、弟君に折り入ってご相談というか、お願いがあって参った次第です。」
ジールは、王の弟というだけで「ジール様」とか「弟君」と呼ばれるのも嫌いだったが、訂正も面倒なので、どうでもいい奴から呼ばれる分には放っておくことにしていた。しかし、それよりもっとずっと嫌いで、断固拒否することにしていたのが、この「お願い事」だ。時折いるのだ。王に正式に受け入れられなかった陳情をジールの元に持ち込もうとする奴が。王がたった一人の肉親である弟を溺愛していることは、知る者にとっては秘密でも何でもないらしく、世間知らずの弟君を懐柔する方が、王本人に認められるより楽だとでも思っているらしい。実際には、ジールはこういうお願い事は全て聞く耳を持つことなく門前払いにすると決めていたから、弟君に取り入ることは王自身を説得するよりはるかに難しいといえた。
だからジールは今回も、「お願い」と聞いた瞬間、断ろうと口を開いた。が、レントが次の言葉を発する方が、ほんのコンマ数秒早かった。
「お願い事というのは他でもない、この城の書庫のことなのです。」
「書庫?」
ジールは反射的に聞き返してしまった。
城の書庫は王宮の片隅の塔の中にあった。建国以来集められた貴重な蔵書が収められている。ここしばらくほったらかしにされていたのを、ジールが兄王に頼んで開放してもらい、蔵書の整理をしている最中だった。もっとも、ジールにとっての書庫は、異常なほどに弟に執心している兄から逃れる隠れ家としての意味合いが大きかったし、元来の読書好きも手伝って、作業ははかどっているとは言い難かった。
自分に少しでも関係のあるお願い事は初めてだ。ジールはすっかりペースを乱されて、断るタイミングを失った。
レントはここぞとばかりに話し出した。
「城の書庫は、この『白の国』建国以来二千年、歴代『白の王』の庇護に置かれ、数多くの書物を収められてきた歴史ある書庫です。ここ百年以上、内政のごたごたの中で放置されてきたと聞きますが、嘆かわしい限りです。しかし聞くところによりますと、半年ほど前に再び開かれ、今その管理はジール様が任されていらっしゃるとか。蔵書の整理と分類作業を一人でなさっていると聞き及びましたが、間違いありませんでしょうか。」
よくしゃべる男だ。今はもう訛りも分からないくらいに捲し立てられ、ジールはつい頷いてしまった。レントは糸目をかっと見開く。小さい瞳は茶金色だった。
「もったいないと思いませんか?」
「は?」
「城の書庫には、今はもう他所では失われた貴重な蔵書であふれているのでしょう。それはもう、我々研究者にとっては宝の山。この国が築き上げてきた叡智の結晶です。
しかし失礼ですが、ジール様お一人では、一生かかってもその膨大な蔵書を読み切ることすら不可能でしょう。ましてや内容を深く検証するなど。
ジール様は、そんな貴重な史料の山を国民や研究者の目に触れさせることなく独占していることを、もったいないとはお思いになりませんか?
ジール様がお許しになるのなら、我々王立高等院の研究職から人員を派遣したいのです。史料の整理と研究を、我々も一緒にさせて頂けないでしょうか!」
「え、えっと・・・。」
あまりに熱の入った演説にジールが返答できないでいると、レントはすっと糸目に戻った。
「返答は急ぎませんが、ご検討ください。」
そう言い残してすたすたと廊下を去っていく。ジールは呆気にとられてその後ろ姿を見送った。
8/7 レイタについて説明(「兄弟の母親代わりである」)を挿入。