勇者を辞めた日、世界が救われた
魔王を倒せば、世界は滅びる。
その事実を知ったのは、決戦の前日のことだった。
「……は?」
レオンは間抜けな声を漏らした。
王都の地下。
王立大神殿のさらに地下。
歴代の勇者だけが立ち入ることを許された石室の中央に、一枚の黒い石板が立っていた。
石板には古代文字が刻まれている。
本来なら読めるはずのない文字だった。
だが、聖剣を近づけた瞬間、文字が淡く光った。
そして意味が、直接頭の中へ流れ込んできた。
――第七循環、終了条件。
――勇者による魔王の破壊。
――二極魔力の衝突をもって余剰魔力を放出。
――文明圏を初期化し、次期循環へ移行する。
――世界の存続率、九九・九八パーセント。
レオンは三度読み直した。
意味が変わらなかった。
「……初期化?」
ただ嫌な言葉だった。
その下に、小さく別の記述がある。
――現文明生存率、〇・〇〇〇三パーセント。
「待てよ」
背筋が冷えた。
「それって……」
明日の正午。
勇者レオン率いる討伐隊は、魔王城へ総攻撃をかける。
魔王ヴァルディスを倒すために。
十年間。
レオンはそのために生きてきた。
勇者として生まれ、勇者として育てられ。
剣を習い、魔法を習い、魔族と戦った。
魔王を倒せば戦争は終わる。
領土は解放され、焼かれた村々は再建される。
世界に平和が訪れる。
誰もがそう信じていた。
レオンも信じていた。
だが、魔王を倒した瞬間、世界が終わる。
「冗談だろ」
石板は答えなかった。
レオンは聖剣を握った。
仲間に知らせなければ。
そう思った。
「ミリア! ガルド! 先生!」
石室から飛び出そうとして叫ぶ。
「魔王を倒したら、せ――」
声が止まった。
「――っ!?」
喉を押さえる。
息はできる。
声も出る。
だが、その先だけが言葉にならない。
もう一度試した。
「魔王を倒すと、世界が――」
そこで舌が動かなくなった。
石板に、新しい文字が浮かんだ。
――循環機構に関する情報の外部伝達を禁ず。
レオンはしばらくそれを見つめた。
そして――
「ふざけんなよ!」
殴った。
石板は壊れなかった。
拳の皮だけが破れた。
その夜、勇者一行は王城で最後の晩餐を囲んでいた。
巨大な牛肉のロースト。
香草を詰めた魚。
黄金色の鳥。
果物。
焼きたてのパン。
王都中から集めた料理人が腕を振るったらしい。
国王まで顔を出した。
「――明日、世界の命運を諸君に託す」
やめてくれ、とレオンは思った。
二十五歳の若造に世界の命運など託すな。
もっと大人で立派な人に託してほしい。
もっとも、今となっては、本当に世界の命運を握ってしまっている。
「レオン」
向かいに座るミリアが言った。
赤い髪を後ろで束ねた二十八歳の女剣士。
「肉、三切れしか食べてない」
「数えてたのかよ」
「明日は魔王城よ。食べられるときに食べなさい」
「母ちゃんか」
「誰が母ちゃんよ」
隣で大男のガルドが笑った。
「母ちゃんというより姉ちゃんだな!」
「ガルド」
「なんだ?」
「明日の最前列、あんたね」
「すまん! 俺が悪かった!」
エリナが小さく笑う。
白い法衣をまとったレオンと同い年の聖女。
一番端では、老魔術師ゼフが黙々と酒を飲んでいた。
いつもの光景だった。
何年も一緒に旅をした。
死にかけたこともある。
喧嘩もした。
ガルドのいびきがうるさすぎて、野営地から百歩離れた場所に寝かせたこともある。
ミリアが料理すると全員腹を壊すので、彼女だけ調理器具を触ってはいけないという規則もできた。
エリナは聖女なのに朝に弱い。
ゼフは賢者と呼ばれているくせに賭け事が弱い。
明日、魔王を倒せば全部なくなる。
レオンは思った。
嫌だ。
勇者なら、もっと立派なことを考えるべきなのだろう。
世界を守らなければ。
人類の未来を。
民の命を。
そんなことではなかった。
ただ、こいつらがいなくなるのが嫌だった。
レオンはパンを置いた。
「――なあ」
四人が見る。
「俺さ」
心臓が鳴る。
言える言葉を探した。
真実は言えない。
なら――
「勇者、辞めるわ」
沈黙。
ガルドが骨付き肉を落とした。
エリナのスプーンが止まった。
ゼフだけは酒を飲んでいた。
ミリアが言った。
「……もう一回言って」
「俺、勇者辞めるわ」
「明日、魔王討伐だけど」
「知ってる」
「十年戦ってきて」
「うん」
「明日、終わるのよ」
「そうだな」
ミリアが立ち上がった。
「なんで今日なのよ!」
拳が飛んできた。
避けなかった。
頬に綺麗に入った。
椅子ごと倒れる。
「レオン!」
エリナが立ち上がる。
「治さなくていい」
ミリアが言った。
「これは必要な怪我よ」
「必要な怪我って何ですか!」
レオンは床から起き上がった。
口の中に血の味がする。
ミリアの拳が震えていた。
「怖くなったの?」
答えられなかった。
「私の村がどうなったか、知ってるわよね」
知っている。
十二年前、北方の小さな村カナンが魔王軍に焼かれた。
ミリアの父親は村人を逃がそうとして殺された。
母親と弟は家から出られず焼け死んだ。
生き残った村人は七人。
十六歳だったミリアは、その一人だった。
その日から彼女は魔族を憎んだ。
剣を握った。
そして魔王を殺すために勇者一行へ加わった。
「明日、終わるのよ」
ミリアの声が震えた。
「やっと終わらせられるのよ」
レオンは立ち上がった。
「ごめん」
それしか言えなかった。
「最低」
「そうだな」
レオンは部屋を出た。
俺が勇者を辞めて最初にしたことは、買い物だった。
「これください」
王都の武器屋。
レオンは店の隅に転がっていた古剣を指した。
「坊主、それは売り物じゃねえ」
「値札あるけど」
「鉄屑の値段だ」
刃こぼれだらけ。
刀身の半分が黒く変色している。
普通なら誰も買わない。
だが柄に刻まれた紋様には見覚えがあった。
大神殿の石板。
その隅に描かれていた紋様と同じだった。
「金貨一枚」
「銀貨三枚でいい」
「じゃあ金貨一枚」
「話聞けよ」
「釣りはいらない」
「勇者様は金の使い方知らねえのか?」
「今日で辞めたんだ」
店主が固まった。
その隙に店を出た。
次に向かったのは、王都の片隅にある古い教会。
地下書庫へ忍び込む。
途中で三回、「勇者様!?」と言われた。
「幻です」
で押し切った。
意外といけた。
目的の本はすぐ見つかった。
『創世神話異説集』
禁書指定。
教会の教義と矛盾するからだ。
ページをめくる。
――最初の勇者は魔王を討ち、天より光が降り注いだ。
ここまでは有名な創世神話。
だが、禁書には続きがあった。
――光は七日七晩燃え続けた。
――山は溶け、海は沸いた。
――人々は地下へ逃れた。
――八日目、空は黒くなった。
――九日目、新たな太陽が昇った。
レオンの手が止まった。
さらにページをめくる。
似た神話があった。
大洪水。
白い炎。
空から降った灰。
一夜で消えた王国。
すべて年代が違う。
だが共通している。
勇者と魔王。
その二人が戦った直後。
世界は滅びている。
六度。
「……六回もやったのかよ」
今が七度目。
そのとき背後で音がした。
レオンは古剣を抜いていた。
「誰だ」
暗闇から男が現れた。
黒い角。
灰色の肌。
「久しいな、勇者」
「ヴァルガ」
魔王軍第三将。
黒騎士ヴァルガ。
二年前。
北部戦線で戦った相手。
レオンの左肩には、そのとき受けた傷がある。
ヴァルガの右目にも、レオンがつけた傷が残っていた。
「今は無職だ」
「何?」
「こっちの話」
ヴァルガは剣を抜かなかった。
「魔王様がお呼びだ」
「俺を?」
「ああ」
「なんで」
ヴァルガは少し迷った。
「魔王様も、世界の理を知った」
――魔王とは夢の中で会った。
白い空間。
目の前に一人の男が立っている。
黒髪。
白い肌。
額から二本の角。
「初めまして、勇者レオン」
「魔王ヴァルディス?」
「そう呼ばれている」
思っていたより普通だった。
もっと巨大で、炎とか出ていて。
「なんだ」
「いや」
「想像より普通だったか?」
「ちょっとな」
「私も同じだ。勇者とはもっと筋肉質な大男だと思っていた」
「悪かったな細くて」
「いや。安心した」
少しだけ沈黙。
先に切り出したのは俺の方だった。
「知ってるんだな」
「ああ」
「いつ知った」
「三日前だ」
「どうやって?」
「魔王城の地下にも石板がある」
「じゃあ、なんで戦い止めないんだよ」
ヴァルディスの表情が変わった。
「お前は昨日、勇者を辞めると言ったそうだな」
「情報早いな」
「勇者一行の仲違いなど、一日あればこちらまで届く」
「悪かったな」
「お前は十年間、勇者だった」
「……ああ」
「魔王を倒せば世界が救われる。そう信じて生きてきた」
ヴァルディスは自分の胸に手を置いた。
「私は魔王になって十六年になる」
レオンは黙った。
「人間は何年、魔族を憎んできた?」
「分からない」
「魔族も同じだ。親を殺された者がいる。子を殺された者がいる。故郷を焼かれた者がいる。人間を殺すことだけを教えられて育った兵もいる。私が今日、人間と戦うなと言って、全魔族が従うと思うか?」
「……思わない」
「君の仲間は?」
ミリアの顔が浮かぶ。
「無理だな」
「だろう」
ヴァルディスは少し笑った。
「笑える話だ。殺し合ってきた我々が、今や互いに最も事情を理解できる」
「笑えないだろ」
「だから笑う」
レオンは少しだけ、この男を好きになれそうな気がした。
ミリアの家族は魔王軍に殺された。
ヴァルディスの仲間も家族も人間に殺された。
どちらかが正しくて、どちらかが間違っている。
そんな簡単な話ではなかった。
「それでも――」
ヴァルディスが言う。
「世界を滅ぼしていい理由にはならない」
レオンは顔を上げた。
「方法は?」
「勇者と魔王を消す」
「殺す?」
「違う。力を消す」
勇者と魔王。
二つは世界の核によって生み出された器。
世界に魔力が蓄積すると、二人が生まれる。
正と負。
聖と魔。
そして両者が衝突した瞬間、蓄積された魔力が解放される。
文明ごと。
「世界の核は、世界を守っている」
ヴァルディスが言った。
「……守ってる?」
「世界の核にとって、人間も魔族も文明も、世界そのものではない」
レオンは理解した。
「大地」
「そうだ」
「海。空。生命そのもの」
文明が滅びても、世界は残る。
むしろ文明を犠牲にすることで、世界そのものを生かす。
「じゃあ、世界の核を壊したら」
「次に魔力が蓄積したとき、世界そのものが滅びる可能性がある」
「……」
「それでも壊すか?」
レオンは黙った。
今までとは違う。
悪い装置を壊せば世界が救われる。
そんな話ではない。
世界の核は世界を守っている。
確実に。
文明を犠牲にして。
「俺たちが間違ってたら?」
レオンが聞いた。
「いつか世界が滅びる」
ヴァルディスは答えた。
「怖いな」
「ああ」
「でも」
レオンは言った。
「勝手に全部殺されるよりマシだ」
ヴァルディスが笑った。
「同感だ」
翌朝――
王都東門。
兵力五万。
騎士、兵士、魔術師、神官、冒険者。
旗が風にはためく。
「勇者様だ!」
誰かが叫んだ。
歓声が上がった。
胸が痛い。
俺、辞めたんだけどな。
軍の中央に四人がいた。
ミリア、ガルド、エリナ、ゼフ。
「来たか」
ゼフが言った。
「先生」
「馬鹿弟子」
「はい」
「話は後じゃ」
ミリアはレオンを見なかった。
「怖くなったんじゃなかったの?」
やがて彼女が言った。
「怖いよ」
「……」
「死ぬの怖いし、世界の命運なんて背負いたくない。できれば昼まで寝てたい」
「勇者の台詞じゃない」
「だから辞めた」
ミリアがこちらを見る。
「じゃあ、なんで来たの」
レオンは考えた。
「明日も、お前らと飯食いたいから」
ガルドが吹き出した。
「それだけか!」
「悪いかよ」
「いや」
大男は斧を担いだ。
「十分だ」
進軍の鐘が鳴った。
戦場は地獄だった。
炎、矢、雷、怒号。
人間と魔族がぶつかる。
レオンたちは一直線に魔王城へ向かった。
そして地下の巨大な扉の前。
魔王が待っていた。
ミリアの動きが止まった。
「……魔王」
剣を抜く。
「待て」
レオンが前に立った。
「どいて」
「できない」
「レオン」
声が低い。
「どいて」
「こいつを殺させるわけにはいかない」
「どうして!」
言えない。
世界の核について口にしようとすると喉が閉じる。
「頼む」
それしか言えなかった。
「頼む?」
ミリアの顔が歪む。
「私の父さんも、母さんも、弟も、こいつに殺されたのよ」
ヴァルディスが言った。
「知っている」
ミリアが止まる。
「……何?」
「カナン村だろ?」
ヴァルディスは続けた。
「十二年前。北方侵攻作戦の際、第三軍が補給路確保のため制圧した」
ミリアの剣が震えた。
「知って……」
「ああ」
「知ってたの?」
「報告書で読んだ」
「だったら」
ミリアが一歩進む。
「謝って」
レオンは息を止めた。
ヴァルディスはミリアを見る。
そして。
「すまなかった」
魔王は頭を下げた。
ミリアの表情が歪んだ。
「違う」
「……」
「そんなの聞きたいんじゃない!」
涙が落ちる。
「返してよ!」
ヴァルディスは黙った。
「父さん返してよ。母さん返して。弟を返してよ!」
答えられる者はいなかった。
やがてヴァルディスが言った。
「できない」
ミリアは泣きながら笑った。
「だったら、許せるわけないじゃない!」
「ああ」
「一生許さない」
「ああ」
ヴァルディスは静かに答えた。
「許してほしいとは言わない」
そして
「私も勇者を許していない」
ミリアが顔を上げた。
「妻と娘を、侵攻で失った」
沈黙。
「だから何」
ミリアが言った。
「お互い様だって言いたいの?」
「違う」
ヴァルディスは首を振った。
「私の悲しみは、お前の悲しみを軽くしない」
ミリアが黙る。
「お前の悲しみも、私の悲しみを軽くしない」
長い沈黙。
やがて、ミリアは剣を下ろした。
「……許さない」
「ああ」
「でも」
剣を鞘へ戻す。
「今は殺さない」
ヴァルディスも頷いた。
「それで十分だ」
扉の向こうには世界があった。
巨大な地下空洞。
中央に浮かぶ巨大な光球。
その内部を山が流れている。
海、森、町、人間、魔族、鳥、獣。
すべてが小さな光になって循環していた。
「これが世界の核」
ヴァルディスが言った。
レオンの胸が熱くなる。
ヴァルディスの胸も光る。
光球から二本の糸が伸びた。
二人の胸へ刺さる。
「ぐっ!」
聖剣が勝手に浮く。
ヴァルディスの黒剣も現れる。
互いへ向く。
――勇者。
声がした。
――魔王を討て。
――世界を救え。
「嫌だ」
レオンは聖剣を止める。
ヴァルディスも黒剣を止めた。
――世界は限界に近い。
――余剰魔力を放出しなければ、生命圏崩壊確率、八二・七パーセント。
レオンの動きが止まった。
――循環を実行した場合、世界存続率九九・九八パーセント。
正しい。
数字だけなら。
圧倒的に世界の核が正しい。
「レオン!」
エリナが叫ぶ。
世界の核は続ける。
――現文明を犠牲にすれば、世界は存続する。
――拒否した場合、未来は保証されない。
――なぜ拒む。
レオンは歯を食いしばった。
「知らねえよ」
――非合理的。
「そうだな」
――文明はいずれ滅びる。
「かもしれない」
――ならば循環が最適解。
「お前にとってはな!」
レオンは叫んだ。
「俺にとって世界ってのは、大地とか海だけじゃない!」
ミリア、ガルド、エリナ、ゼフ、魔王。
憎しみ、悲しみ、笑い声、飯、喧嘩、失敗。
全部だ。
「俺たちも世界なんだよ!」
世界の核が明滅する。
――感情による判断。
「悪いか!」
――未来において世界が滅亡した場合。
声が問う。
――責任を負えるか。
レオンは答えられなかった。
そんなもの、負えるわけがない。
二十五歳だ。
ただの人間だ。
世界の未来など分からない。
正解なんて知らない。
それでも。
「責任なんか負えない」
答えた。
「でも、お前に決めさせるのも嫌だ」
古剣を抜く。
「俺たちの世界だ」
世界の核が光る。
「俺たちが失敗する権利くらい」
剣を握る。
「俺たちに返せ!」
――世界の核から無数の光が伸びた。
聖剣がヴァルディスへ向く。
黒剣がレオンへ向く。
止められない。
「レオン!」
仲間の声。
古剣。
鍵。
レオンはようやく意味を理解した。
これは世界の核を壊す剣ではない。
勇者と魔王を世界の核から切り離すための鍵。
「そういうことか」
古剣を逆手に持つ。
そして、自分の聖剣へ叩きつけた。
「何をしている!」
もう一度。
聖剣に亀裂が広がる。
十年間。
勇者である証だった。
この剣があったから戦えた。
人々に愛された。
期待された。
生きる意味だった。
「もういい」
三度目。
聖剣が砕けた。
世界の核が震える。
ヴァルディスが笑った。
「――なるほど」
黒剣を床へ置く。
「ならば私も」
踏みつけた。
「魔王を辞めるとしよう」
黒剣が砕ける。
世界の核が激しく明滅した。
――警告。
――勇者因子消失。
――魔王因子消失。
――循環不能。
――世界存続不能。
「知るか!」
レオンとヴァルディスが同時に叫んだ。
二人で古剣を握る。
世界の核へ走る。
光が身体を焼く。
「やれ!」
ガルドが叫ぶ。
ミリアが光を斬る。
エリナが結界を張る。
ゼフが魔法を撃つ。
そしてレオンとヴァルディスは、古剣を世界の核へ突き刺した。
知らない町が見えた。
高い塔。
空を飛ぶ船。
人々が笑っている。
――光
全部消える。
次の世界。
人間と魔族が一緒に暮らしている。
――光
消える。
また。
また。
また。
六つの文明。
六度の滅亡。
そして声。
――なぜ。
レオンは答える。
「何が」
――私は世界を守った。
「知ってる」
――六度、世界を救った。
「そうだな」
――私がなければ、この星は既に死んでいる。
「たぶんな」
――ならばなぜ。
レオンは少し考えた。
世界の核は悪くない。
こいつはずっと世界を守ってきた。
命じられた通りに、最も確実な方法で。
だから。
「ありがとう」
初めて言った。
声が止まった。
「六回、世界を守ってくれたんだろ」
――肯定。
「だったら」
レオンは言った。
「七回目は、俺たちにやらせてくれ」
――失敗する可能性がある。
「ある」
――滅亡する可能性がある。
「ある」
――私はそれを防げる。
「知ってる」
――理解不能。
レオンは笑った。
「人間だからな」
長い沈黙。
やがて、最後の問い。
――勇者でなくなれば。
――お前は何者になる。
レオンは答えた。
「レオンだよ」
そして光が消えた。
――目を覚ますと青空だった。
魔王城は半分なくなっていた。
「……生きてる」
身体を起こす。
胸の中にあった力がない。
勇者の力。
完全に消えている。
「はは」
笑った。
「ははは!」
「うるさい!」
頭を殴られた。
ミリアだった。
「痛っ!」
「何笑ってんのよ!」
「生きてたから」
「こっちは死んだと思ったのよ!」
一発。
二発。
三発。
「約束三発!」
「百発って言った!」
「そっち採用!?」
四発目は来なかった。
代わりに抱きしめられた。
向こうではガルドが大の字になっている。
エリナが泣きながら治療している。
ゼフは酒を飲んでいた。
「先生」
「なんじゃ」
「酒どこから出したの」
「秘密じゃ」
そこへ魔王が歩いてきた。
角がない。
ただの男になっていた。
ミリアが離れる。
顔から笑みが消えた。
ヴァルディスも止まった。
二人はしばらく見つめ合った。
「ミリア」
ヴァルディスが言う。
「何」
「私はこれから、戦争を終わらせる」
ミリアは黙った。
「それで許されるとは思っていない」
「許さない」
即答だった。
「ああ」
「一生」
「ああ」
「あなたを見るたび、父さんたちを思い出すと思う」
「それでいい」
ミリアは唇を噛んだ。
そして――
「でも」
小さく言った。
「今日、一緒に戦ったことも忘れない」
ヴァルディスは何も言わなかった。
ただ頭を下げた。
和解ではない。
許しでもない。
たぶん、それでよかった。
――五年後
戦争は終わった。
だが、簡単ではなかった。
停戦交渉は十一回決裂した。
十二回目で、ようやく合意した。
国境では今も争いがある。
人間を嫌う魔族もいる。
魔族を嫌う人間もいる。
消えない傷もある。
それでも、勇者と魔王が殺し合う時代は終わった。
レオンは王都を離れた。
騎士団への誘いを断った。
貴族になる話も断った。
「世界を救った英雄に領地を――」と言われたが、
「絶対面倒なので嫌です」と断った。
今は北方の小さな村。
街道沿いの食堂で働いている。
「レオン!」
厨房から声。
「パン焦げてる!」
「嘘!」
「煙出てる!」
「うわあああ!」
慌てて窯を開ける。
煙。
「だから火を弱くしろって言ったでしょ!」
ミリアが呆れている。
彼女もこの村に住んでいる。
剣は捨てていない。
今でも時々、国境警備隊の訓練を手伝っている。
「注文!」
「はいよ!」
煮込みとパンを盆に載せる。
窓際の席へ運ぶ。
そこに男が座っていた。
黒い髪。
旅装。
見覚えのある顔。
「よう」
レオンはため息をついた。
「何しに来たんだよ」
「食事だ」
「元魔王が一人で?」
「元勇者が食堂で働いているより普通だろう」
今では魔族側の外交官をしている。
「勇者よ」
「その呼び方やめろ」
「では、世界を救った英雄」
「もっとやめろ」
ヴァルディスが笑う。
そこへミリアが出てきた。
笑顔が消えた。
「……いらっしゃい」
「邪魔をする」
「客なら追い出さない」
「ああ」
「――でも」
ミリアはヴァルディスを見る。
五年経っても、その目にあるものは消えていなかった。
「許したわけじゃないから」
ヴァルディスは頷いた。
「知っている」
ミリアは料理を置いた。
それだけ。
笑わない。
親しく話さない。
でも、料理は置く。
ヴァルディスも黙って食べる。
レオンは二人を見た。
昔なら、こんな光景を平和とは呼ばなかったかもしれない。
もっと分かり合って、憎しみが消えて、みんなが笑って、そういうものが平和だと思っていた。
でも、たぶん違う。
嫌いでもいい。
許せなくてもいい。
忘れなくてもいい。
それでも剣を抜かない。
同じ場所で飯を食う。
それだけでも十分始まりになる。
「レオン」
ヴァルディスが言った。
「なんだよ」
「世界の核を壊して五年だ」
「ああ」
「魔力濃度は少しずつ上昇している」
「……そうか」
「我々の選択が正しかったかどうかは、まだ分からない」
ミリアも黙って聞いている。
「――百年後」
ヴァルディスが言った。
「千年後。世界は本当に滅びるかもしれない」
「そうだな」
「怖くないか?」
レオンは答えた。
「怖いよ」
即答だった。
ヴァルディスが笑う。
「相変わらずだな」
「怖いものは怖い」
「後悔しているか?」
レオンは窓の外を見た。
子供たちが走っている。
人間の子供。
その中に角の生えた魔族の子供がいる。
喧嘩している。
笑っている。
壁には仲間から届いた手紙。
ガルドは北方で橋を造っている。
エリナは教会を離れ、町医者になった。
ゼフは魔族の魔術学院で教師をしている。
ミリアはここにいる。
世界の核が守っていた世界なら、この光景は五年前に消えていた。
「してない」
レオンは言った。
「俺たちは世界を救ったんじゃない」
ヴァルディスが見る。
「世界を救う仕事を、引き受けただけだ」
世界の核が六度やってきた仕事。
七度目からは自分たちでやる。
失敗するかもしれない。
争うかもしれない。
いつか本当に世界を滅ぼすかもしれない。
だったら、そうならない方法を探す。
百年かかっても、千年かかっても、次の世代が、その次の世代が考え続ければいい。
ヴァルディスが少し笑った。
「勇者らしくなったな」
「だから勇者じゃないって」
「では何と呼べばいい?」
「名前で呼べよ」
「レオン」
「なんだよ」
「パンが焦げている」
「え?」
振り返る。
――煙。
ミリアが叫んだ。
「レオン!」
「うわああああ!」
厨房へ走る。
「水!」
「水かけたら駄目!」
「じゃあどうすんだよ!」
「知らないわよ!」
「お前も知らないのかよ!」
客たちが笑う。
ヴァルディスまで笑っている。
「笑ってないで手伝え!」
「私は客だ」
「元魔王だろ!」
「元勇者が働け」
「だからその呼び方やめろ!」
窓の外、鐘が鳴った。
昼を知らせる鐘。
五年前、この時刻に魔王を倒していたら今ごろ、この世界はなかった。
世界の核は間違っていなかった。
レオンたちが正しかったのかも、まだ分からない。
答えが出るのは、百年後か、千年後か。
あるいは永遠に出ないのかもしれない。
それでも今日、人間と魔族の子供が同じ道を走っている。
許せない相手と同じ店にいる。
焦げたパンの匂いがする。
誰かが笑っている。
それでいい、とレオンは思った。
完璧ではない。
明日の保証もない。
だから明日のことは、明日、生きている者たちが考えればいい。
レオンは黒焦げのパンを持ち上げた。
「……これ食えるかな」
ミリアが呆れた顔をする。
「食べてみれば?」
「俺が?」
「作った人の責任でしょ」
「世界より重い責任だな」
「馬鹿」
レオンは笑った。
勇者ではない。
英雄でもない。
ただのレオンとして、今日を生きる。
明日も生きる。
その次の日も。
そうして世界は誰かに守られるものではなく生きている者たちが守っていくものになった。




