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おりんさんがさー「記憶喪失もの書いたから読んでって言っとるぞ!」みんな読んどけよ!

作者: にこた
掲載日:2026/06/27

記憶よりも欲しいもの



プロローグ


・・・・・・・・・・


寝すぎた・・・か。


仕事に戻るか。


・・・仕事?


・・・・・戻る?


ここは?


中宮公園だ。公園のベンチの上だ。


・・・


何故ここにいる?


ともかく行こう。


どこへ?


日陰を出ると、日差しが強い。暑いからちょっと疲れただけだ。だから調子が悪いのだと彼は気分を落ちつかせようとした。その考えを蝉がジージー鳴いて萎えさせる。たった2週間の地上生活を謳歌するように力強く鳴いている。


帰ろう・・・・・・・・どこへ?


会社へ?


どこにある?


家は?


わからない・・・


どうして、わからない。




第1話


「ちょっと、あなた。待ちなさい」


公園内には足元にサッカーボールを置いてアイスを食べている子供たちがいる。自転車を体の右側で引いて、いかにも暑そうな顔をした中年の警官が声を振り絞って、彼に声を掛けてきた。あの制服を着ているので同情したくなるほどに暑苦しい姿をしている。


「あなた、こんなところで、こんな時間にぶらぶらして、なにやってんの?ちょっと来なさい。最近この辺りで不審者が出没しているからね。話を聞くからそこの交番まで来なさい」


もう何が何だかわからなくなった。頭の整理ができなくなった状態で仕方なく大人しく後ろについて行った。公園から10分も歩いて交番まで着いたが、やっとエアコンの涼しい風にあたることができると、嬉しかった。だけど建物自体は比較的新しいと思うが、エアコンがなかった。扇風機は蒸された空気を運んでくるだけで存在の意味がない。暑さで気が触れそうだ。おまけにお茶の一杯もでてこない。


「あなた名前は?」


「住所は?」


「職業はなに?」


その警官は矢継ぎ早に聞いてくる。


「・・・・・」


わからない。答えようがないのだ。


どうしても、わからない。思い出せない。


どうした?どうして言えない?


なぜ、ここにいる・・・・・・・・・・・。


「どうして言えないの。え?」


警官は不審な目で彼の顔を覗き込んでいる。


「何かやましいことでもあるの?正直に言って」


今はひとりしか交番内にはいないみたいだ。彼の正面には氏名手配のポスターが貼られており何人かテレビでみて知っている容疑者のものがある。こいつらは夏の暑さをどう凌いでいるのだろうか。

扇風機は相変わらず役に立っていないから、ますます混乱するのだと警官に言いたかったが、そういうエネルギーさえももったいないと思った。警官も相当暑いのだろう団扇をあおいでいる。扇風機もあってないのだから、せめて団扇をこっちにも渡せばいいものを。気の利かないやつだ。




第2話


「たっちゃん!なにしてるのこんなところで」


小柄でショートカットの、Tシャツにレギンス姿の女性が交番を覗き込みながら、こちらに向かって歩いてくる。どうやら自分のことらしい、知らない女性だ。もしかしたら自分の身元を証言してくれるかもしれないと期待した。


「すみません。主人がご迷惑を掛けたみたいで。最近とても疲れているようで、公園でぼぉーっとしていたんでしょ」


誰だ?主人?さらに彼は混乱していた。きっとこの暑さのせいで、すべてがおかしくなったのだと思うことにした。頭を冷やせば全部思い出すと。


「そうですか、最近この辺りで不審者が出没しているので、お話を伺おうと思っていたところです。ご協力ありがとうございました」


呆気なく解放された。

公園の木陰を彼女のあとを追うかたちで、2人は自分達の家という場所に向かった。暑さにくらくらしそうになるし、おまけに蝉の鳴き声が耳について、どこでもいいから早く落ち着いて、麦茶か何か冷たいものを飲みたいと、そんなことばかり考えている。自分のことを主人と言った女性のことを、その時は考える余裕はなかった。

国道の信号は切り替わりの間隔が長い。おまけにこの暑さだ、太陽は容赦なく彼らを照らしていて、溶けてなくなりそうだ。


それは古いアパート2階の東角にあった。中に入ると台所に4畳と6畳の部屋だけがあった。彼らはここに住んでいるのだ、と彼女は言うが彼には実感が沸かない。

中に入ると、押し入れに足を折って立てかけてあった卓袱台を窓際の6畳間に置いて、彼女は冷たいほうじ茶を入れてくれた。この部屋は殺風景だ。まるで生活感がない。見えるものは小さなテレビと2人分としては十分な大きさの冷蔵庫がある。押し入れと反対側にある机の上に置かれた縦置きの目覚まし時計が1つに、壁にガソリンスタンドのカレンダーがあるだけだ。そのカレンダーには予定がなにも記入されていない。そしてエアコンがない。洗濯機がないのはわかる。コインランドリーで済ませているのだろう。食器などはひと通りそろっているようだ。


冷たいほうじ茶で一息ついた。いやな1日だ。はやく全部思い出してすっきりしたい。


「ありがとうございます。あなたは僕の妻なんですか?」と正直に聞いてみた。


なに言ってるのよ、と言いたげに彼女は視線を彼に向けた。


「ええ、そうですよ。あなたを探していたのよ。急にいなくなるんだから」


彼女はで冗談交じりに言って、コップに口をつけて冷たいほうじ茶を飲み干した。彼女は安堵したというふうに見えた。


「すみません。何も思い出せません。名前も」


「あなたは記憶喪失なの。だから、しばらくゆったりと過ごせば、全部思い出すって先生も言っていたじゃない」


病院で診てもらったのかと、思った。


「先生が・・・クスリとか?」


「そこまでは必要はないって。とにかくゆっくり過ごすこと。そうすれば思い出すって。あなたは軽症だから心配いらないのよ」


聞きたいことはたくさんある。なにから聞けばいいのかわからないほどに。なにから話せばいいのか分からないほどに。


「どうして記憶喪失に?」


「ストレスが溜まったのよ」


「僕の名前は?」


「あなたの名前は猫川龍吉じゃないの。わたしは、猫川みやぁです」


名前を言われても、親近感は持てなかった。


日の暮れになると網戸からの涼しい風がやってきた。それまで2人はなにも話さなかった。ただ、みやぁはそっと龍吉に寄り添っていた。




第3話


窓の外を覗くと、隣の家の庭に向日葵が鉢に咲いている。日光を存分に浴びて活力を充電したに違いない。力強く、いつまでもそこで咲いているような気にさせる。やっと一息付けたと思ったが、龍吉は何も思いだせなかった。   


「ねぇ、気分転換にあなたの好きな煮干しラーメンを食べに行かない?」


「僕の好きなラーメン?」


みやぁの運転で市内の「王軒」というラーメン屋に着いた。すぐ近くに三風という店もある。そうだった、この国道沿いには、ラーメン屋がひしめいているんだった。

こういうことは思い出せるようだ。駐車場は広く車で来ても安心で、食券を先に購入することになっている。券売機が混んでいたのでブザーを持たさられて、車内で待ち順番が来ると、ブザーがなって知らせてくれた。混雑した店内で待たせられるよりずっと楽だった。

龍吉は、かため・多め・濃い目でみやぁはふつう・少なめ・うすめでオーダーした。荒々しい煮干しの匂いが店内に漂っていて、外の暑さなんてどうでもいいだろう?とラーメンにレンゲでスープをすくうことをせかされた。

煮干しが身体中に充満して、満たされた。いつもどおりだ・・・・・?

彼女も満喫したようだった。


「ね、少しは気分転換になった?とにかく今のあなたにはゆっくり過ごすのがいいのよ。わかった?」


「そう・・・かな」




第4話


それから1週間が経った。僕とみやぁはぎこちないが、静かな毎日を過ごせている。

彼女は運送屋で事務をしていて、昼は彼女が用意してくれるものを食べて、晩は彼女が帰宅してつくってくれる。彼女のつくるものは豪華な素材は使っていないが、そのぶん丁寧だった。料理上手でなんでも美味しい。


ある日、なにか小腹を満たすものないかと、冷蔵庫や棚を物色したが何も見つからなかった。仕方なく、いつものコップでいつもの冷たいほうじ茶を飲んでいると、なぜだか急に甘いものが食べたくなってきた。

自転車で近所をぶらついているときに和菓子屋がいくつかあることを思い出した。たしか近所のすたれた商店街に数軒あったはずだ。

汗をかきながら自転車を漕ぎ、記憶を頼りに10分こいで「丸八」というところに着いた。店先に大きな暖簾があった。そうだ、あんころだ。あんころを買おう。

少しどきどきして自動ドアの前に立つと、店内からがたいのよい男が出るところで、その男の肩と僕の顔がぶつかってしまい、僕は吹き飛ばされてしまった。

男は「失敬」、僕は「すみません」と言葉を交わした。

あんころは、とても懐かしい味がした。あんころを包む、茶色に乾燥した笹の香りで、さらに懐かしい気持ちになった。素朴な餡だった。ほっこりとした。

その翌日は、その商店街の鍛冶屋という和菓子屋へ行った。小さな店構えだが歴史が感じられる店構えで、創業1854年と暖簾に書かれてある。お饅頭が山のように積まれている。どうやらお饅頭一択なのだろう。がたいのよい先客が会計を終えて戸を開け暖簾をくぐったときに、玄関で鉢合わせになりその男の肩と僕の顔がぶつかって、僕は吹き飛ばされてしまった。

男は「失敬」と言い、僕は「すみません」と言葉を交わした。

丸八でもぶつかった男だ。




第5話


みやぁと暮らすようになり、ひと月になろうとしている。夫婦だったと彼女がそう言っているのだから、そうなんだろうと彼は信じはじめていた。そのような感覚というか、安心感が日々大きくなっていった。すべてを思い出せたら、自分たちは幸福なのか。

みやぁは龍吉が記憶を取りもどせるように、いろいろ工夫してくれる。昨夜はふたりの思い出を話してくれた。東尋坊へドライブへ行った話、そのとき彼が悪ふざけして、危うく彼女が崖から落ちそうになって、彼女は泣いて怒ってしまった話。僕が特盛カレーにチャレンジしたけど、全然ダメで3分の1を残してしまった話。ディスカウントストアに行ってスナックを買いすぎて一緒に反省したこと。

思い出は語り尽くせない、と言う。


「たっちゃんは、ゆっくりでいいよ。少しずつ思い出せばいいから。いまはゆっくり休めばいいのよ」


ことあるごとに、みゃあは言ってくれる。


「僕はなんの仕事をしている?仕事は大丈夫?」自分が何者か思い出すために、せめてそれぐらいは知っておきたかった。それが僕のアイデンティティに大きな割合を占めているに違いなかった。日焼けはしていない、手のひらは綺麗で傷がない、筋肉もないので、職人ではなさそうだ。ということはサラリーマンや公務員だろうか。


「職場には、ちゃんと診断書を提出しておいたから安心して。いまはそれだけ知っていればいいわ」


彼女にはぐらかされた気がしたが、そのままにしておいた。彼女の様子をみると、いまはその方がよいと思った。なにかやましいことでもあるのかもしれない。




第6話


「ねぇ、わたし明日は休みだから、どこかにいこうか」


「暑いよ」


「だから海にいこ」


「どこの?」


「そうね、光輝パーキングエリアでどう?温泉も入りたいし。あそこなら近いし」


「遠くでなくていいの?」


「あそこがいいのよ」



光輝パーキングエリアの海岸は、日差しがひどく射していて、海水浴客で賑わっていた。僕らは泳ぐつもりはなかった。夏の青く澄んだ穏やかな海を眺め、温泉に浸かることが目的だった。


「ひとが多いね」


ひとに酔った。せっかくやってきたが、こんなに海水浴客が多いとせっかくの海が台無しだ。この高速道PAは高速道路を下りることなく海と温泉に行けるので、人気のスポットで飲食店もあるし、ビーチボールやいかだまで、なにからなにまで売店では売っている。水着まで売っていた。とにかく人気があるのでこの時期はいつも駐車場は満車で、車を駐車するまでに30分待たされた。


「そうね、でもあの人達から少しずつエネルギーをもらったら、あなたの記憶は取り戻せると思わない?」


彼女は、眩しい太陽を右手でひさしをつくって睨みながら言った。そのしぐさが可愛らしいと僕は思った。


「・・そうだね。それでここに来たのかい?」


「ううん、今思いついただけ」


彼女はどこかもの悲しげにみえた。


「どうしたの?」


「ううん、なんでもないよ。記憶、早く戻ればいいね」


と言われたが、彼女がそんなふうに思っているようには見えなかった。

この温泉には、ひとりでよく来ていたと思う。この温泉が好きだ。それは確かだ。浴槽が広いことが一番で、外湯からは海が見えてリラックスできる。きょうは海水浴のあとに利用する客が多く、皆、見事に日に焼けていた。子供連れも多くて、少し騒がしかった。

彼女よりもはやく風呂を出て、2階にある畳敷きの休憩室に上がって名物の牛乳を一気飲みした。まったり濃くて夏ではなくて冬向きだった。本当はコーラかなにかにしたかったと頭の中で呟いた。かき氷でもよかったか。彼女はなににするのだろうか考えると、少し浮ついた気分になった。かき氷だと予想した。イチゴだ。


「ごめん。待った?」


まだ髪が濡れているのをタオルでふきながら彼女は現れた。そのしぐさに見とれてしまっていた。

この休憩室はとても広く、いったい何畳あるのか想像できない。解放感があって、そこに大画面のテレビが置いてあり、テーブルがいくつも整然と座布団と一緒に並べられている。僕が牛乳を買った売店ささやかな売店がある。このあいだ食べた丸八のあんころもあった。僕らは入口に近い場所に座った。比較的空いていたからだ。


「君がここでなにを選ぶか、考えていた」僕は照れて言った。


「夏真っ盛り、海水浴のひとだかり、温泉とくれば、かき氷よね♪」彼女は笑って言った。



今までで一番の笑顔だった。そんな表情を見れるなんて、この海へ来てよかったと、うれしくてたまらなかった。


「かき氷だろうなぁ。牛乳なんて僕くらいだろ」


ゆっくり僕らはくつろいだ。こんなにみやぁと楽しく過ごせるのなら、記憶を失う前はどんなに幸せな日々を送っていたのかと思いを馳せると、記憶を取り戻せないことがじれったくなった。


「あぁ、楽しいね」僕は自然とつぶやいていた。


わざとらしいくらいに緑色をした氷山を崩そうと、みやぁはストローのスプーンで格闘するけれど、努力の甲斐なく多くはテーブルに落ちてゆく。それを繰り返している彼女は無邪気な子供のようだ。いつもどこか疲れているような顔をしているので、僕は心配していたのだ。いつもは彼女が「のんびりしていればいい」と言ってくれるけど、今日は僕がそう彼女に言ってあげたかった。そう言ったら彼女はとびきりの笑顔を僕にみせてくれるに違いない。これ以上、彼女の重荷になりたくはない、記憶を取り戻さなくてはならない。


「楽しいね」今度ははっきりと彼女に言った。


「うん、楽しいよ」彼女はうなづいた。


僕らは売店のビーチパラソルで日をかわして、海水浴価格のジュースを飲んでいた。知らず知らずにふたりとも日に焼けていて、おたがいに顔を覗き込みこみ、Tシャツの腕をたくし上げて笑いあった。彼女は


「こんなことなら日焼け止めを塗ってくればよかったね」と。


「うっかりしてたね」


「そろそろ浜辺へ行きましょ。わたし、この時間帯が大好き。そうでしょ?思い出せた?」


「ごめん。でも分かるよ。これから太陽が沈む」


砂浜はまだ午後の熱気をそのままおびていて、裸足になった足の裏は火傷しそうだった。


「熱いよ!波打ち際まで裸足で行けるかな。ねぇ、たっちゃん」


「おんぶ、しようか?」


彼女は照れくさそうに、僕の背に乗った。思いのほか重かった。

太陽はしだいに、その陽を弱めてゆく。その代わりに海岸線からゆっくり、ゆっくりと空はあかね色を帯びてゆく。

そして、太陽はゆっくりと姿を消してゆき、足元には生ぬるい波が打ち寄せ、そして引いてゆく。

僕らは夫婦だ。そう龍吉は確信できた。


「ほら、太陽がなくなったよ。空はオレンジ色できれいよね。このまま時間がいつまでも止まっていてほしい。でも時間は止まらないの」


僕らは自然と腕を組んで、海岸線を黙って眺めていた。いつまでもこうしていたかった。でも時間は止まらないのだと彼女は言った。




第7話


今日は田下屋だ。ここはこの辺りで大きな店舗で、菓子の種類も豊富だ。アイスキャンデーも名物らしくてそそられる。興味をそそられたのは店舗の北角の上生菓子コーナーで、なかなか創作性のある上生菓子が飾ってある。いまは鮮やかな赤と緑のグラデーションに魅入られる朝顔だ。造形も大きさも申し分ない。すごい技術だ。それが1つだけ残っていたので迷わず購入して、そしてブランデーケーキも2つ購入した。僕とみやぁの分である。

店内から自動ドアで店外へ出ようとしたところ、入ろうとするがたいのよい男とぶつかって吹き飛ばされた。

男は「失敬」、僕は「すみません」と言葉を交わした。

また彼か・・・これで3回め。和菓子が相当好きなんだな。


帰ろうと店の外に出たところを、男に呼び止められた。


「すまん、君」


あの男だった。身長は190近くあるだろうか、ノーネクタイのスーツ姿だ。いったい何者だろうか。こんな時間にこんなところにいるなんて・・・でも、その言葉はそっくりそのまま僕に返って来た。自分もそう思われているに違いない。


「はい」


「よくかちあうな。そんなに和菓子が好きか」


「そうですね」


他を威圧する雰囲気だ。


「まぁ、あんちゃん。あこに座らないか」


田下屋の敷地にあるベンチを指さす。


「俺もそうだ。で、なんでこんな時間にこんなところにいる?暇なのか?」


大きなお世話だと気分を悪くしたが、「そうです」と答えた。


「俺もそんなようなもんだよ。で、ここでなにを買ったんだ?」


「朝顔の上生菓子とブランデーのケーキです」


「そうか!なかなかいいものを買ったな。どれだけ和菓子が好きなのか分かる」


ずけずけと他人の領域に踏み込んで来るタイプだ、こういうのは苦手だ。


「あなたはなにを?」


「最中とどら焼きだ。今日のおやつだ。この時間にこういう場所にいることは内緒だぞ」と冗談とも本気ともとれるようなことを僕によこした。


彼は菓子の入った紙袋を大事そうに抱えて去っていった。




第8話


次第に秋めいて、日差しは柔らかくなってきた。隣家あの向日葵はもう鉢ごとどこかへいなくなった。彼の今年の役目は終えたのだろう。また来年姿を見せてくれるだろうか、そのとき彼は今年の記憶を思いだすのか。虚しさを覚えた。


あいかわらず記憶はもとに戻っていない。みやぁは、気にすることはないといつも言ってくれるけれど、そうもいかないだろう。少しでも取り戻せるよう努力しないといけない。

このごろ時々、頭の中で「シャッ、シャッ」とノイズが走ることがある。不安だから病院で診てもらいたいけれど健康保険証がどこにあるのかわからない。心当たりを探してみようと思った。

通帳や印鑑がありそうな引き出し、自分の机の中、置いておくとすればこのくらいだろうが、保険証はなかった。

あとはみやぁの机くらいか。後ろめたさはあるけれど、探してみよう。

引き出しを全部引いて調べたが、保険証の類はなにもないようだ。しかし目についたものがあった。A4サイズのコピー用紙だった。手書きでなにか走り書きされている。



私の親友のあの子が殺された。救えなかった。

あの子から、ストーカーされていると相談があった。3ヵ月ほど前かららしいが、最近は家の近くまで後をつけて来るようになったという。

そんなこと、あなたの思い違いでないか?と彼女に言った。彼女は思い込みの激しいところがあったので、そのせいだと思った。

だから気にもとめなかった。

職場の近くで様子をうかがっていることがある、と相談されたが、それもまたあなた思い込みのせいだ、と軽く応えてしまった。

スマホに無言電話がかかってくるようになって、不安でしようがないと言うようになった・・・・・本当に履歴があった。さすがにこれは・・・と思い警察に相談しようと思った矢先だった。

奴はアパートの鍵を壊して部屋に入り込み、部屋にいた彼女を刺した。

なんて馬鹿なのだろうと、自分を責めた。でも、もう責めてみてもどうしょうもなかった。

奴への怒りが芽生えはじめた。奴とは彼女の同僚のことだった。


それから数日経った。同じ引き出しの奥に、またなにか手紙のようなものがあった。このあいだとおなじでA4 用紙に横書きされたものだ。



わたしは、戸惑っている。彼をこんなことに利用してもよいのだろうか。もう引き返せないのか。どうしても、どうしてもあいつを殺してやりたい。殺すことで、自分がしたことの理不尽さを味あわせてやりたい。


どうしてあのとき、彼は中宮公園に記憶喪失で私の前に現れたのか。そのときまでは、自分自身で奴を刺し殺そうと考えていた。でも、神様の思し召しか、彼を見つけた。わたしは彼とは職場の同僚で、彼がいいま、どういう状態なのか薄々わかっていた。

彼は本当に何も覚えていなさそうに見えた。わたしが誰だかわからなかった。それがこの計画のはじまりだった。自分の手を汚さないで殺してしまおうと考えついた。彼が私の思いとおりに行動するように記憶を植え付けることで実行しようと。いつか記憶が戻ってすべてを知ったとしても、それはそれでよかった。彼の記憶が戻るか、いつまでも記憶をなくしたままでいてくれるのか、掛けだった、いや、どうでもよかった。とにかく確実にやつを殺したかった。私は小柄で非力だ、代わりにやってもらうほうが成功する可能性は高いと思った。

新しい記憶を植え付けること。私を妻として信じさせることに決めた。計画は思いのとおりに進んで、彼は偽りの生活を真のものとして生きている。

わたしの代わりとなり、確実にあいつを殺してもらう。

でも、そんなことをしたくない気持ちが沸き上がって来た。まるで薬缶のお湯が沸騰してしまったように、天高くまで届きそうな熱い湯気をふきながら。一度噴き上がったその勢いは止まらなかった。

私は彼を知らない間に徐々に愛してしまっていた。一緒に暮らして彼の優しさに触れるうちに、もうどうしたらいいのかわからなくなってしまった。わたしは、彼とのこの生活を手放したくはない。けれども、親友を殺された憎しみは消えないでいる。あいつに天罰を与えたい。わたしはどちらを選ぶべきか、いまはまだわからない、正直、このままわからないままで、いたいと思う気持ちもある。




第9話


最近は、いつもの彼と和菓子屋で会えば、しばらく話すようになった。名前を交換した。この商店街には6軒和菓子屋があるが、なぜこんなに決して広くはないところに6軒もあるのかと問うと、お城があったからだそうだ。城下町だったころの名残りだそうだ。きっと殿様が菓子好きだったのだろう。おかげで楽しませてもらっている。


引き出しの奥にあったA4のコピー用紙の手書きの文章を見つけ出して、ものすごく動揺していることを相談した。


「そうか、そういうことがあったのか。おし、この件は俺にまかせとけ!このつぎ会うときまでには、なにか力になることをしてやる。顔写真を撮らせてくれ」と言う。


なにをどうすれば力になってくれるのかわからないが、話を聞いてもらったことでいくらか気持ち軽くなったように思った。


「じゃあな。その北風堂のいも羊羹はやるよ。しっかりしろ!」と、言って去っていった。




第10話


「ねぇ、なにか少しは思い出せた?」


「それよりも、ちょっと調子が悪いんだ。病院に行きたいから、健康保険証を出してくれる?」


「あ、今ね、有効期限が切れるから更新手続きをしている途中なの。このあいだあなたの会社に提出してきたの」


「そっか、じゃあ、保険証が戻って来てからにするよ。ありがとう」


みやぁは大切な何かを隠しているようだ。



「またどこかに行こうよ。あなたのためにもいいと思うわよ。楽しんでこよう。倉島なんてどう?温泉と水族館ね♪」


僕たちは柔らかな温泉にゆったりと浸かり、旅館の夕食を向かい合って食べて、イルカが飛ばした水しぶきをかぶっては、はしゃいだ。非日常を楽しんだ。

こんな幸せの日々が続くならば、記憶なんてもとに戻らなくていいと。僕のなかには『記憶より欲しいものができた。それは彼女とのいつまでも続く日々のこと』。彼女と一緒にこれから生きていたい、そう強く思う。

彼女のこころが晴れるのならば、なんでもしてあげたい。記憶が戻っても彼女のことを愛している自信がある。

中宮公園で目覚めて以来の、彼女との暮らしは穏やかなものだった。これ以上の幸福はなかった。




第11話


あの文章があった机の引き出しに手紙があった。


わたしには、殺してほしい奴がいる。あの子とわたしの平穏な生活を引き裂いたやつだ。

あいつは、いつも19:30から大松駅西口に立って、何かを売買しているようだ。あいつを殺してほしい。あいつはいつも黒のデニムに白いスニーカーそして赤いデイバックを担いでいる。身長は165センチほどでキツネ目の痩せ型、眼鏡、イヤホンをしている。しています。


わかりました。つぎの土曜日にやります。

僕は返しておいた。


本当にそれでいいの?

次の日、返事が引出しあった。


それでいい。


警察に捕まったら?


うまくやるよ。心配しなくていい。


どうしたら心配する必要がないのか分からなかったが、この刹那を生きることだけがすべてだと決めた。それでいい。


「みやぁ、なにかあった?悩み事でもある?」


龍吉はみやぁの顔を見据えていた。今日は金曜日だ、土曜日に決行すると約束した。明日だ。彼女はあの返事を読んでいる。


「ううん、ないわよ。そう見える?」


龍吉には、みやぁがためらっているように見える。龍吉にもためらいがないといえば嘘になる。人を殺すのだからあたりまえだ。しかしやらねばならない。彼女がそう望むなら、どんなことだってしてあげようと固く決心してある。うまくいくというイメージしか龍吉にはなかった。成功したら、みやぁとの『これから』を得ることができる。




第12話


「みやぁ、いつもありがとう」


隣の布団で横になっているみやぁに言った。どうしても今日のうちに伝えたかった言葉だ。


「なによ。あらたまって」隣でみやぁは龍吉に背を向けて涙目になっていた。


「僕は君のためならば、なんでもできるよ。それで僕の人生が終りになってもいいんだ」


「・・・ばかね。あなたにそんなことさせるわけないじゃないの。わたしはね、いまあなたとのこの暮らしを手放したくはない。でもね」


「でも?」


「もうひとりのわたしがいてね」


「もうひとりの君がいて?」


「あなたを利用しようとしているの・・・」


「怒らないから教えて」


「私は自分に都合の良い記憶をあなたに植え付けたのよ。わたしたちが慎ましい夫婦でいたことも嘘よ。ストーカーも嘘の塊、わたしが話したことは、すべてでたらめ。作り話。あなたが奴を殺すように仕向けたの。わたしが殺してほしいのは、親友でなくて、わたしの元恋人なの!わたしを利用するだけ利用して、まるでごみのように捨てた奴のことよ。記憶が完全でないあなたに、わたしに感情移入するように、代わりに殺人をしてもらおうとしているの。本当のあなたじゃない、全然関係のない、あなたに殺人をさせようとしている。もし記憶が完全に戻った時、あなたは愕然とするに違いない。知らないうちに自分が殺人を犯したなんて、信じられること?自分の知らない女のためによ。そんな酷いことをしようとしているのよ。わたしは利己主義な女なの。自分のためだけに動く打算的な人間。あなたにはふさわしくない、最低の人間よ」


「いいよ。それでも。僕は君に感謝している。それくらいのことは喜んでやる」


龍吉の目は、もう揺れることがなかった。もうためらいはないと。


「馬鹿ね・・・・・」


「そうだよ」


みやぁは、眠ることができないでいた。気持ちが揺れる。なんども龍吉を起こして、もう止めようと言いたかった。

龍吉の覚悟は決まっていたが、それでも彼は眠れなかった。隣の布団で背を向けて寝ているみやぁの肩を見ながら、決意を新たにする。彼女が刺せと言うなら刺す、それだけだ、シンプルだ、やるまでのこと。そう考えると気持ちの乱れは穏やかになってゆく。

龍吉の反対側に顔を向けて眠っているようにみえる、みやぁは泣いていた・・・・・。




第13話


彼の記憶は相変わらずだったが、ひどく暑かった夏の記憶は鮮明に思い出された。


19:30


いま彼は歩道橋の上から駅口を見渡している。時間どおりに奴は現れた。彼女が言っていたとおり、黒のデニムに白いスニーカーそして赤いディバックを担いでいる。身長は165センチほどで顔はここからはよく見えない。大松駅は郊外に住むひとが利用するので、この時間帯は利用客がたくさんいる。簡単に人混みに紛ぎれることができるだろう。彼はこれからの行動を反芻した。歩道橋をどこから下りるのか、どの方向から奴に近づいてナイフを握るのか、そして一刺しで殺すまでを何度も頭の中で繰り返した。失敗はない、みやぁのためならできる。

彼は右手に握りしめたサバイバルナイフをジャケットの胸に隠して、ゆっくりゆっくり歩を進める。奴の後ろから近づいてゆく。これだけのひとだ、やることをやってしまえば人混みに紛れてしまえばいい。


あと1メートル。


胸からナイフを出す。


覚悟を決めた。



そのとき、誰かが彼の背後からナイフを握っている右手を握りしめて、そっとナイフを取り上げた。


「やめとけ。猫野ぶちお」


和菓子友達の圓八さんだった。



「猫野ぶちお、久しぶりに名前を呼ばれてどうだ」


「猫野ぶちお?」


それがキーワードのように、記憶をなくす前のことを思い出しはじめた。

同時に思い浮かんだのは、みやぁのことだった。


「オレがやらないと。やらないと!みやぁが、みやぁが・・・・・殺してしまう」


「みやぁなら、すべてを話しした。おまえを止めてくれと。おまえはもういいんだ。もとに戻っていい。無理するな」




第14話


みやぁは、オレに会おうとしなかった。何度オレたちの部屋に行こうとも、無言を貫き通した。

一度だけ手紙が郵便受けにはさまれていた。



たっちゃんへ

迷惑をかけてしまい、そして騙してしまい本当にごめんなさい。

お願いがあります。記憶が戻ったのであれば、わたしのことは忘れてください。

あなたと暮らした毎日は幸せでした。

ありがとうございました。


みやぁ



その後、部屋は空き部屋になった。




エピローグ



「新人警官、点呼する!」


「猫野ぶちお!」


「はい!」



「おう!猫野ぶちお巡査、これからしごいてやるぞ!」


「よろしくお願いします!圓八警部!」




オレは大好きな和菓子を絶った。



終わり



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