第9話 伝えきれない言葉
翌朝、寮の中は多くのメイドたちで溢れかえっていた。さまざまな色、形の制服を着たメイドたちが思い思いに主人を着飾らせ、玄関へと送り出していく。
クラリスもその例外ではなく、両親の送り込んだメイド数人によって美しく仕立てられた。
ピンクベージュの髪をまとめ上げる真っ白なパールをふんだんに使ったヘアピース。淡いペールローズ色を基調とした、幾重にも重なったチュールが空気を含むように広がるドレス。肩をそっと包むオフショルダーの袖は控えめで、デコルテを見せすぎない慎みがある。
身頃には立体的なバラの刺繍がいくつも施され、花びら一枚一枚が浮き上がるように縫い止められている。たっぷりとしたボリュームをもちながら、花びらが裾へ向かってこぼれ落ちるようなそのドレスは、見る人全ての視線を奪った。
「ベル伯爵ご夫妻もご覧になりたいとしきりに仰っていました」
「殿下もさぞ、お慶びになられることでしょう」
自らの仕立て上げたクラリスの美しい姿を前に、メイドたちは口を揃えて美しいと褒めちぎる。
(殿下のお喜びになる顔は……どんな顔だったかしら)
アルベルトの名前出されるたび、クラリスは高揚した気分を必死に胸に押し込める。期待しすぎてはいけない、言葉を求めてはいけない、と懸命に自分に言い聞かせた。
やがて、王家の紋章をつけた一際豪華な馬車の迎えがやってきて、クラリスは大ホールまでのほんの数百歩を、カラカラと揺られながら進んだ。
(今日は、"婚約者"の役割を果たすべき日だから、気にしてはいけない)
幼い頃、向かいに座っていたアルベルトの姿を思い出す。
初めて二人きりでお茶をして、庭師に頼んでバラを摘んでくれた日。進学に悩んでいたクラリスを「同じ学舎に来ればいい」と推薦してくれた日。いつだってクラリスの思い出の中にはアルベルトの存在がある。
(今更言葉を欲しがるなんて、子供っぽいのは私の方)
婚約者としての役割を果たすことが、自分のやるべきことだということは百も承知している。それでも彼に愛されたいと願い、期待してしまう自分の愚かさに、クラリスはまた大きくため息をついた。
「到着いたしました。ご用意は宜しいですか」
御者が小窓から声をかける。問題ないと返事をすれば、細かい装飾のなされた小さなドアがかちゃりと音を立てて開く。そこには正装姿のアルベルトがすでに到着していて、白い手袋をつけた黒い礼服の腕が、クラリスの方へそっと差し出された。
「ありがとうございます」
その手を取り、ゆっくりと馬車を降りる。真っ赤なカーペットへ足をつくまで、その裾を踏むことのないように慎重に裾を持ち上げ、そろりと足を前へ踏み出した。
ドレスに合わせて作られたような、立体的なリボンと花びらの飾られた靴が、ドレスの裾から覗く。今回贈られたものの中で一番気に入っていたその靴が見えたことで、クラリスの緊張はほんの少し遮られた。
普段はさらりと流れているだけのアルベルトの前髪は、きちんと固められてオールバックになっている。
無駄を削ぎ落としたような端正な黒い礼服は、白銀の縁取りが直線的に走る。規律と理性を象徴するように肩からは太い飾緒が伸び、胸元には滅多に見ることのないダイヤモンドの勲章が飾られていた。
長いマントは内側だけが白く、歩くたびにアルベルトの背後から光が覗くように揺れた。
完璧なその装いは、王太子としての威厳を余すことなく示していた。
クラリスは一瞬、差し出された腕の向こうにある距離を測るように視線を少し遠くへ落とした。幼い頃、同じ目線の高さで笑い合っていた面影は残っているものの、目線の高さは座っていても合わなくなってしまった。
(それでも……)
今日だけは、隣に立つと決めた日だ。
婚約者としての使命を果たす夜。彼からの言葉は期待しないと、何度も自分に言い聞かせてきたのに。
クラリスはそっと背筋を伸ばし、気づかれないほど小さな深呼吸をしてから、改めてアルベルトの腕へ指先を添えた。
冷たい手袋越しに、アルベルトの手が触れる。その質量を感じる確かな存在感に、クラリスの薄い胸がわずかに跳ねた。それでも、顔には完璧な微笑みを浮かべたまま、ふたりはゆっくりと会場へ向かった。
***
天井まで続く大きなドアを過ぎれば、天井に夜空が輝く大ホールが二人を待っていた。普段から豪華絢爛なホールが、今日は蝋燭やリボンでさらに美しく盛大に飾り付けられている。一等星を模した飾りが宙を舞い、そこかしこで火花を出して燃える火球がガラス玉の中で弾ける。
「まぁ綺麗……」
「……あぁ――綺麗だ」
思わずこぼれる感嘆の声に、アルベルトも小さく息を漏らす。何か言いかけては目線を逸らした彼の言葉は、結局言葉にならないまま、喉の奥でかき消されていった。
周囲から見ればふたりはまさに理想の組み合わせだった。
一人っ子として生まれた王子の卒業を祝うパーティに、幼い頃から婚約者として大切にされた伯爵令嬢が、オートクチュールのドレスで入場してくるなんて、次はいつ見られるかわからない。
無理をして家族のお古を着てきた奨学生や平民出身者たちは、アルベルトとクラリスの組み合わせに黄色い歓声をあげ、「こんな近くで見られるのは今だけだ」とひしめき合う。
そんな人々の希望になればと、アルベルトはクラリスをファーストダンスへ誘った。
差し出された手を取ると、アルベルトのエスコートに迷いはなかった。幼い頃から幾度も繰り返してきた所作。覚え込ませた通りの動きに、クラリスの足も自然とついていく。
ゆったりとしたヴァイオリンの音楽が流れ出す。それはクラリスが幼い頃によく弾いていた懐かしい旋律。複雑に重なり合った音階は徐々にペースを上げ、明るい音色へと変化していく。
ステップは完璧だった。息の合わない瞬間はひとつもなく、視線を合わせずとも、彼の指先の握りの強さや腕の感覚で、次の動きがわかる。
「流石のおふたりだわ」
「まるで物語から出てきたみたい」
「本当のお姫様と王子様だもの、当然よ」
周囲から惜しみなく降り注ぐ賛辞。それはすぐにリズムを取る拍手となり――クラリスの心を静かに暗闇へと導いた。
(人並みに見ていただけるくらいには……整えたつもりでしたのに)
人前で微笑みかけて欲しかったわけでも、愛の言葉を囁いて欲しかったわけでもない。
ただ一瞬でも、自分だけを見て欲しくて。自分だけに向けられる言葉を待っていた。
――それなのに。
音楽が終わり、再び拍手が湧き起こる。
互いに礼をしてから両手を開き、観客へ大きく礼をする。そっと離れる間際にアルベルトがクラリスの名を呼んだ気がした。けれど、それは来賓からの声掛けによって遮られた。
「アルベルト! 僕らの仲でも流石に"久しい"といって遜色ないのでは!」
明るい声と訛りから、おそらく長く留学していた者なのだとわかる。名前は知らずとも彼を呼び捨てにできる仲ならば問題ないだろうと踏んだクラリスはそっとその場を離れ、細いフルートグラスに入ったドリンクを手にテラスへ逃げ込んだ。
***
どのくらいの時間が経ったのだろう。駆けてきた頃には薄紫色だった空は真っ暗に染まり、いくつかの星が瞬いていた。
「私も本当に、流れ星だったら――」
キラキラと揺れては消える泡をあの日の流れ星に重ねて眺めては、さらりと飲み干して、見えないふりをする。ふと目に入った左手首のブレスレットには透明感の強い大きなエメラルドが留められていて、クラリスが誰のものであるか明白な作りになっている。
「あなたって、本当に綺麗ね。でも……」
(アルベルト様の瞳を思い出すから、これ以上見たくない)
今夜はきっとこれ以上、人前で踊ることはないから――いっそのこと外してしまおう。今日はなぜかそんな大胆なことを考えた。
フルートグラスを使用人に下げさせて、ブレスレットに手をかける。金具なんて滅多に触ったことがなくて、どう外していいかなんて、わからない。それでも今夜は、なぜか逃げずに触れてみたい気がした。




