第5話 殿下の判断で
噂を聞き飽きたクラリスは放課後、早々に教材をバッグへしまい、席を立った。骨董品のような飴色の机と椅子は固く、腰を上げた拍子に体まで軋んだような気がした。
クラリスの身長の何倍もあるドアへ一直線に歩を進めると、廊下の方から何人もの黄色い悲鳴が聞こえる。まさかと思いながらドアを引くと、そこには一番的中して欲しくない相手が同様にドアを開けようとし、立っていた。
「クラリス」
「……アルベルト様。ご機嫌麗しく」
「ああ。なんだ……その。少し話しておきたいことがあってだな。今少し時間をもらえないだろうか」
アルベルトの教室はクラリスの教室の真上。階段からの距離を考えると、講義終わりにすぐ降りてきたとしても、クラリスの退室と入れ違いになる可能性のある時間。それでも今更彼がここへ来たことを、クラリスは――疑問に思った。
「残念ですが」
一拍置いて、にこりと微笑む。
「殿下が私よりも優先されることがありますように、私にも、優先したいことがございますの」
「それは……」
「殿下のご判断で構いませんわ。友人を待たせておりますので、先にお暇いたします」
ぺこりと頭を下げ、先に教室を出たイザベルの背中を追う。待たせていることは、嘘ではない。ほんの少し良心が痛むけれど、クラリスは後ろを振り返ることなく廊下を急いだ。
***
――クラリスはいつから、あんな顔をするようになったのだろう。
それはとても優雅で、少し大人びた目線で、自分なしでも立っていられるような顔だった。
手の届くところにあったから――
ちょっとやそっとでは誰にもなびかないと、信じ切っていた?
胸元に輝く王家のブローチが、今はとても恥ずかしい。針でちくりと刺されたような違和感を、無視することはできそうになかった。
***
長い廊下の角を曲がり、階段へ続く道を進む。階段を降りたところで、イザベルとカイは楽しそうに談笑していた。
「あっ……クラリス!」
「クラリス様! ……なんだか顔が赤いですね」
「もしかして、アルベルト様がようやく……とか?」
カイは例の噂の一人になっているというのに、この数分でイザベルと意気投合した様子だった。カイに対しての恋愛感情は、まるでない。思い出すだけで頬が染まることも、一通の便箋に時間をかけることもない。だからそれは、まるで女友達が1人増えたような喜びだった。
「ふふっ……ただ少し、私の言いたいことが言えて、すっきりしてしまいました。それよりカイ、さっき教室から火球が見えたのですが、さらに球速を上げましたわね」
「見えてた? クラリスの用意した道具に変えてから、軌道が安定してさ」
「貢ぎ甲斐がありましたわね」
「それ、推し活の正解ムーブです!」
「……正解ムーブ」
「ええ、推しのために尽くせて幸せ、それこそが正解」
イザベルが嬉しそうに眼鏡を上げる。よくわからないままに笑うカイとそのイザベルの間に入って、腕を取る。早く競技場へ行きたいことを伝えると、二人も「すぐに行こう」と賛成した。
そのすぐ後、階段を走って駆け降りる足音が廊下に響く。けれどその角を曲がった先に、その人が探している姿はもうなかった。




