第4話 噂の矛先
数日後、競技場には明るい笑い声が響き渡っていた。一角には新品の箒が並び、補修された結界の支柱には真新しい魔法陣が刻まれている。擦り切れていた防具も新調され、部員たちの胸元にはベル伯爵家の家紋が揃って輝いている。
「……本当に、遠征の準備が始まっているのね」
クラリスは少し離れた場所から、その光景を静かに見つめていた。
『見ろよ、あの量。一式でいくらするんだよ』
『どうやら、クラリス様の心を射止めた方がいるんだとか』
『まさか。卒業後は王太子殿下とご結婚なさる方だろ』
ヒソヒソとした声が、運動場の外側で交わされている。それでもクラリスは、いつも通り凛とした横顔で教室へと向かった。
「王太子殿下、婚約者に捨てられたらしいぞ」
「俺は、クラリス様と駆け落ちする男がいるって聞いたが」
「それってあの……戦闘狂って噂のやつだろ、俺も聞いたぞそれ」
貴族の多いクラリスのクラスでも、教室内はベル伯爵家の話で持ちきりだった。貴族のもとで回るゴシップはいつも新鮮で、本当の話が混ざっている方が過激に盛り上がりやすい。言葉は、誰の顔も責任も持たないまま、勝手に形を変えていく。
今回の話も、しばらく平穏だった校内にはとても刺激的で、尾鰭がついてあっという間に広がった。
「……どうしましょう」
思わず、言葉が漏れる。支援を喜ばれること、それがベル伯爵家であることを囁かれるのは想像していた。けれど、まさか自分だけでなくアルベルトまで噂の的になるとは思っていなかった。
「……どうもしなくていいのでは?」
隣の席に座っていたイザベルが身を乗り出すようにして、クラリスの方へ体を向ける。
「こちらが黙っていれば、すぐに別の噂に夢中になります。それに……」
得意げにメガネの高さを直したイザベルは、クラリスへ耳打ちする。
「これは全部、アルベルト様の日頃の行いの結果です。きちんと時間を作って話していれば、今頃は収まっていて当然なのに」
イザベルは一度息を吸い直し、さらに早口で捲し立てる。そんな姿を、クラリスは黙って見つめるしかない。
「そもそもアルベルト様はクラリス様を軽視しすぎなのです。私たちが一緒にいるからって安心しちゃって」
「でもそれは、きっと信頼してくださっているからで……」
「そんなわけありません! もう全部全部、アルベルト様のせいです!」
イザベルが代わりに怒るから、クラリスはなかなか怒るタイミングを掴めない。いつもこうなのよね、と思った途端、笑みがこぼれる。
「笑っている場合ではないんですから!」と唾を飛ばすイザベルを、クラリスは笑って宥めた。
***
生徒会室へ向かう廊下は、いつもより静かだった。正確には――静かすぎた。
「見て、噂のアルベルト殿下よ」
「婚約者を放っておいた挙句、捨てられてしまうなんて」
「そんな時でも執務を優先されるのだから流石ですわ……」
すれ違いざまに、ひそひそと話す声が耳に入る。どれも顔を上げて言うには憚られる内容だというのに、アルベルトは足を止めなかった。
背筋を伸ばし、表情は一切変えない。ただ重苦しい空気を抱いて、生徒会室の扉を開けた。
室内にいた全員が一斉に顔をあげ、不自然に目線を逸らす。書類の擦れる音、羽ペンの走る音。それが返って不自然なくらいに、沈黙を強調する。
「……揃っているな」
いつも通りの声。それだけで、場の空気が完全に溶けることはない。窓際、中央にある席へ着き、綴られた書類に目を落とす。だが、視線の端で交わされる視線とため息を、アルベルトは逃さなかった。
「さて」
最初に沈黙を破ったのは、隣に座る副会長だった。苦笑いを隠そうともせず、アルベルトの方をポンと叩く。
「僕たちも、アルベルト様のおかげで恋人に会えない日々が続いていますが」
「……」
軽口のようでいて、逃げ道のない言葉。
「それでも殿下が"進める"と仰るなら、このまま続けましょう。今まで通り」
先に数枚の書類へペンを走らせていたアルベルトの手が一瞬、止まる。自分が何を放置し、その結果がどこまで広がっているのか。理解していないわけではない。
けれど。
「……構わん、続けよう」
短く、そう答えた。
誰かが、やれやれと言いたげにため息をつく。他の誰かは何も言わずにそっと視線を伏せた。
アルベルトは再びペンを動かし、副会長は書類の先頭にある議題から問題を提起していく。会議は滞りなく進み、議論を終えた書類達は整然と積み上げられた。
アルベルトの胸の奥には、まだ言葉にできない僅かな違和感だけが残っていた。




