第3話 ノブレスオブリージュ
クラリスは、ベッドへ入っても、翌朝目が覚めても、昨夜の光を忘れられずにいた。
恋とも友情とも違う。ただできる限りの支援をしたい、これからも怪我をせずに大きな夢を掴んで欲しい。
そんな素直な応援の感情が、湧き出して止まらない。
(イザベルの言っていた推し活って、まさか……こういう感情のことを指すのかしら)
今までに抱いたことのない感情に、胸が高鳴る。そしてそれを誰かに伝えたいと思った時、クラリスが一番に伝えたいのは婚約者であるアルベルトだった。
文箱の中からお気に入りのバラ模様のミニカードを手に取り、端的に「支援について話したいことがあります。お茶の時間に少しお会いできませんか」と綴る。窓を開けてリリーが朝の挨拶をしにきたところへ、リリーの首に下げられた小さな筒へカードを入れて託した。
パタパタと小さな羽音がして、リリーが彼の寮の方へ飛んでいく。この後ろ姿に、今度こそと願いを託したのは何度目だろうか。断りの文が3回を超えたあたりから、クラリスは数えることをやめてしまった。それでも、「今日こそは会えますように」と願ってしまう。
(きっと、いつまでもこの調子ではいけないのよね)
婚約関係になったのはクラリスが九歳、アルベルトが十歳の歳の生誕祭の夜だった。当時の彼はまだいたずら好きで、クラリスはしばらくの間、これも冗談なのだろうと思っていた。
けれど、それから八年。
クラリスは十七歳、アルベルトは十八歳になったけれど、その関係は覆されることなく、冷え切ったまま続いている。
「……せめてこの"役割"を終えると、知らせてくださればいいのに」
クラリスがぽつんと呟いた言葉は誰に聞かれることもなく、ただ机に落ちた一滴の黒いシミに、吸い込まれるように消えていった。
***
暖かな陽光と冷え切った空気が、やけに爽やかで心地のいい朝。明るい茶髪の男子生徒が、寮から通う学生たちの間を縫うように、走っていく。
「おはよう。昨日ぶりだな」
「まぁ、カイ様。おはようございます。ご機嫌いかがですか」
カイ様と呼ばれた青年は、クラリスの方を覗き込んだ。クラリスの手のひら、2つ分ほど高い位置にある顔に違和感を感じる。昨日はもう少し遠くから会話しただけだものとクラリスは自分に言い聞かせて、カイの方を改めて見やる。
そんなカイはといえば、貴族だけが身につけるリボンとピンバッチがクラリスの胸元で光るのに気付いた様子で、少し居心地悪そうな顔でクラリスの方を見つめていた。
「ご機嫌、は、まぁまぁかな。あのさ……どうせ同じ学年なんだし、俺、敬語とか得意じゃないから、友達らしく話しても、いいか?」
「友達……? いいんですの?」
「もちろん。まぁ今更違うって否定したって、こうやって話す相手ならもう友達だろ、な」
おもむろに顔の高さへ片手を上げたカイは、「ん」と声をかける。不思議そうに首を傾げたクラリスへ同じように手を上げるように指示すると、その手を合わせるように叩いた。
「これ、俺の地域で友達がやる挨拶。ハイタッチ。いいだろ」
「……いい、ですわね」
「おう」
「ではカイ、私のこともクラリスとお呼びになって」
「はいはい。じゃ、またなクラリス」
「ええ、また」
アルカナ魔術院は様々な学科があり、それぞれが異なる学舎へ移動するため、ふたりは簡単に挨拶をして別れた。そんなこともしたことのないクラリスには刺激が強く、クラリスは制服の裾の下で小さく足を踊らせた。
一時限目の教室へ向かう途中、クラリスはイザベルを見つけると、いつもより少しだけ足取りを早めた。
「イザベル」
「はいはい、どうしました〜……ってその顔。何か、ありましたね? まさか、ついにアルベルト様から逢瀬のご連絡が?」
瓶底メガネの奥で、イザベルのブラウンの瞳がきらりと光る。獲物を逃さないとでも言いたげな、妙に鋭い目つきをしている。
「残念ながらお返事はまだ。でもね、今朝、競技部の……カイが、声をかけてくださったの」
「……"カイ"? カイって、あの、カイ・シャクス様?」
即座に判断がつくイザベルに、クラリスは小さく笑う。
「ええ。敬語は苦手だから、友達として話して欲しいとおっしゃって。ですから、呼び捨てで」
「……ほう」
イザベルは一拍置いて腕を組み、クラリスの首元がほんのりと赤くなっているのを凝視する。
「それで? まだありますわよね」
「挨拶も……その、少し変わっていて、手を、こう……」
クラリスは説明しながら、イザベルの手を掴んで今朝の挨拶を再現する。その仕草を思い出しては、頬が思わず緩んだ。
「なるほど。そうやって距離を詰めてきたわけですね」
「そ、そういう意味では決してなくて……」
慌てて否定するクラリスに、イザベルはくすりと笑う。
「冗談です。いいではありませんか、私以外にも気負わず話せる相手ができることは、今後の国政にも良い影響があるかもしれませんし」
「え、ええ……そう、ですわね」
クラリスはほっとしたように息を吐き、胸の前で手を重ねる。挨拶をして、名前を名乗っただけなのに、なんだか嘘をついた時のような罪悪感がある。その気持ちを少しでも軽くしようと、朝に起こったことは全てイザベルへ話した。
「それでね。放課後、今日も競技場へ行こうと思っているの。模擬戦があるそうで」
「まあ」
イザベルは一瞬だけ言葉を切り、にこやかに頷いた。
「楽しみですね。……とても」
***
昼休みの鐘が鳴り、教室の空気が緩む。学生たちはそれぞれにランチバッグを持ったり、カフェテリアへ向かったり、思い思いにお昼休みを楽しみ始める。
「やっと待ちに待ったお昼ですね!」
イザベルの弾んだ声にクラリスは微笑みかけて、カフェテリアへ行こうと誘おうとした――その時。
廊下からふわりとした影がやってくる。黒く艶のある毛並みに、気品ある長い尾を持った、見慣れた黒猫が、教室の入り口に静かに座っていた。夏よりも少しふっくらとした様子の黒猫は、利発な顔立ちでクラリスをまっすぐ見つめている。
「……ノワゼット」
小さく名を呼ぶと、黒猫はゆっくりと尾を揺らしながら、クラリスの方へ歩み寄る。首元には、クラリスの白い小鳥とお揃いの小さな革の筒。魔法でその手紙を当てた相手にしか開けないこの魔道具は小さいながらも多くの学生に重宝されている。
「まぁ、殿下の?」
「きっとまたお断りのお手紙ですわ」
視線を集めながらも、ノワゼットは真っ直ぐクラリスの前まで来ると、当然のように彼女の膝へと飛び乗った。
重みは、ほとんどない。それでも、彼をほんのりと近くで感じられる気がして、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
「……ありがとう」
封がなされた手紙を抜き取ってそっと背中を撫でると、黒猫は「にゃあ」と短く鳴いた。それは黒猫からの挨拶というより、事務的な合図のようだった。
クラリスはくるりと巻かれたカードに目を落とす。
そこに書かれていたのは、予想していた通りの簡潔すぎる文字だった。
『空き時間は会議に充てている。支援は貴族の責務だ。君の判断でいい』
たった、それだけ。文字をなぞる指先が、最後の丸を見つけて、止まる。クラリスは小さく息を吐いて、すぐにカードを元の筒へ戻した。
「……そう、ですわよね」
その声は、クラリスも驚くほど冷静で穏やかだった。
黒猫の背をもう一度撫でると、満足したように軽く目を細め、もう一度にゃあと鳴いてからするりと膝を降りていった。
「クラリス」
イザベルが、何かを言いかけて、口をつぐむ。
クラリスは一瞬だけ目を伏せてから顔をあげ、何事もなかったかのようにイザベルを連れて教室を後にした。その歩調は、ほんの少しだけ早く、何かから目を逸らすようでもあった。




