"タガメ"での最初の活動
201号室に戻り、吐いた、吐き出した。
ウイスキーなんて度数の高すぎるものを、キチンと飲んだのはこれが初めてだった。
ぐらり、ぐらりと目が回るのを感じた。
田辺の吸っていたタバコの匂いがシャツに染み込んでおり、プンとしたその匂いでもう一度吐いた。
そして指印を押してしまった、という事実の恐怖でまた吐いた。
もう胃の中のものは空だった。
臓器がひっくり返って口から出てくるのではないか、と不安になるほどに吐いた。
朦朧としたままとにかく布団に体を預けた。
意識が途絶えることはなかった。
もう、23時である。
たった3時間である、その3時間が、私の人生を大きく狂わせようとしているのだ
これから、どんなことをさせられるのか、想像もつかなかった。
酔った頭では、尚更。
とにかく、バナに伝えなければならない、検閲されているスマホだ、どのように文章を送ればいいか、よく考えた。
なんとかして、一秒でも早く、彼女に伝えなければ、また何か彼女を脅かす出来事が起きてしまうかもしれない。
「俺の部屋に、ないはずの石鹸があった。これ以上アレについて言うのはやめよう」
と、これだけ送った。
読み取ってくれ、汲み取ってくれ、そう思いながら私の意識は気持ち悪さに捉えられながら、落ちていった。
────先輩からのメッセージが届いた。
ちょうどバイトを終え、帰路についていたところだった。
ポップアップされたメッセージの内容はよくわからずにいたが、思考を巡らせるうちに、"メダカ"のことだ、と気づいた。
『ないはずの石鹸』盗聴器か、その類のものだろう、先輩が巻き込まれたことを確信した。
そして申し訳ない思いにどんどん飲み込まれていった。
私が、喫煙所で軽く口にしてしまったから、彼が巻き込まれてしまったのだ、どうも弁明しようがない。
ただあの時はそれが彼と話せる話題の一つとして、飲みに行ける口実を作っていたにすぎないのだ。
それが行きすぎてしまった。
後悔しても仕方のないことだが、それでも、と思ってしまう。
この話は先輩と直接会った時に話をしよう、私のスマホ発では、お互いにどんな危険にさらされるかわからないからだ。
メッセージには既読をつけず、スマホを閉じ、また、目も閉じた。
スーッと深く呼吸し、周囲を見渡した。
わかる範囲では、不審者はいない。だが、もしかしたら他にもいるのかもしれない、という恐怖にここ数日は怯えている。
警察に頼んでみるか、とも考えたが、D社なら警察も手綱を握っているかもしれない。
八方塞がりだ、どう抜け出せるのだろう。
家族と親友以外に、もう信頼できる人は先輩しかいない。
だが、いずれの人たちも巻き込むわけにはいかない。
どんどんと疎外されていく感覚に侵されていた。
いけない、いけない、と長い髪をはらい、また深く呼吸した。
来週だ。来週なら先輩とシフトがかぶる。
そこで何か話そう。
私たちは、孤独になってしまった者同士だ。協力して、この不快感から抜け出さねばならない。
────目が覚めると、昨晩の不快感を口の中に感じた。
朦朧とした頭で、ふらつきながら歯を磨いた。
口を濯いで、吐き出したあと、水をがぶ飲みした。
臓器の不快感はなかった、二日酔いにはならずに済んだようだった。
落ち着いて、一服した。
すると気持ち悪さがぶり返してきた。
すぐに吸うのをやめた。
シャワーを浴び、朝食と呼んでよいかわからないものを口にし、また布団に戻った。
メッセージを開いた。
田辺から次の金曜日、12時、また公民館で、という旨のメッセージが届いていた。
そうだ、私は倫理を越えて、闇の中に浸かろうとしているのだ、と思い出し、トイレに駆け込み、戻した。
今日と明日はバイトがある。
それまでにこの気持ち悪さの中から抜け出さなければならないと心に決めた。
とにかく、目的もなく外に出た。
コーヒーを買い、飲みながら歩いた。
いつもは全く歩かない道を選び、日光を浴びた。
すると、民家にも"めだか"と書かれたプレートが掲げられていた。
この町は"めだか"が浸透しているのだ。
そう思うと恐怖に苛まれずにはいられない。
D社はどのように制裁を下すのだろう。社会的な抹殺なのか、それとも本当に命を狙ってくるのか。
私は男だからいいが、女性になるとさらに耐えられないような、屈辱的な何かを味合わせられるのではないか、そういう不安も感じた。
とにかく、私は"タガメ"の一員になったのだ。
腹を据えて、この不安感から抜け出すアクションを起こさなければならないのだ、と途方もなく思った。
バナからの既読はつかなかった。
もう二日である。
何かあったのではないか、と不安になるが、検閲を恐れてのことなのかもしれない。
私は、彼女との繋がりが薄れていく感覚に陥っていた。
"タガメ"への加入、"メダカ"からの監視、社会から見ればどう映るのだろうか。一介のフリーターが、気がつけばテロリストたちへの協力をすると宣誓し、大手広告代理店からは反抗勢力として目をつけられている。
なぜこんなことになってしまったのか、どんどん社会から『私』という存在が疎外され、不可解な存在とされていくのを感じる。
バイトを終え、いつも通り喫煙所でタバコを蒸していた。
私にはいつも通り、が徐々に戻る感覚があったが、金曜日にはまた「いつもと違う」ことが待っている、ということを思い出し、寒気がした。
やはり報復を、と思ったことはいけないことだったのだろうか。
色々な考えが頭の中によぎっては消え、よぎっては居座り、頭の中が混雑しているのがよくわかった。
とにかく帰ろう、帰って飯を食って、早く寝よう。
そう思った矢先だった。
携帯が震えた。田辺からだった。
通話に出ると彼は高揚した高い声で私に問うた。
「こんばんは、夜分にすみません、今お時間大丈夫ですか」
「はい、今ちょうど帰宅しようとしていたところです」
「それは都合がいい、先日お話ししていただいた、駅前のテナントビルの"めだか"のバックヤードへの入り方が判明しました。今からあのテナントビルまでお越しください」
ゾッとした。
金曜日まで時間がある、と思っていたのに、こんな早く活動に参加させられるのだ。
私は断れなかった、「お越しください」だ、選択肢はないのだ。
私はおずおずと「はい」と答え、通話を切った。
震えた、腹を据えようと思ったにも関わらず、まだ怯えている自分がいる。
酒の席でのほんの3時間が、私の人生を大きく揺るがそうとしている。
不安でいっぱいだった。
おもりがついたのではないのかと思うほどに体が動かなかった。
ゆっくりと歩みを進め、駅まで歩いた。
向かう道の信号は、赤信号だった。
歩みを進めているうちに、バナのことを思った。
バナだけではない、"メダカ"で苦しめられた人たちのために一矢報いるのだ。と、背中からゾクゾクするほどの想いが込み上げてきた。
私は彼らの代打だ、思い切りバットを振り抜くんだ。場外に飛ぶような軌道の放物線を描くのだ。
そうすると勇気が湧いてきた。
何かをするんだ、何かを。
田辺の指示通りに動いて、一つ何かするのだ、と私はわけもわからず興奮していた。
歩みがどんどんと速くなっていった。信号は全て無視した。
人気のない時間だ、いいだろう。
この程度は。
もっと、もっと大きなことをするんだ。
街灯が私の通る道をパレードの演出をしているかのような感覚になった。
不安、疑問、全てを投げ出した。
考えるのが面倒になったのかもしれない。
テナントまであと少しだ。
そうして目的地に着いた。
暗くてよくわからなかったが、田辺とあと2〜3人いた。
公民館で出会った、長身で痩身の女性の姿はあったが、海周さんの姿はなかった。
女性が私に気づくと、マスク、ニット帽と手袋を渡して言った。
「ようこそ、"タガメ"へ」
変わらず感情の見えない無機質な声だったが、マスクの下で笑みを浮かべていることはわかった。
すると田辺が
「これから6Fのバックヤードまで向かいます。6Fに着くまでに、エレベーターのボタンをコマンド入力し、バックヤードに侵入します。そうしたら、あなたはエレベーターの中に残り、開閉ボタンの開けるボタンを、扉が閉まらないように押し続けていてください」
──私は拍子抜けした。
高揚していた感情がすとんと落ちた。
「あなたがいてくれるだけで百人力です、この人数じゃなきゃ、できないことです」
そう言うと私が見つけるのに苦労していた入口へさっさと入り、私を手招きした。
心臓は高鳴っていた。当然だ。
サークルに入ってからの初活動だ、ただボタンを押しているだけとはいえ、物凄い重圧のかかる仕事だと思った。
他の男がエレベーターの階数ボタンを複数回押し、ぐるりとエレベーターの中が回った感覚がした。
そして、チン、と音を立てて6Fについた。
私はその異様な光景に息を呑んだ。
何mもある水槽に、本当に鯉のような大きさのめだかがうようよいた。
「これが"めだか"…」
「そうです、これから、ここはもう使えなくなるまでに壊します。ボタンから絶対に指を離さないでください。入り方は判明したのですが、戻り方が判明していない。
必ず5分以内に終わらせます」
そういうとエレベーターの中にいた集団はバックヤードに赴き、おもむろに水槽を拳銃で叩いた。
一度では割れなかった。
何度も、何度も叩いていた。
やがて水が少しずつ破壊されたガラスから出始めた。
するとその内の一人がサイレンサー付きの拳銃で水槽を撃った。
躊躇いがなかった、すぐにその破壊された面は水槽という形を保てなくなり、バシャっと音を立てて崩れた。
私はエレベーターの中からそれを見ているだけだった。
呆然としていた。
初めて聞く拳銃の音に、見たことのない大きな水槽の瓦解、それが何度も何度も繰り返し行われていた。
床には大きなめだかが流れ出て、ピシピシと音を立てて悶えていた。
私は───ただただ見ていた。
そして田辺が何かを見つけ、仲間たちに声をかけ、一斉に乾いた音が聞こえた。
薬莢がカランカランと何個か落ちる音と一緒に。
そして田辺たちは戻ってきた。
「終わりました、さあ、帰りましょう」
呆気に取られているうちに、全てが終わったようだった。
全員がエレベーターに戻り、扉は閉められ、1Fの入り口まで着いた。
そして、即座に全員が散らばり、何事もなかったかのように消えて行った。
田辺も「お疲れ様でした、ではまた金曜」
というと去って行った。
私は立ち尽くしていた。
開いた口が塞がらない。
マスクが伸び、息苦しさを感じたところで意識が戻った。
乾いた音の残響が、鼓膜をビリビリと震わせている。
とにかくここにいてはならない、と気づき、私も放心状態のまま部屋へ戻った。
部屋までの道のりが、やけに短く感じた。まばたきを一度もしなかったのではないだろうか。
扉を開け、鍵をかけ、呆然と立ち尽くした。
散らばったスニーカー、サンダル、就活用の革靴、ペットボトルのゴミ、生活感のある玄関に戻ってきて、ようやくハッと意識が戻った。
銃を使った集団に加担した。
なんとも言えぬ感覚が体を駆け巡った。
俺は悪いことはしていない、傍観していただけだ、と思った。
ボタンを押していただけだ。
そう思わないと、いけない気がした。
自分の事ではないかのように思えた。
だが、それが…それが、なんだか気持ち良かった。
あの乾いた音が、水が噴出する音が、"めだか"が床で跳ねている光景が、鮮明に蘇り、気持ちの昂りを感じた。
なんだかスッキリした。
あの人たちと一緒にいれば、"メダカ"に苦しめられる人たちを減らせるのだ、と確信した。
靴を脱ぎ、水を飲み、そのまま意識を失うように膝から床に倒れ込んだ。




