橘稚菜という人
────先輩に駅で見送ってもらってから15分は経った。
先輩の手は男性のものとは思えないくらい小さく、暖かかった。
左手にまだ先輩の右手の温もりが、感触があった。
まだ夜の時間としては早いが、私の地元まで向かう電車は閑散としていた。
迎えを姉に頼んだ、駅まで迎えに来てくれるそうだった。
話すだけ話して、脱力してしまった。先輩に、話せるだけのことは話した。
それがよかったのか、どうかわからない。
ただ先輩は否定せず、話を親身になって聞いてくれた。
それがただ嬉しかった。
他人のために泣ける人なんて初めて見た。そう思った。
佳い人なんだよな、と私は改めて認識した。
このまま座ってしまうと恐らく最寄駅を寝過ごして通過してしまうかもしれない。
そう思ったので閑散とした電車の中で、立ち尽くしていた。
イヤホンをした。ピアスが少し邪魔に感じた。
だけど外す余力すら残っていない、少し痛みを感じながらイヤホンをした。
いつもの音楽で、外界をシャットアウトした。
それがとにかく心地よかった。
H市に向かうまではイヤホンをしなかった、ただ電車の揺れる音と人のざわめきを聞いていた。
すると、先程からこちらを睨みつけるかのような視線を感じた。
閑散とした電車である。一目でその視線の主がわかった。
ジロジロと見られても不快なので、車両を変えた。すると引き戸を開くところまでジッと見られていた。
怖かった、変な人だった。
車両を二つ変えた。
そこまでは視線は届かなかった。
少し安堵した。
所属している"メダカ"の少数グループに「サークルを抜けます、お世話になりました」とだけ書くとすぐに既読がつき、グループから強制退会させられた。
これで一つ肩の荷が降りた。
ほっと肩の力が抜けた。
これでいいんだ、これが良かったんだ、となだめながら言い聞かせるように自分の中で反芻した。
少し時間が経ち、最寄りまであと10分というところまできた。
個別のトークで辞めちゃうの?と何件かメッセージが届いた。
悪い人たちじゃないんだけどな、と思いながらもそれらに既読はつけず、消した。
携帯をいじっていれば2時間なんてすぐなのだ、慣れ切った電車生活は、こういうところで生きてくるのだ。
自宅から最寄りの駅にようやく着いた。
改札を抜け、姉が乗る車を探した。
首を振り、気づいたことは、先程の視線の主だった。
同じ駅で降りるなんて…と私は勘繰った。
ただちに一人でいるものだと悟られてはいけない。
急いで先輩に通話をかけた。
「おぉ、どうしたー?」と少し気怠げな、脱力した声がワンコールで出た。
「H駅からずっと一緒だった人がいて、同じ駅で降りてずっと私のこと見てるの。お姉ちゃんに車は頼んでるから、来るまで通話させてもらっていい?」
すると彼は急に真剣な声のトーンになり、「とにかくコンビニでいいから立ち寄ろう。"メダカ"の人かも知れないってことでしょう」
そんな考えは全くなかった、そうかそういう場合もあるんだ。
駆け足でコンビニに寄り、姉を待った。
先輩は心配そうに、「店員さんの近くにいるんだよ」と告げた。
何を買うわけでもないが、とにかく、品出しをする店員の背中側にいた。
程なくして姉から着いたよ、と連絡があった。
駆け足でコンビニを立ち去り、車へと向かった。
見慣れた車があり、ナンバーも同じで、姉が手を振りこっちこっち、と呼び寄せた。
助手席に飛び乗り、駅を離れた。
私を見ていた人は、改札の前に立ち尽くしていた。
一体何だったのだろうか。
姉が来てホッとして、緊張感から解かれ、眠りについてしまった。
────まずは、布団を直す。
カーテンを開ける。
ナイトキャップを外す。
歯を磨く。
一旦髪は結ぶ。
顔を洗顔剤とぬるま湯で洗う。
コットンで美容液をよく顔に染み込ませる。ついでに顔・首周りのマッサージを行う。
アイプチはしない、恵まれていると思う。
日焼け止めベースで整える。
アイシャドウを使って目元を作っていく。
マスカラにはこだわりがある。
私の武器の一つになる。
目元が済んだら下地を塗っていく。
ある程度のメイクが済んだら、朝食の支度をする。
実家住みとはいえ、成人している以上は朝食は家族の作ったものを食べず、自炊する。
今朝は家族が炊いておいてくれた共有の白米0.5合を盛り付け、納豆、簡単に卵焼きとアボカドのサラダで済ました。
朝食はあまりとらない。起きたばかりの体にご飯はあまり心地の良いものではない。
皿洗いが済んだあと、結んでいた髪を解き、アイロンで髪を巻く。
今日はこれができた。
一昨日と昨日はあまりに泣きすぎて何もする気が起きなかった。
普段できていることが昨日はできなかった。それほど追い込まれていたのだ、と自分でも痛感した。
今日は月曜、ゼミがあるから大学に行かなくてはいけない。
一人暮らしをすればいいのに、とよく言われるが、家族が好きでなかなか離れることができない。
家から何時間も離れた大学に向かうのも、さすがに慣れた。
一昨日は先輩に助けられた。
救われたと言っても過言じゃない。
ボロボロだった私を支えてくれた。杖のような人だ。芯が強くて優しい。
こんなお兄ちゃんがいればいいな、とあの夜に思ってしまった。
昨日は丸一日、家に引きこもっていた。"メダカ"のこともあった。あんなに優しくて、強くて、凛とした彼氏が、昔の存在になった。
彼氏と親友、"メダカ"の人以外とのメッセージは極力返さない。
それが私のスタンスだった。
周りにどう言われようと、曲げるつもりはなかった。
それが一昨日、二つ消えた。
ポカンと頭の中が空っぽになった。
電車に乗るのが、今日は怖いと思った。
一昨日の夜にいたあの不審者が今日もいるのではないかと、ビクビクした。
いつも通りの朝を迎えたのだから、大学に行ってもきっと、「いつも通り」が私を迎え入れてくれる。
そう思い通学路をなぞった。
今日は四限まである。その時間で、この数日間を洗い流そうと思った。
ゼミの時間になった。
よく考えたら、私は大学の"メダカ"で繋がった学友と同じゼミを選んだのだ、"メダカ"がまだ日常にいるということだ。
これがまた、嫌で仕方なかった。
その学友は、視線を合わせては逸らし続けていた。
気になるのなら話しかけてくればいいのに。臆病な人だ。
かくいう私も、そちらばかり気にしてしまう。臆病な人間だ。
先輩は今頃なにをしているかな、バイトの支度でもしてるのかな。
来週からはシフトを入れた。これまでのサークルによって生じたブランクを説明したら店長は苦い顔をして長期休みのような形をとってくれていた。
それを謝りたいし、受け入れてくれてありがとう、と伝えたい。
これからはキチンと契約通り、週3回出勤をするつもりだ。
だがしかし、思い返してみると、手を握り、肩を抱き合いながら泣いたのだ、どんな顔をして出勤すればいいのだろう。
と、少し照れくさい気持ちもあった。
ただ、人の温もりには触れることができたが、先輩に恋愛の情は浮かばなかった。
それよりも大きなもので括られているような、そんな気がした。
「恋人」のような脆くて不確実な関係にはしたくない。そう先輩も思っていてくれると嬉しい。
何事もなく、ゼミを終えた。
帰路についた、そして少しお腹が空いた。
コンビニに寄ろう。
そうして寄ったそのコンビニに、一昨日の不審者がいた。
やはり"メダカ"の人なんだろう。
そう思った。
これからは毎日がこのような形になってしまうのか、ととても恐れた。
しかし、対象は私ではなかったようだ。
後にやってきたゼミの人が、その不審者と会話をしているのを見た。
何かをやりとりし、不審者がコーヒーを二つ買い、その人と一緒に去っていった。
少し安堵した。よかった。
もう逃げ場はないのかもしれない、と思ってしまった。
D社の目が私の生活に貼り付いている───そんな気がした。
少し絶望した。
私はこの先、おそらく大学を出るまでは、このような生活が続くのかもしれないと思うとふらつきを感じてしまった。
先輩も巻き込んだかもしれない。
申し訳なさも感じた。
ただ、私は私の日常を取り戻すのだ。そう固く決意し、電車に乗った。
電車は10分の遅延があった。
喫煙所に寄ればよかったな、と少し思った。




