牙を見せる"メダカ"
気がつけば雨は止み、風の音と屋根から垂れる雨音が部屋中に響いていた。
隣人が洗濯機を回す音で目が覚めた。
それと同時にまた携帯が震えた。
バナからである。
1時になる少し前、この間もこの時間だったなと思い、通話に出た。
彼女の声は酷く疲れた声で、初めて聞くような声だった。
「やっほー、起きてた?」
明らかに疲れきっている声に驚きながら、起きていたよ、と返した。嘘をついた。
「いやー、疲れたよ。学校行ってサークル出てから彼氏と会って、もうヘトヘト。リフレッシュにはならなかったなあ」
フーッとタバコを蒸す音が聞こえた。きっと帰り道なのだろう。
「お疲れ様、ハードスケジュールだったんだね」
「うん、ハードスケジュールだった、疲れたー」
どこか鼻声で、鼻をすする音が電話越しに伝わってきた。
「うん…疲れた…朝からだったから」
「それでこの時間か、しんどいね」
「こんな話するべきかわかんないんだけどさ」
と彼女は前置きをし、続けた。
「今日彼氏と別れちゃって」
驚きだった。
なるほど、その鼻声と鼻をすする音は泣いていたからか、と瞬時に理解した。
それも、相当泣いているような声だったからだ。
「なんで、あんなに仲良さそうだったじゃんか」
「"メダカ"のこと知られちゃって、そこから相当ギスギスしてたの」
「サークル活動に文句言ってたの?」
「それもあるの、大体全部私が悪いんだけどさ、会える時間が少ないとかずっと文句言ってて」
「そっか、辛かったね」
また、鼻をすする音が聞こえた。
「私が悪いんだけどさ、それでもやっぱりちょっと辛いよね」
笑って誤魔化そうとしながら、声は震えていた。
「そりゃそうだよ、長かったもんね」
「大学出たら結婚の話もあったの、それくらい好きだった」
彼女の声は震え、また今にも泣き出しそうな声だった。
なんと声をかけていいのかわからない。
うんうん、と相槌をうつしかなかった。
無力だ。
バイトに顔を出せないくらい、彼女は忙しかったのだ、彼氏と会う時間を設けることも困難だったのだろう。
「別れたのも辛かったけど、私サークルももう嫌になってきちゃって」
「時間たくさんかけてるっぽいしね。疲れるしね」
いつも気丈に振る舞う彼女からは想像もつかないほどの弱音だった。
「サークルの友達が…」
「うん」
「先輩に酔わされて」
昼間の大男の話が頭をよぎった。
素直に嫌な予感がした。
凄惨な話があった。とてもではないが、大学生としては、学生生活が続けられなくなるかのような話だった。
嫌な予感は的中した。
こんな時にだけ冴え渡る勘に嫌気がさした。
「私も何回か先輩に誘われて、全部断ったら、そしたらどんどんサークルの中で立場なくなっちゃって」
「うん」
拳を握りしめた。やはりそういうサークルなのだ、ついぞ眠気に襲われていた私の目はパキパキと冴えていく。
「私もそんなことになってたらどうしただろうって怖くなっちゃって、本当に辞めようかなって」
どんどんとか細くなっていく彼女の声は、本当に怯えていた。
「その子、今後もしかしたら体に異変が起きて、どうなるかわからないらしくって、そんな風になるの、怖すぎて、私どうしたらいいかわからなくて」
既に私の怒りのボルテージは絶頂にまで達していた。感情が声に乗りすぎないように、冷静に話を進めた。
「就活に繋がるサークルとはいえ、あまりにやりすぎだよ。そんなサークルは許されない、辞めるべきだよ」
「就活に繋がるって…なんで知ってるの?」
「今日知る機会があったんだ、本当に偶然なんだけどね」
「そっか、私が教える前に知っちゃったんだね」
「本当に偶然だったんだ、全く関係ないと思っていたところから"メダカ"の話を知ったのよ」
「じゃあ、なにしてたかとかもわかっちゃった?」
「100%とは言わないけれど、概ねは聞いたよ」
「そっか…どこまで聞いたかわかんないけど、先輩にはあんま知られたくなかったな…軽蔑するでしょ、私のこと」
「そんなことない、むしろ、今日までよく頑張ったよ。俺は尊敬する。バナがどんなことしたかまではわからないけれど、だとしても過酷な道のりだったはずだ、そんな状況になるまで頑張った君のことを誰が軽蔑するんだ」
静寂の中で、微かに泣き声が混じっていた。明らかな泣き声が。
「どんなことをしたか、させられたか、わからない。ただ辛かったであろうことはこの電話でよくわかった。辛い時に電話してくれてありがとう。家までちゃんと帰れそう?」
ヒックヒックと呼吸の乱れが混じりながらも「うん」と返答があった。
「明日空いてる?」
「…空ける…」
「そっちまで行くからさ、会って話をしよう」
「うん」
彼女の涙は止まらなかった。
電話越しでもわかるくらいに。肩を振るわせながら、泣いているであろうことがわかった。
私は、沸々とした、しかし静かに腹わたが煮え繰り返るのを感じた。これほどまでの不快な怒りは感じたことがない。
彼女の幸せを妨げ、また、ここまで悲しませた"メダカ"に激しい怒りを覚えた。横たわっていた体を起こし、膝を抱え、彼女の泣き声をただ聞いていた。
「落ち着くまで泣こう。一旦全部吐き出そう」
彼女は返事もできなかった。
嗚咽混じりの泣き声は、夜の風に流されることはなかった。
「ごめん、もう切るね」
辛さが限界を越えて、居た堪れない気持ちになったのだろう。
私は止めることなく、わかった、と受け止めた。
「明日も会えたら、でいいからね。」
「ううん、会う」
「わかった、13時ごろそっちに着くようにするね」
と、約束を交わし、通話は途切れた。
私は通話が切れたと同時に、張り詰めていた気持ちの糸がプツンと音を立てて切れたのを感じた。
まずは涙が出た。泣いた。泣くにないた。当事者でもない自分が、ワケもわからずに泣いた。
この憐憫の涙は、すぐさま怒りのエネルギーへと転換された。
枕を持ち、ただただベッドのフレームに叩きつけていた。
物に当たる、悪い癖だ。
それでも怒りは発散されなかった。
彼女を脅かすサークルであるとわかった以上、私はどれだけ健全であろうが、不健全な側面を持つ"メダカ"は何がどうあっても排斥しなければならないと決意した。
明日、バナと会った後必ず"タガメ"に連絡しなければならないと深く決意した。
テロ組織の一員になるのだ、と覚悟を決めた。
深く深呼吸をし、水をコップ一杯飲み切り、睡眠時の頓服薬を複数錠飲み、気絶するように眠りについた。
無理矢理に眠った割には早く、目が覚めた。
まだ朝の5時である。嫌な寒さと尿意で目が覚めた。
用を足し、顔を洗い、ふたたび布団の中へ隠れるように入り込んだ。
ほんの数時間前のバナの泣き声が未だに耳にこびりついている。
乾燥し切った空気に私の呼吸は白くなり、どれだけ寒いかがよくわかった。
ほんの数分布団から出ただけで布団は冷たくなっていた。
それに対し、些細な苛立ちを覚え、布団から這い出し、お湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れた。
それだけで今の私には重労働である。コーヒーを淹れたのち、 ベランダに出て一服した。
寒さで目が覚めてゆく。寝る前の電話が嫌が応にも鮮明になってゆく。
一服し、淹れてぬるくなったインスタントのコーヒーを飲み干し、じんわりと体が温まるのを感じ、また布団へと戻った。
まだ6時にもなっていない。
携帯を眺めているうちに瞼が重たくなっていった。
目覚ましのアラームで目が覚めた。
しまった、すっかり微睡んでしまった。
時間は10時30分の少し手前だった、いそいで支度をし、バナの住む街まで向かわなければと微睡んだ意識の中でそう思った。
ここから2時間はかかる、いそいで出なければならない、と寝癖を直し、顔を洗い、無難なパーカーにシャツを羽織り、歯を磨いて部屋を出た。
玄関のドアを開けると、バナがいた。私の部屋の前で、膝を抱え座り込んでいた。
自分でも驚くほどの声が出て、彼女も私に気づいた。
「やっほー、驚いた?」
と、今日初めて喉を震わせたかのような声で私に挨拶をした。
私も今日初めて声を出したのだから、掠れた声で返事をした。
「驚かないわけがないだろう、ずっと待ってたの?」
「30分だけね、まだ寝てたら悪いなーって思ってチャイム鳴らせなかったわ」
と、いつものようにケタケタと笑い、私の方へ向かってきた。
「家あげてよ、寒かったわー」
と、もう靴を脱ごうとしていた。
「待て待て、散らかってるんだこの部屋は。少し片付ける時間をくれよ、それに暖房入れてないから寒いぞ」
「それでもいいよ、外よりはマシ」
と手際よく靴を脱ぎ、私の部屋の中へ入っていった。
おいおい、と言ったが聞くこともせずに入った。
彼女の後ろを追うように部屋に戻り、急いで窓を開け換気し、暖房を入れた。
こんな男臭い部屋に入れるのには申し訳なく、少し気落ちしてしまった。
彼女はもう座椅子に座り、冷えた手を白い息で温めていた。
取り急ぎ部屋の照明をつけ、どうするべきか戸惑いながら、コーヒーを飲むかどうか確認した。
紅茶がいいな、とやっかいにも言われてしまった。
紅茶のティーパックがあってよかった、そう思いながらお湯を沸かし、私はベッドに腰掛けた。
「こっちから行くって言ったじゃないか」
と私は言った。
「いやいや、毎晩電話かけて起こしちゃってるし、悪いなーって思ったからこっち来たのよ」
と悪びれることなく彼女は言った。
「そもそも、連絡したじゃん。そっち行くねって。携帯見てなかったの?」
慌てて私は携帯を確認した。
確かにメッセージは届いていたが「起きてる?」の一文だけだった。
「ごめん、気づかなかった…というか、『起きてる?』だけでこっち来ると思わないでしょ」
と言うと確かに、と膝を叩きながら彼女は笑った。
どこか作ったような表情と声のトーンで。
部屋の照明で、ようやく明るい部屋になったこの場所で、私は彼女の顔を見て驚いた。
化粧好きな彼女が何一つメイクせず、素のままでいた。
そして明らかに泣き腫れた目に、酷いクマ、そして泣いた後にできる目の下の赤い斑点模様、彼女は電話の後ずっと泣いていたのであろう。
無理をしてここまで来たのだ、そう理解した。
明るく気丈に振る舞っているが、彼女の限界は越えていたのだろう。
「紅茶とハーブティー、どっちが好き?」
と、話を逸らした。
いざ会ってみると、どのように接していいか分からなかったからだ。
「ハーブティーなんてあるの?オシャレじゃん」
「寝る前に飲むといいって聞いてね、買ったんだ」
「どんな味?」
「茶葉の味がよく出てて、確かにリラックスする味だよ」
「じゃあハーブティーにする」
と彼女は座りながら伸びをして、文句を付け足した。
「ホントに寒いじゃんこの部屋!なんで暖房つけてないの?」
「電気代削減だよ、一人暮らし低収入には今の電気代は高すぎるんだよ」
彼女はまだアウターを着たままだった。
「ケチ」
「やかましいわい」
いつものようなやりとりがようやくできた。と、私は少し安堵した。
それからすぐケトルがカチッと音を鳴らした。お湯が沸いたのだ。
「タバコ吸っていい?」
「換気扇の下ならいいよ」
彼女は小さな鞄から電子タバコを取り出した。
「電子タバコ持ってたんだ」
「うん、お姉ちゃんにタバコ臭いから電子にしてってお願いされて」
スタスタと換気扇の下まで行き、彼女はタバコを吸った。
私は自分用にコーヒーを淹れ、彼女用にハーブティーを淹れた。
それを換気扇の近くまで行き、台所に置いて私も一緒にタバコを吸った。
久しぶりにバナとタバコを吸った。
多幸感に満ち溢れていたが、彼女がこの汚い部屋に来た上に、昨晩の出来事もある。少し居た堪れない気持ちでタバコを蒸した。
すると、少しこちらに寄りかかるような形で彼女は言った。
「なんか、ごめんね」
「何に対して謝ってるのさ」
「夜遅くにあんな暗い話して…」
「いいよ、そんなこと気にしなくて。少しでも力になれたら、っていつも思ってるから」
「ホント、優しすぎるよ。だから悪い女ばっかり集まってくるんだよ?」
彼女は顔を伏せた。
そして煙を吸い、静かに換気扇に向けて吐き出した。
コーヒーと紅茶を淹れたマグカップからは湯気が立ち、二人の間を取り持ってくれているかのようだった。
私はコーヒーを口にし、熱を感じながら喉に流し込んだ。
「そんなことは…いいんだよ。気にしなくて。自分自身が一番わかってるから」
彼女は黙りこくった。
どうしたものか、と私は思った。
彼氏との破局の話か、"メダカ"の話か…それとも全く違う話題で…。
少しの沈黙の後に彼女はごめんね、と口にした。
「私、自分の部屋にいたらずっと泣いちゃって。外出なきゃって思って先輩の部屋まで来ちゃった。連絡もまともにしなくてごめん」
そういうことだったか。
「しかし、泣いたっていいんだよ。悲しかっただろうし、悔しかっただろうし、泣くべくして泣くんだ。それ以上理由はいらないよ」
ふと明るい部屋で鏡に映った私の顔は、バナと同じく目は腫れぼったく、目の下にはクマができており、内出血した赤い斑点模様が散らばっていた。
彼女は黙々と、タバコを吸った。
電子タバコの電源が入っている証拠の明かりは既に消えていた。
「座ってお茶飲もうよ、冷めちゃうよ」
彼女は小さく頷き、吸殻を捨て、マグカップを持ち、テーブルまで持ち運んだ。
目は潤み、今にも泣き出しそうだった。
私は掌をギュッと強く握りしめ、拳となった手に力を入れた。
私もまた、今にも泣き出しそうな気持ちになった。
部屋も充分に暖まり、彼女はアウターをようやく脱いだ。
袖の丈が長いセーターを着ていた。
温かい飲み物も飲んだので少し暑かったのか、袖を捲った。
その時、ふと左の手首に紅く腫れた線が複数あることに気がついた。
リストカットだ、そう気づき、彼女の左手をとり、彼女の目をじっと見つめた。
彼女はその事を忘れていたかのようで、すぐに左手を戻した。
そして視線を落とし、呟くように
「もう…汚れちゃってるから全部手首から出ちゃえって思って…」
私は耐えきれず涙を流した。
ここまで彼女は追い詰められていたのだ。
その現実に耐えられなかった。
「なんで?先輩が泣く理由なんてないじゃん…」
と、彼女も泣き出した。
好きな女性が、自傷行為にまで及んでいたのだ。
どれだけ辛い気持ちで、部屋の中にいたのだろう。想像もできないような絶望の中に居たに違いない。
二人は泣いた。嗚咽がオーケストラになるほどに、泣いた。
それから、ひしと彼女の肩を抱き寄せ、ガラスを扱うよりも丁寧に、優しく抱擁した。
彼女も私の背中に手を回し、肩に顔を埋めながら泣いた。
とにかく、二人は泣き続けていた。
少しして、二人は抱擁を解いた。
お互いに少し照れくさかったのだ。
少し見つめ合った後、鼻をすすり、少しだけ笑い合った。
「泣きすぎだよ」
「泣いたっていいって言ったのはどっちよ」
それでまた少し笑った。
お互い泣き疲れたのだろう。
目を充血させ、お互いにマグカップを手に取り、口にした。
すっかりぬるくなってしまっていたが、それでも、二人を温めるには充分な温度だった。
それから、彼女は語った。
"メダカ"の実情、ボーイフレンドとの別れ、それが積み重なっての涙と自傷行為。
全ての痛みを、私に共有してくれた。
"メダカ"の実情は"タガメ"にいた女性よりも凄惨な話であった。
男女が入り混じり、まぐわり、酒池肉林、"めだか"の放流、様々な川への出向。
健全なサークル活動というのはほとんど名目だけで、大学の一回生からもほとんどが酒を飲み、タバコを吸う。
そして性別関係なく交わり合い、"めだか"の情報を手にし、如何に川に定着させるかを学んでいくそうだった。
その"めだか"のデータの取り方、効率の良い育成法をカースト上位から得て、就職活動に繋げていくというものだった。
ボーイフレンドに"メダカ"のことを知られてからは(ボーイフレンドの友人にも"メダカ"で落ち込んだ人がいて、そこから情報を得たそうだった)、明らかに態度が変わり、そんなところにバナがいるということは彼にとって不快であったそうだ。
それで、決別となってしまった。
バナ自身も"メダカ"に疑問を抱いていたタイミングだったため、辞める良いきっかけになる、と思っていたがそのタイミングが重ならず、彼女の幸せは一つ取り上げられてしまった。
充血し、曇った目からは、どれだけの思いをしてきたのか、よくわかった。言葉にならないような想いをただただ話してくれた。
特に恐ろしかったのは、手洗いに行って戻ってから、酒の味が明らかに変わった時だったという。
それ以降、飲み会に参加せずにいたところ、活動意欲をD社に咎められるようになったという。
非道い言葉で、酷い内容だった。
彼女の"メダカ"での友人の話も聞いた。とてもではないが、おおよそ聞いてはいられないような内容だった。誰の子どもかもわからない、そんな内容だった。
彼女はポツポツと語り、時々苦しそうな表情を浮かべながら、全てを語ってくれた。
私が駅前の"めだか"で女性の声がした、という話にも答えてくれた。
エレベーターは乗っていると四角の箱の中にいる感覚になるが、実は筒状になっており、6階に着く前に何度かボタンを押すと回転し、鯉程の大きさの"めだか"を飼育しているバックヤードに着くようだった。
それで女性たちの声は聞こえなくなったのか、と私は合点がいった。
映画のようなギミックを搭載したエレベーターをも作れる技術がD社にはあったのだ。
ラーメン屋での話も問うた。
そのラーメン屋でもらえる"めだか"はD社が作った試作品であり、出来損なったものを販売しているのであった。
その出来損ないの"めだか"には小さなICチップが搭載されており、どのような飼育環境下で強く成長するかどうかを調査しているとのことだった。
どれだけの技術があるのだ、と恐ろしく感じた。
当然、深くD社の闇に浸かっていたのだから、簡単にその邪悪なるサークルを辞めることができないのだと続けて彼女は言う。
辞めた後もスマホの検閲が行われたり、住居を変えたとて、情報の漏洩が起きないかをとことん詰められるのだと言う。
こんな話を私にして良いのか?と確認をとったが、さすがに個人同士のやりとりまでは検閲できないらしい。
箝口令が敷かれているが、どれだけ厳重に取り締まったとて、必ず抜け穴はあるのだから、古本屋にまで"メダカ"の問い合わせが来るのだろう、と彼女は推察した。
"タガメ"でも同じような話を聞いたな、と思い、全てを私は飲み込んだ。
「とにかく、"メダカ"から抜ける事を考えなくちゃだね」
「うん、どれだけ生活が縛られたって、絶対辞める」
「サークル活動しなくたって、十分に就活のノウハウは得られたでしょう」
「うん、ちゃんと正規のルートで就活する。もうあそこには戻れないし、戻りたくない」
「就活が全てじゃないし、とりあえず気楽に考えよう。なにがどうあれ、よく頑張ったね、すごく強いよ」
「こんな思いするくらいなら、もっと、ちゃんとした大学生活を送れればよかった。バイトに行って、先輩とバカ話しながらタバコを吸えてた方がよっぽど幸せだった」
「まだ間に合うよ、大丈夫さ」
「ありがとう。こんな取り留めない話、たくさん聞いてもらっちゃって」
「その話を聞くために、今日は会おうと思ってたんだ。これ以上はないよ。よくできた一日になったと思う」
時計の針はすでに18時を指していた。
ずっと話し続けていたのだ。
バナはぐったりとした表情だった。
無理もない。
過酷な内容の話だった、どれひとつとっても胃もたれし胸焼けするかのような、脂っこい味がした。
そして私はやはり彼女を尊敬するしかなかった。
彼女の軸の強さに驚いた。そして弱いところを数時間で見せてくれたことに、何度も驚いた。
途中から彼女は私の手を握り、とても辛そうに話を進めたのだ。
どれだけ苦しかったか、寂しかったか、怖かったか、話から汲み取ることができた。
もうサークルの中に彼女の居場所はない。
私自身が居場所になれれば、と何度も思った。
そうなれていないことに、苦味を感じた。
だが、こうして頼ってくれたのだ。その想いに、何か応えなくてはいけない。
とうに怒りを通り越して、感情はどこまでも彼女に寄り添っていた。
19時をまわった頃、彼女は眠たそうに目を擦った。
何時間も飲まず食わずだったのだ、疲れや昨晩眠れなかったことも考慮して、デリバリーサービスを使って、ハンバーガーをオーダーした。
すぐにそのハンバーガーは届き、とにかく口にした。
彼女は「おいしいね」
と穏やかな表情でこちらを見た。
私には味がしなかった。
食事が進まなかった。
なんとか答えるべく、おいしい、とただ口にした。
21時になった頃、すっかり落ち着きを取り戻した彼女は、大学であったユニークな出来事を語り、少し余裕ができた様子だった。
ここから家まで2時間かかる彼女だ、そろそろ帰って眠った方がいい、と私の提案に彼女は賛同した。
駅まで送るよ、と、部屋を出た。
暖房の暖かさに浸かっていた私たちにとって、この寒さは少し堪えるものがあった。
道中、彼女はずっと私の手を離さなかった。
今はこうしていたい、と彼女は言った。
そして改札まで向かい、入場券を買い、電車が来るのを待った。
ほんの数分だったが、それが何時間にも感じた。
ただ、手を繋いでいた。
やがて電車が来た。
繋いでいた手を離し、何万歩よりも距離のある一歩を踏み出し、電車に乗り、振り向いてこう言った。
「今日はありがとう、少しスッキリした」
今までに見たことのない、本当に心から穏やかな表情で感謝の意を伝えてくれた。
「またいつでも電話しておいで、バイトにもおいでな」
「うん、ありがと、絶対電話するし、バイトも行く」
そう告げるとドアは閉まり、彼女を乗せて電車は走り出した。
見えなくなるまで小さく手を振った。
それもほんの数秒だけだったが、何分にも感じた。
彼女は行った。
私は一人、改札を抜け家路に向かった。
部屋に戻ると、彼女が吸っていたタバコの匂いとハンバーガーの匂いが鼻についた。
窓を開け、換気をした。
冷たい空気が部屋に流れ込んできた。
それでようやく目が覚め、改めて今日聞いた話の重たさを実感した。
まだ、彼女の痛みを一つ共有できていなかったな、と、ふと、I字のカミソリがあったな、と思い、洗面台に向かい、そのカミソリを手に取り、左手首に当てた。
少し深呼吸をし、思い切り手中にあるカミソリを引いた。
ジワっと痛みがやってきた。
血が滲み出てきた。
痛い。
だが不気味にも心地よく感じてしまった。
常に死について考える病を患う私にとっては、これで毎晩惨めな思いをしながら眠りにつかなくて済むのなら、と思い何度も何度もカミソリで引っ掻いた。
彼女が感じた痛みのほんの一部を、知れた。
何度か線を引いたところで、飽きが生じた。
手は止まった。血はじわじわと流れ続けていた。
この程度では死ねないな、と認識し、その場で服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
服に血がついたが、気にならなかった。
ポタポタと浴室の床に血が垂れ続けた。
それを誤魔化すかのようにシャワーを浴び続けた。
血は流れていった。




