正しさとは
────私、橘稚菜は簡単に言うと
──疎外感を感じていた。
学友たちと馴染めない、周囲に合わせられるが、本当の自分ではいられない。
講義や、学食ではいつも誰かと一緒だけど、喫煙所では1人だった。
心もまた、1人だった。
馴染んでいる雰囲気を作るのは得意だ。うまくやっていくには、馴染んでいるように周囲に感じさせる、容易い。
人には言えない、少し暗い過去がある。
この本音を語り合える人がいれば、少しは違うのかもしれない。
だからこそ、先輩がいてくれて、私の支えになっている──依存してしまっている。
私には慈愛に満ち、大きな愛情で迎え入れてくれる家族と、先輩がいる。
しかしその先輩が、人としての線路を脱線してしまいかけている。
話を聞いただけでわかった、あの先輩が巻き込まれてしまった集団は、暴力で"メダカ"に介入してくる組織のことだった。
彼が少し遠くへ歩みを進めてしまった。
あの晩の私の声かけで、彼はこちらへ戻ってきてくれるだろうか。
私が"メダカ"に入らなければ、よかったんだと、今は思う。
実際はどうだったんだろう、倫理観の欠ける"メダカ"での活動は、実際就活には上手く活きてくる。
私が間違っていたのか、それとも、あんなサークルを黙認している社会が間違っていたのだろうか。
いずれも、どちらにせよ、腹が立った。
自分自身が大きく、じわじわと蝕まれていく感覚が、ずっと抜けずにいる。
先輩は正義感が強いが故に、私への仕打ちの報復を試みたのだ。
私のために怒ってくれたのは嬉しかった、けれど、その怒りが正しいエネルギーとして転換されているのか、それはわからなかった。
その怒りが本物の暴力へと姿を変えた時に、私は、私はもう、どのように反応すれば良いかわからなかった。
彼が、正しいのか?
虚しさだけがどんどんと私を追い詰めてゆく。
先輩も、毎日こんな風に…優しすぎるが故になってしまった病に、巣食われているのだろうか。
そう思うと、彼のことを思うと、やはり救われてほしい、報われてほしい。
どうしていつも、優しい人ばかり苦しいめにあうのだろう。
どうして…一生懸命に生きている優しい人が、いつもいつもないがしろにされるのか。
そう思うと、ふと涙が流れた。
彼のことを思うと───私自身のことを思うと、少し涙が流れてしまった。
社会は簡単に迎合してくれない。
一度レールから脱線してしまった人への救済が、ない。
このまま彼と繋がっていていいのだろうか。
私がこの社会からゴミのように棄てられないために、誰かに、ただ繋がっていたい。
そう思うと、私は携帯をとり、だから、彼に電話をかけた。
──昨晩、私は一つ線を踏み越えた。
これで立派な、共犯者だ。
右腕が、全身が、筋肉痛のようになっていた。
体は強張り、緊張していたのだろう。
しかしその後にやってきた快感は、やはりとても心地の良いものだった。
怖い、と感じていた銃への抵抗が、薄れていた。
人は殺していない。
手段としての"めだか"を排斥しているのだ。
悪烈非道なD社に、制裁としての報復を、与えているのだ。
どう考えたって、正義だ。
私は正義の側にいる。
一線を越えた後は楽だった。
その時、安堵が私の全身を駆け巡った。
心地よさから笑みが浮かんだ。
腹が捩れるほどに笑った。
今でも思い出し笑いができる。
私は昨晩から一睡もしていない。
睡眠薬は飲んだ、しかし、眠ることができなかった。
激しい高揚感、アドレナリンが全身に分泌されていく感覚。
眠れるはずがなかった。
携帯が震えた。
バナからだった。
検閲をもう気にせずにかけられるほどに彼女は回復したのだ、よかった。あとは私に任せて、時が過ぎるのを待てばいい。
簡単だ、単純だ。
そう思い、通話に出た。
「やっほー、起きてた?」
「うん、寝てない、あんま眠れなかった、起きてた」
眠ってないが故の高いテンションで話してしまった。
「眠れなかった?どうして?薬は飲んだの?」
「飲んだ、けど眠れなかった、ちょっと興奮しちゃってね、寝る前に観てた映画がすごく面白くて、感想をパソコンで入力してたら、朝になってた、あはは」
明るい口調で、嘘をついた。
もう特に"タガメ"について何か触れることもないだろう。
こちらから余計なことを言わなければ、彼女に不安を与えずに済む。優しい嘘だ、と思った。
「ホント…本当に?」
「ああ、本当さ、今からそのレビューを読もうか?」
────明らかに、テンションが昂っている。何かあったに違いない。わかりやすい、見え透いた嘘だ、そう私は思った。
もう、取り返しがつかないところまで来てしまっているのかもしれない。
「嘘、だね。やっぱり"アレ"関連?」
「違うよ、足を洗ったって。あんなとこ、いれたもんじゃないよ」
嘘だ。彼の中で決定的な出来事があったに違いない。
「こんなこと言いたくないんだけどさ」
言わなきゃ、先輩が取り返しのつくように、道を均さなきゃ。戻って、こさせなきゃ。
「なんか変わった気がする。優しさをどこかに忘れてきたでしょ」
「どこにさ、と、いうか俺には優しさなんてないよ。あったとしても、必要じゃなかったんだ、ちっとも、最初から」
確信に至った。何かをしたのだ。
急がなければ、これ以上過ちを犯す前に。
「それは、違うよ…あの時の先輩は優しさの塊みたいな人だった」
「そうかな、俺は、俺はそんな瞬間はなかったと思う。何か出来ればな、と思って手を握った。それだけだよ」
「それを、優しさって言うんだよ。急に押しかけても怒らないで、ただただ私の暗い話を聞いて、私のために泣いてくれて、それのどこが優しさじゃないの?」
「そうなのかな、自分ではわからないや」
口調も、いつもと違う。どこか棘がある。
「また、対抗勢力のところ行ったの?」
「行ったんじゃない、来たんだ、ウチまで。それで連れて行かれて、またそれを見ていた。それだけさ」
やはり、まだあの団体から抜け出せずにいるのだ。
私は、ガッカリした。
あんな優しかった先輩が、自分を見失って、途方に暮れているのが残念で仕方なかった。
「見ながら思ったよ、綺麗事はこの社会を変えない。変えるのなら、とっくに変わってたっておかしくないんだ。それでも、正しさって、行動で示すものでしょ」
「間違った行動で?」
皮肉めいて言った、間違っていると、認識させなければ、と思った。
「間違ってる…ってどこから?それって俺が決めたこと?」
淡々と、高揚しているような声で彼は言った。寝ていないのだ、これくらいのテンションになってしまうだろう、飲み込まれたり、カッとなってしまってはいけない。
「もう、止められない?」
少し踏み込んだ一言を言ってしまった。
怖い、頼むから、間に合ってほしい、そう願い、目を閉じた。
「止まるも何も、俺は動いてないよ。正しさの中にいる。これが答えだと思う。だから、バナには安心してほしい。あとは俺に任せて、バナは、時間が過ぎるのを待てばいい。また飲みに行こうね」
彼は淡々と、重たい事実を自白した。
ああ、まずい。飲み、飲みだ、そこで直接会って、止めなければならない。
「次、いつ空いてる?」
「最短で明日かな、今日はバイトだけど、明日は休みよ」
「明日、私もちょうど予定ない。13時から、『いつも』の店行こう、ハッピーアワー、満喫しちゃおう」
「おおー、わかった、了解了解」
「じゃあ、また明日」
「おう、また明日」
そう告げると、先輩は通話を切った。
踏み込んではいけない所まで足を運んでいる、間違いない。
引き返せるところにいてほしい、私はそう強く願い、携帯を置き、水を飲んだ。
────バナが終始何を話しているのかわからなかった。
確かに嘘はついたが、心を癒す嘘だ、それもありだろう。
優しさなら、嘘も優しさだ。彼女の心を傷つけるより、真実を誤魔化して伝える方がよほど誠実だ。
嘘も方便、それが彼女の心を守るのなら、私は何度でも嘘をつく。
彼女の知らないところで、私は彼女を踏み躙ったD社に制裁を与えるのだ、優しさがどうとか、なんのことだったんだろう。
なんにせよ、一つ楽しみが増えた。
明日はバナに会えるのだ。
────ほんの、ほんの数日ぶりに会った先輩は全身を黒色で纏っており、髪の毛は整髪剤などで整えず、前髪をだらりと下げ、飾りげのない格好だった。
こんなに髪の長い人だったか?と違和感を覚えた。
そのだらりと下げた前髪の奥に見えた瞳はどんよりとしていて、以前指摘した時よりもさらにクマが濃くなっていた。
太陽光に照らされているにも関わらず、そのクマの濃さはハッキリと伝わった。
私は素直に、怖い、と思った。
口はへの字に曲がっており、ただ、さっぱりとタバコを吸っていた。
私に気がつくと、笑みを浮かべ、おーいと声をかけてきた。
先輩は吸い殻をアッシュトレイに捨て、小走りでこちらへと駆けてきた。
「今日寒いな、太陽が出てるのに、こんなんじゃ参っちゃうね」
と、明るい声のトーンで話した。
声は作っていなかった。素のままの先輩だった。
聞き慣れた声だ、少し安心した。
こちら側としても、少し付け入る隙が生まれるかもしれない。
まだ引き返せる、そう思った。
私は淡い希望を抱いた。
居酒屋までの道中、先輩は明るく振る舞っていた。
普段よりも明るく、快活としていた。
不自然ではないがどこか脆さが出ているような、そんな感じだった。
「この間バナがいない日にさ──」
ともう既に一杯飲んでいるかのような喋り方だった。
自己陶酔、ほろ酔い、そんな感じがした。
私はぎこちなく、リアクションを続けた。
口角を上げるのに精一杯だった。
この人が、暴力的な方法で"メダカ"に対抗する団体に属している、とは到底思えなかった。
本当に、私の気のせいだったのだろうか。
昨日の通話は、幻だったのだろうか、容姿以外は全くそんな様子を見せなかった。
『正しさの中にいる』
昨日のこの不自然なキーワードは、どういう意味だったのだろう。
その真意を問うべく、私は来たのだ、均した道に、戻すべく。
店に着き、店内へ通されると、先輩は「生2つ、梅水晶と灰皿をください」と『いつも』のオーダーを着席前にした。
こんな馴れ馴れしいことをする人ではなかったはずだ、とやはり不安に思えた。
席につき、上着を脱ぎ、先輩は袖を捲った。
渡された灰皿をすぐに使うべく、ポケットからタバコを出し、火をつけた。
いつもと違う銘柄だ、すぐに気がついた。
「今日いつものメンソールじゃないんだね」
「うん、久しぶりにこれ吸いたくなって買っちゃった。やっぱ苦いなーこれ、一本吸ってみる?苦いよー」とタバコを渡してきた。
私は先輩に火をつけてもらい、一服した。
確かに、信じられないほど苦い。
久しぶりの紙タバコで、咽せた。
先輩は笑っていた。
「久しぶりだとそうなるよね、俺もなったわ」とぐらぐらと笑った。
すると、先輩の左腕に火傷のような小さな跡があるのが気になった。
なぜそんなところに火傷が?
「左腕、火傷したの?」
「火傷?ああ、これ?なんだろうな最近ちゃんと自炊してるから、油が跳ねたのかも」
そう先輩は言ったあと、左腕で頭を掻いた。
私は、見逃さなかった。
身を乗り出し、先輩の左腕を掴み、掌が上を向くように腕を回した。
「この傷、何?」
見覚えがあった。私も同じことをしたからだ。
手首に赤く腫れた、みみず腫れのような線が何本もあった。
先輩は少し顔を伏せ
「バナと同じ痛みを知ろうと思って…」
とあっさり言った。
少し引いたが、それでも私を想っての行為だったのだ、と理解した。
これはちゃんと傷跡として残る、それくらい激しい線だった。
私のとは、比にならないくらい。
「こんなんじゃ死ねないよね」
と先輩は笑いながら言った。
ゾッとした、命を絶とうとまで考えていたのか?
私は、少し気が紛れれば、と酩酊した頭でしたのだ、自傷行為のスケールが違う。
────これは、"救いたい"なんて想ってできることじゃない。
彼は私を救うために、私の絶望に住もうとしている。
「お酒、全然進んでないじゃん、ほらほら、飲もう飲もう」
と先輩は誤魔化すように笑って酒を口にした。
味がするはずない、ビールを口にしたが、泡も、ホップの香りも、何も気にならなかった。
水のように感じた。後から苦味がやってきた。
先輩は、突然死生観について語り始めた。
「生きるも、食べるも、死ぬも、その一直線の中にあると思うんだよね。でも手塚治虫が考えるには、死って、案外あっさりしてる。ブッダでも火の鳥でも描いてたけど、輪廻?次に回るだけなんだよね」
私は突拍子もなく出たこの話に困惑した。
「ごめん、急にこんな話しちゃって。最近やけにこういうこと考えるの多くて」
命を危険に晒すような、ことをしているのかな。
私は不安に思った。
私は、ビールを半分、先輩は3杯目のビールをオーダーした。
私より、飲んでいる。
彼がこんなペースで飲むはずがない、そう思い顔を見ると、目は据わり、顔は青ざめていた。
「お冷もらおうよ、そんなんじゃ後で吐くよ?」
あはは、と先輩は笑うと
「バナとのビールは格別だよ、輪廻して、またバナと出会って、こうして酒を飲みたいな。でも今度は下戸じゃなくて、バナみたいにグイグイ飲めるようになってたいな」
と、あっけらかんに笑った。
優しさが、暴走している。
狂気にまで至ってる、そう思って間違いないはずだ、と私は考えた。
「ねえ、やっぱりまだ、"メダカ"が憎い?」
「なにさ突然、憎い、憎いよ。そりゃそうだ、好きな人を傷つけた。それだけで重罪だよ。それだけじゃない、多くの人が悩んでいるんだ。俺はなんとかしたい」
「その復讐をするの?」
「ああ、するんだ。しなくちゃいけない」
ハッキリと告げた。もう、引き返せないところまで来てしまったんだ。
私はやるせない気持ちになった。
「先輩には、そんなことしてほしくない、ねえ、今度シー行こうよ!ランドでもいいよ、あそこなら、嫌なこと忘れられる。楽しいんだから」
「おお、いいね、全部済んだら、ぜひ行こう。俺数えるくらいしか行ったことないんだよね」
全部済んだら、か…。
「全部済むって、何を済ませたら?」
「リベンジさ」
「もう私は平気だからさ、リベンジとか、考えなくていいよ」
必死に言った。伝わってほしい、もう先輩が、私の居場所になってくれていることに。
そう告げ、返答を待つと、彼の携帯が鳴った。
「ごめん、ちょっと出るね」
と個室から抜け、外で話し始めた。
このタイミングだ、考えろ、考えろ、どうしたら彼を引き留められるか。
このままでは、本当に取り返しのつかないことになる。
私が、私が彼を引き留めないと、また一人ぼっちにさせてしまう、それだけは避けたい。
過去の積み上げてきたものを全て崩しさるような、そんなことだけはしてほしくない。まだ未来はある、これから、どんどんまた人間というのは経験を積み重ねていくんだ、道から逸れてしまったら、簡単には後戻りできない。
彼だってそうわかっているはずだ
止めなきゃ、止めなきゃ…。
もう1人にはさせられない。
────バナの言っていることが、イマイチわかってない。
自分が何を言っているのかも、正直わかってない。
私は『正義』の『正しさ』の中にいるのだ。
リベンジとか、考えなくていいよ?
わからない、このリベンジはなくてはならないだろう。
そう思っていた矢先に、田辺から連絡がきた。
「以前からマークしていた"メダカ"の総本山を見つけました。人がいなくなる今夜18時、襲撃を行います。16時にはお迎えにあがりますので、支度を済ませておいてください。これで終わらせることができる可能性が高いです。ほんの数回しか参加していただいてないのに、山場を迎えさせることをお許しください。近隣の"タガメ"も集結する予定です。では、また」
遂に来た。本当に大事をやるんだ。
緊張はするが、心が高揚していた。
これで終わらせることができるのかもしれない、そう思うとゾクゾクした。
通話を切り、深く深呼吸し、個室に戻った。
もうバナに隠す必要もない、明日には大事として報道されるんだ、
もういいだろう、聞かれたら、答えよう。
そう思い、個室に戻った。
「誰からの電話?」
「対抗サークルからの電話だよ」
「何か、するの?」
「するよ、大きな事、これでもう"メダカ"で誰か苦しむことはないはずさ、次の芽が生えてきても、すぐに刈り取れる。そういう風になるのさ」
「どんなことをするつもりなの、行っちゃダメだよ」
「行くんじゃない、もう、来るんだよ」
「なら私は行かせられない、それはきっと、先輩にとってプラスにはならない。絶対に後悔する、その人たちは、先輩の優しさに付け入ってるだけだよ」
鼻先につくような一言だった。
少し声のトーンを抑えて私は言った。
「バナを傷つけたんだ、俺の、好きな人を。大事で大切で、かけがえのない存在だった。必ず、俺が今後一切バナとは縁のない話にしてくるから」
────もう、止められないんだ。私は先輩の据わった目に怯えてしまった。確信した。きっと先輩のその行為は、優しさの暴走でしかない。
だらりと、肩の力が抜けた。
「今日は俺が奢るよ、これ一杯飲んだら、俺出るね」
あまりにも、早い解散だった。
今日は違う、別人の先輩だった。
これが最後になってしまうような、予感がした。
最後、最期だ。
「先輩は、もう私の居場所になっているんだよ」
告白をした。今世紀最大の、告白を。
先輩は少し驚いた顔で、にこやかな表情で淡々と言った。
「そう言ってもらえて嬉しい、また次の飲みの時にはもっと大きな居場所になれるといいな」
もう、次の話をしていた。
今日、ここなんだよ、ここが大事なんだよ。だから行かないで、先輩が1人になっちゃったら、また私も1人になっちゃう。
どうにかして、引き留められないだろうか。
わからなかった、何か、劇的な何かを、先輩に一言言って、止めなければ。
「私もそれに連れて行って」
先輩を1人にさせられない、先輩だけにやらせちゃいけない。
「ダメだよ、危ないさ、連れていけない」
彼がそう言い、財布を探すべく、ガサゴソと鞄を漁ると、無機質な金属音が聞こえた。冷たい、不気味で、残酷な音だった。
その音の主は、彼の鞄に鎮座していた。一目瞭然、拳銃だった。
私は、驚きで声が出なかった。
なぜ、なんでそんなものを?
後戻りできない、なんてものじゃない。
持つだけでその人の人生が変わってしまう。
ああ、ダメだ、それではダメなんだよ。誤ってる、圧倒的に誤ってる。先輩は道を逸れて、ゴツゴツとした危ない道に歩みを進めている。もう、私の手が届く場所にはいなかったんだ。
「じゃあ、一万円、おつりは大丈夫だから」
そういうと彼は立ち上がり、個室を出た。
「待って、待って」
声が掠れた、裏返った。口の中の水分が抜けきり、カラカラで声になったかもわからない。先輩の背中はどんどんと遠くなって行った。
止められなかった、行きすぎた正義が、また歩みを進めてしまった。
すっかり彼が見えなくなった頃、私はワッと泣いた。お店の中だというのに、化粧が落ちるというのに、泣いた。止まらなかった。
オーダーしていた、鉄板焼き餃子が届いた。
ジュウジュウと鳴る音がやけに大きく聞こえた。
もう、遅い。




