第35話 雨の橋 ― 甘酸っぱい誤解
ガルドの街を包む空は、いつになく重かった。
分厚い雲が空を覆い、街灯の光さえ灰色に沈む午後。
カラン、カランと鐘の音が鳴り響くたび、修理中の屋根から雨避け布がはためく。
――都市ガルド襲撃事件から数日。
街はようやく落ち着きを取り戻しつつあったが、復興の風景の中にはまだ傷跡が残っていた。
そんな中、俺――悠真は帰り道、橋の上で立ち止まった。
ポツ、ポツ、と頬に冷たい滴。
見上げた空の向こう、灰色の雲の縁が、じわりと黒く滲み始める。
「……降ってきたな」
肩をすくめたその瞬間。
背後から落ち着いた声が届いた。
「やっぱり、雨ですね」
振り向くと、銀色の髪を揺らしながら、セレナが傘も持たずに立っていた。
白いローブの裾が風にふわりと舞い、長い睫毛にひとしずく。
「セレナ? 傘は?」
「……邸に置いてきました」
「まさかのノーガード!?」
セレナは小さく首を傾げる。
「まさか急に降るとは思いませんでした。……でも、あなたもですよね?」
「ぐっ……まぁ、そうだけど」
苦笑して、俺は橋の下を指さした。
「とりあえず、あそこで雨宿りしよう。濡れると風邪ひく」
「はい」
ふたり並んで階段を降り、石造りの橋の下へ。
頭上を雨が叩く音がリズムのように響き、風が頬をなでた。
遠く、屋根の修復をしている職人たちの声が、雨音にかき消される。
静かな世界――。
気づけば、俺とセレナの距離はすぐそばだった。
白い指先が袖口を軽くつまんでいる。
その仕草が、いつもよりずっと女の子らしく見えて、思わず視線を逸らした。
(……ちょっと、近い)
「この雨……不思議と、落ち着きますね」
セレナがぽつりと呟いた。
「戦いや冒険が続くと、こういう時間が恋しくなるんです。……あなたは?」
「俺は……うん、悪くないな。こういう静かな時間、嫌いじゃない」
雨音のリズムが、妙に心に染みる。
それに――ほんのり香るシャンプーの匂い。
たぶん、朝使ってたあのハーブ系のやつ。
目を逸らすタイミングを失い、俺はつい口を開いた。
「……セレナってさ」
「はい?」
「髪、濡れても全然乱れないよな」
「……え?」
「それに普段クールなのに、笑うと可愛いし。努力してるのも、ちゃんと知ってる」
言ってから、俺は自分の口を押さえた。
(あ、やべぇ、素直すぎた)
セレナは一瞬固まり――ゆっくりと頬を染めて、視線を逸らした。
「……そんなに、褒められたら……困ります」
雨音が少し強くなる。
その音に溶けるように、セレナの声が小さく震えた。
「でも……うれしいです」
そして――。
ふと、彼女の瞳が俺をまっすぐに見た。
銀のような瞳が、淡い光を湛えている。
その表情は、いつもの冷静なセレナじゃなかった。
理性の鎧が一枚、剥がれたような――柔らかな表情。
「……ねえ、悠真さん」
「ん?」
「わたし、今だけは……理性を止めてもいいですか?」
――え?
反射的に口を開く暇もなく、セレナは静かに手を伸ばした。
濡れた指先が俺の頬をなぞる。
そして、そのまま――。
唇が触れた。
柔らかくて、あたたかくて、少しだけ冷たい。
世界が雨音だけになった。
時間が止まったように、何も考えられなかった。
どれくらいそうしていたのか。
ほんの数秒のはずなのに、永遠みたいに感じた。
「……っ!」
先に離れたのは、セレナだった。
顔を真っ赤にして、両手で口元を押さえる。
「ち、ちが……! その、今のは……っ」
「い、いや俺もびっくりしたけど!?」
お互い真っ赤なまま見つめ合う。
まるでどっちが先に倒れるか競ってるみたいな空気。
「ご、誤解しないでください!」
「無理だよ!? 誤解しかしないって!」
そこに――。
「ユウマくーん! 傘持ってきたよー……え?」
階段の上から聞き慣れた声。
リサが傘を手に、橋の下を覗き込んでいた。
一瞬、時間が止まる。
彼女の瞳が俺とセレナを交互に見て――。
無言。
そして、ゆっくりと笑った。
あの、優しいけど一番怖い笑顔で。
「……なるほど。雨宿り、ね?」
「ち、違うんだリサ! これは事故で――!」
「唇同士が“事故”でくっつくって、新しい物理法則だね?」
「うわぁぁぁ!?」
セレナも慌てて前に出る。
「リ、リサさん! これはその……感情の整理がつかず――」
「理性はどこ行った!?」
俺が即ツッコミ。
「多分、雨に流れました」
セレナ真顔。
「うまく返すなぁ!?」
修羅場寸前のところへ、さらに追い打ちが来た。
「ユウマ! 傘、持ってきたわよー!」(ミリア)
「まぁまぁ、まぁまぁまぁ……これは見物ですわ♡」(クリスティア)
橋の上に現れた二人。
そして一瞬で空気を読み取ってしまうミリア。
「……これ、ロマンス小説の最終話で見た」
「クリスティアさん、ポップコーン持ってません?」
「ごめんなさい、ハンカチしか♡」
地獄だ。いや、コメディ地獄だ。
リサは傘を広げながら、ため息をついた。
「とりあえず……全員、風邪ひく前に帰るよ」
「……かしこまりました」」
俺とセレナ、即座に敬語。
静かに雨が弱まっていく。
傘を差しながら、リサは小さく呟いた。
「……もう、あんな顔しないでよ。悠真」
「リサ……」
「心臓止まるかと思ったんだから」
そう言って、彼女は傘の中に俺を入れた。
その横でセレナは、まだ頬を染めたまま小さく頭を下げる。
「……ごめんなさい。でも、後悔はしてません」
雨の終わり、空に小さな虹がかかった。
ミリアがぽつりと呟く。
「勇者試験前にフラグ立ててどうすんのよ」
「いや、勝手に立ったんだって!」
俺の悲鳴。
クリスティアはにっこり微笑んで、締めの一言を。
「雨の奇跡、ですわね」
――雨がくれた勇気。
理性を越えた、一瞬のぬくもり。
それが、誰の心にも小さな火を灯した。




