丁寧に人生というドラマを生きるには。
「―― 三島さんは敗退してしまった」
YouTubeのおすすめに流れてきた動画。
NetflixJapanの『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』での一幕。『50年前の東大生(芥正彦)と三島由紀夫の言葉による決闘』というドキュンタリーの断片、181秒。―― この動画から受ける印象は、現代人からすると、あまりにも純粋で「かわいい」ものであった。
端的に述べればいい話を敢えて、文学的に弄び、挑発につかう三島。それに強烈なカウンターを浴びせかける芥正彦。その風景をメタに解説する平野啓一郎。
出てくる人物が、みな真剣で真面目。
相手の言葉、物語をちゃんと受け取りながら、アンチテーゼを提示し合う。三島由紀夫と東大全共闘との「討論会」の風景を撮影したドキュメンタリー。
議論し、新たなルートを探るために行われてきた討論が、やがて「ショー化」していく原因。それはやはり「宮台真司」の登場によるところが大きい。と筆者は考える。
「思考が硬直した」専門家たちを次々と切り捨てていく宮台の姿に、興奮した視聴者が多かったことは、想像に難くない。そしてテレビも「これは数字になる」とテーマの二元論化を加速させた。
とはいえ、宮台には「実学」もあり、乱暴な彼の言説にも、それなりの肉付けがあり、たまに口にするメニューとしては楽しいものでもあった。しかし ―― である。
悪貨は良貨を駆逐する。ひろゆきの登場。
ノートパソコンを手元に置き、主張者の言葉の穴をひたすら検索する。感情のみの言葉を嫌い、主張の精度を高めるという意味では価値もあるが、彼は「他者との建設」を好まない。欲しいのは「結論」だけであって、彼の反論は「反論のための反論」に過ぎない。
ひろゆきが参照とするのは、常にネットでの反証的なデータ・意見。彼自身の勉学に基づくものではなく、「借りてきたナイフ」である。だから、いつも穴だらけ。言葉の誤用や解釈の読み間違いも頻繁だが、相手の思考を硬直させる「ノータイムの刃」に言葉を失う者も多い。結果として、ひろゆきが「勝った」「論破した」と思考の浅い視聴者を今なお楽しませ、歪ませ続ける。
かつては思考を高めるために行われた討論番組が、グロテスクなファストフード店へと様変わりした原因。制作者サイドのレベルの低下が、やはり一番の問題か。
ひろゆきと成田悠輔の「根本的な違い」にも気づかない層。それらが、今の討論番組の視聴者層なのだから、仕方のない側面もあるが。
―― 大幅に道が逸れた。
現代は、情報の洪水だ。
ひとつのことを「突き詰めて考える」には、あまりにも「考えなければならないこと」が多すぎる。実際には不要でも、まず必要かどうかを吟味する必要がある、新しい情報には。
凡人が、本気で思考を深めるには「不要なジャンル」の選別が必須となるわけだが、「不要なジャンル」ほど、魅力的に映る堕落もない。
真剣な滑稽、ドラマこそが、人々を感動させるわけだが、真剣に生きるには「ノイズ」が多すぎる。真剣であればあるほど、ノイズが僕らを搔き乱す。
ほとんどヤク中みたいじゃないか、情報の。
ドラマを取り戻すためには「情報の断捨離」も必要だ。