(10)傷を負った女神
自宅で動きやすい服装に着替えると、彼は自転車に飛び乗って「たからばこ」へと急いだ。
みんな公園に出払っていて無人の事務所の駐輪場に停めると、近くの炊き出し会場へ急いだ。
冬の日がだいぶ傾く時間だった。
小学校のグラウンドくらいの広さのある公園の一隅にはテントが立てられ、その下で炊き出しの準備の真っ最中だった。
テントの周りでも、椅子やテーブルの設営が行われていた。
「たからばこ」関係者だけでなく、大学のボランティアサークルやNPO団体の有志たちも集まって、それぞれが動いていた。
と言っても、完全に統制された動きではない。
高良社長の「やれる人が・やれる事を・やれる時にする」という方針で、それぞれがめいめいのペースで「やれる事」をやっている。
昨年までは、テントの下で雄次と奈美は一緒に豚汁を作っていたのだが・・・。
後になって思えば、幸せな時間だった。
思っていたとおり、高良さんはテントの周りをくるくる動き回りながら指示を飛ばしていた。
そこへ向かう途中にも、慣れ親しんで見知った顔が笑顔を向けたり手を上げて合図してきたりする。
「ユウジくん! 久しぶり!」
「ユウジ! 元気にしてたか?」
「ユウちゃ〜ん、こっち向いて〜!」
雄次もいちいち挨拶を返すものだから、なかなか高良さんの元へ近づけない。
そもそも高良さんがコマネズミのように動いているのだけれども、周囲のざわめきから雄次が来たことに気付いたようだ。
「おお、ユウジくん! 来てくれるとは思っていたけど、予想外に早かったな!」
「高良社長のためなら、いくらでも恩返ししますよ!」
かつて彼自身がそこに「在った」時のそのままの空気に元気を取り戻した雄次を、高良さんは「またまたぁ、心にもない事言っちまってよぉ! 言ってもギャラなんか出せないからな」と笑いながら小突く。
雄次も、「もちろん、ボランティアしに来たんですよ! 誤解しないでくださいよぉ〜」と、高良さんのツッコミを受ける。
「とりあえず、どこら辺(の仕事)が空いてます?」
「ああ、この春から雄次くんを含めて2人が抜けて、新人が2人入ったわけだが、クリスマス炊き出しは当然ながら今回が初めてだ。だから、そのうち一人に付いて、会場整理をやってもらおうかな」
「わかりました。で、その新人って、どこにいるんです?」
「あとで引き合わすから・・・それより・・・」
高良さんは雄次を引っ張るように、テント裏の防災倉庫の陰に連れて行った。
そして辺りをはばかるように、小声で彼に聞いた。
「さっき僕は、2人が抜けたって言ったよな・・・?」
「はい・・・奈美さんでしょ?」
「・・・なんだ、知っていたのか」
「今朝、ハジメちゃんから教えてもらいました」
「そうか、そうなら話は早い」
そこで時間に追われる高良さんから手短かながら告げられたのは、奈美の身の上に降り掛かった不運だった。
それは、一旦は上向いた雄次の心を再びどん底に突き落とすに充分なものだった。
雄次と別れた後、奈美はマッチングアプリですぐに新しい男性と知り合った。
彼女に障がいがある事を承知で付き合ってくれた男性との出会いに、彼女は毎日、心が浮き立つように幸せな様子が周囲にも見て取れた。
けれども梅雨が開ける頃・・・奈美が正式に付き合い始めると、途端にその男は豹変した。
奈美を常に自分の支配下に置こうとし、しかし奈美の障がいのために思うように彼女を制御できない事に苛立ち、暴力を振るうことも度々だった。
その時点で、高良さんは奈美から相談を受けた。
高良さんはその場できっぱりと「別れなさい。一刻も早く」と伝えたが、自分から相談したくせに奈美はなおもその男との縁を断ち切れなかった。
しかも、その男は既婚者である事が発覚した。
配偶者への暴力行為で起訴されたために奈美の知るところとなったのだが、さらに驚いたことに、また別の女性への暴行のために執行猶予中の身でもあったのだという。
「おまけにだ・・・これは非常に機微に触れる話であって、本当だったら君にも話すべきではないのだろうけれど、奈美さん、件の男から性病も伝染されていたんだ。もちろん、病院に通って完治したんだけれどね」
ドミノ倒しのように不運が襲ってきて、とうとう奈美は実家に引きこもってしまった。
それでも時間をかけてなんとか表に出てきたが、「たからばこ」は辞めてしまったのだという。
「・・・ああ!」
自分のせいだ、雄次は呻きながら頭を抱え、そして防災倉庫の壁に頭を打ち付けた。
しかし高良さんは、彼の肩を抱きながら、言った。
「奈美さんな、退職の挨拶に来たときにも雄次くんの事をひどく気にしていたんだよ。雄次くんには悪いことをした、雄次くんの気持ちを考えずに、雄次くんと落ち着いて話し合うこともせずに、喧嘩したまま別れてしまった、って」
雄次ははっと顔を上げた・・・高良さんは、その事を彼に伝えるために物陰に引っ張ってきたのだろう。
奈美も彼と同じように、自分を責めていたのだ。
けれどもそれを今更知ったところで、どうなるというものでもない。
彼は深い悔恨の泥沼へと沈んでいくような心地だった。