引っ越し荷物は片付かない
「あら、こんなものがでてきたわ」
また、母親が手を止めた。
「母さん。今度は何?」
私は実家に何をしに来ているのか。何度目かになる問いを、心の中に飲み込んだ。さっき口にして痛い目にあったのだ。人は学習する。
「ほら、あんた達の小さい頃の日記」
私は母の言葉に白目を向いた。
「母さん、そんなもの、とってあったの」
「え、まじ」
隣の部屋の押入れに頭を突っ込んでいた弟が、慌てて這い出てきた。
「あったのよ。ほら。捨てるはずないから、どこに行ったかと思っていたけど、ここに仕舞ってたのね」
母が手にしていたのは、地味なノートだった。子供が使うようなものではない。私は、子供の頃は日記を書いていた。それが出てきたのではないらしい。よかった。焦った。
「それ?」
弟も同じことを思ったのだろう。拍子抜けして突っ立っている。
「そう。ほら」
母はノートを広げ、日付を指差した。見慣れた母の字で、二十年近く前の日付が書かれていた。
「みかこが昼寝からおきてくるなり、夢の内容を話しだした。怪獣がきたの、お空を飛んだのよ。ちーちゃんがね、ハイハイで。次々と話がとんで書くのがおいつかない。内容もわからない。楽しかったらしい。ひとしきり喋って、ずり這いするちーちゃんを、積み木を両手に持ったまま、四つん這いで追いかけている。積み木で遊ぶか、四つん這いで遊ぶか、どちらかにすればいいのに」
日記を音読した母は、ノートを抱き締めた。
「懐かしいわねぇ」
母は微笑み、私と弟は顔を見合わせた。一切全く何も覚えていない。
私も、背が伸びて私を追い越してしまった弟も、小さな頃があったのだ。
「ちーちゃん」
私にとっては思いでたっぷりの懐かしい呼び方なのに、弟は顔をしかめた。
「真理子の前では言うなよ」
幼い頃の愛称が、どうやら恥ずかしいらしい。真理子さんは、私の義理の妹だ。やっと私に、なかなか可愛い妹ができた。むさ苦しくなってしまった弟だが、女性を見る目は悪くなかった。姉の私が厳しく育ててやった結果である。
真理子さんの、男の趣味はわからない。なぜ、弟の強烈に似合わない髭面を許すのか。私は、髭は剃るべきだと思う。まぁ、もう私の言うことを聞く弟ではない。良いことだ。妻の言うことをききなさい。
「真理子さんの前には、言わないわよ、ちー・ちゃ・ん」
「もー、姉ちゃん」
どこか甘えた口調の弟に私は笑った。
「ほら、あんたたち、手が止まっているわよ」
私達が手をとめるきっかけとなった、母の言葉に、私と弟は顔を見合わせた。私達の手を止めたのは、誰だろうか。
「懐かしいわねぇ」
私達の手を止めた犯人の手は動いている。ノートをめくっているだけだ。引っ越しを前に片付け始めたはずの部屋は、全く何も片付いていない。
「この分じゃ、いつ終わるやら。早めに始めてよかったね。姉さん」
そういえば、こいつは、気がついたら、勝手に私の呼び方を変えていた。小さい頃は、姉ちゃん、姉ちゃんと、ついてきたのに。
「そうね。ちーちゃん」
「姉ちゃん!」
とっさに幼いころの呼び方に戻った弟に私は満足する。あとで、母には日記を見せてもらおう。私達の覚えていない、私達の小さな頃の話が、書いてあるのだろう。
「今日もまた喧嘩だ。二人は仲が良いのか悪いのかわからない」
母がまた、日記を読み上げ始めた。
「もう、母さん」
「母さんの引っ越しなのに」
私と弟の言葉は止まった。母はノートを片手に、こちらをみてニヤニヤ笑っている。
「今日の日記に書く内容が決まったわ」
「もう、母さん」
私と弟の声が綺麗に揃った。
父が亡くなって三年経った。母一人にこの家は広すぎる。引っ越すなら元気なうちに引っ越して、新しい生活に慣れたほうが良い。そう家族で相談して決めた引っ越しだ。
父が病気になったとき、母は日記を書かなくなった。書けなくなった。
「孫に見せていい内容にしといてよ」
元ちーちゃんが、昔可愛かった弟が、母に文句をつけている。
母がまた、日記を書く気になってくれてよかった。
お楽しみいただいていますでしょうか。 他にも作品ございますので、是非ご覧いただけましたら幸いです。
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【エッセイ集】現在気まぐれに投稿中
人がすなるえつせいといふものを我もしてみむとしてするなり
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これからも、朝のひととき、お楽しみいただけましたら幸いです