1話:カッターランド侯爵家
太陽がその日の役割を終え、空を薄紫色に染める頃、二頭の馬に引かれた馬車が、草原の中の道を軽快に進んでいる。
都市の中心部から離れた郊外のこの場所には畑が広がり、虫達が思い思いにコンサートを開いている。そんな牧歌的な雰囲気の中で、兵隊が乗る馬車は少しだけ仰々しかった。
御者は革製の鎧に身を包んだ若い兵士だ。兵士は巧みに馬を操り、彼の上司を送り届ける役目を果たしている最中だった。
「もう少し速度を緩めますか? この辺りはあまり舗装されていないので揺れますからね」
御者が奥に座っている男性にそう尋ねる。
乗っている男性の身分を考えると、この馬車は身分相応とは言えなかったし、住んでいる場所も僻地だ。
「いや、このままでいい。お前も早く業務から解放されたいだろう」
気を遣った部下に対し、男性は、圧迫感は無いが威厳ある声でそう答えた。
彼の名はヴォルフ・カッターランド侯爵。武を生業とする貴族であり、王国直属の騎士団長であり、王国最強の剣でもあり盾でもある。
年齢は四十を超えているが、衰えるどころか全身に生命力がみなぎっている。
褐色の髪を短く刈り込み、二メートル近い巨躯に鋼のように鍛えられた肉体。その上に金属製の鎧を着こむと、人間とは別種の巨大な生物のように見える。
ヴォルフは外見こそいかついが、その瞳には穏やかな光が宿っている。ヴォルフは自分を送り届ける当番になったこの部下が、つい最近結婚したばかりだという事を知っていた。
「早く帰ったほうがいいだろう。妻がお前の帰りを待ちわびているぞ」
「それは団長もでしょう」
「別にここで降ろしてもらっても構わんぞ」
「それでは俺の仕事を成し遂げたことになりませんので。それに、夜盗の類が出ないとも限らないですからね」
「それはつまり、ヴォルフ侯爵は夜盗の不意打ちにやられてしまう軟弱者という事か」
「ヴォルフ団長を襲う夜盗がいたら、そいつは夜盗じゃなくて自殺志願者と言うべきでしょうね」
ヴォルフは叱責するようなセリフを言ったがもちろん冗談だ。その証拠に頬が緩んでいる。部下もそれを知っているので冗談交じりに切り返す。
ヴォルフは魔法が一切使えない代わりに、剣の腕前と体力は尋常ではない。また、精神面においても豪胆であり繊細さも兼ね備えていた。
今の発言も、部下を早く解放してやりたいという気持ちから出たもので、部下もまたそれを理解している。だからこそ、ヴォルフは数多くの部下や王国の民から絶大の信頼を得ている。
「まあ大人の事情はさておき、団長こそ早く帰られた方がよいでしょう。俺には妻だけですが、団長には妻と未来の騎士団長殿、それに『お姫様』がいらっしゃいますからね」
「そうだな」
部下にそう言われると、ヴォルフは反論しなかった。早く帰りたいのは、部下よりもむしろヴォルフのほうが気持ちが強いかもしれない。
貴族が住むには随分と田舎にある屋敷に辿り着くと、ヴォルフはゆっくりと馬車から降りた。部下をねぎらい、馬車が問題無く帰るのを見送った後、ようやく自分の屋敷の門をくぐった。
決して華美ではないが、地元の自然と調和した我が家をヴォルフは気に入っていた。貴族連中からは変人扱いされる事も多いが、もともと武人気質なので大して気にもしていない。
何より、この家には都市の……いや、世界中を探しても絶対に手に入らない宝がわんさか詰め込まれているのだ。
「おかえりなさいませ。ご主人様」
住み込みのメイドが何名かやってきて、ヴォルフの鎧や外套を外すのを手伝った。ヴォルフは自分の装具は自分で外すほうが好きなのだが、彼女らの仕事を奪うのもよろしくない。
「おかえりなさい。今日もお疲れさまでした」
公務中の鎧を脱ぎ、部屋着に着替えた頃、最愛の妻であるクレージュ・カッターランドがやってきた。金色の美しい髪を長く伸ばした、自分にはもったいないくらいの貴婦人だ。
ヴォルフはあまり貴族社会が好きではないが、社交界に出る時に妻を自慢できるのは少し楽しい。
「ああ、ただいま。王都は今日も平和だったよ。こりゃ騎士団も近日中に廃業かな」
ヴォルフは軽口を叩き、クレージュも微笑んだ。ヴォルフは騎士団長として治安維持を担当しているが、多少の揉め事があるくらいで大きなトラブルは無い。
もちろん鍛練は毎日行っているが、彼の剛腕を思う存分振るう機会は一生無いだろうし、その方がいいとヴォルフも思っている。
「ウィルは?」
「あの子は裏庭で自主鍛練をしているわ。そろそろ戻ってくると思うけど」
「そうか、あいつも今年から正式な騎士として叙勲を受けるからな」
ウィルとは彼の息子、長男のウィルバートだ。騎士になる場合、十五の頃から見習いとして仕え、正式な騎士として任命されるのは平均十年を要するが、ウィルバートはわずか十八にして騎士となる。
これは王国歴史上初の事で、これまた自慢の息子として鼻が高かった。反面、息子にあっさり追い抜かれるのではないかという不安もあるが。
そして、ヴォルフは一番気にしている『お姫様』について言及する事にした。
「リモはどうしている? 今日も一日お菓子作りに励んでいたのか?」
「こちらにいます。おとうさま」
クレージュが答える前に、舌足らずな敬語で存在をアピールする声が下から聞こえてきた。気が付くと、ドアの所に張り付くように、ヴォルフの愛娘であり、彼の……いや、カッターランド家最高の宝が立っていた。
彼女はリモニウム・カッターランド。もうすぐ八歳になるヴォルフの大事なお姫様だ。
太陽の光を溶かしこんだような、クレージュよりもなお美しい金色の髪をボブカットに整え、夕日よりもなお紅い澄んだ瞳。上品な薄桃色のドレスを身に付けていて、控えめな淡い色が華やかさを彩る。
天使の祝福を受けたような美しい少女だ。親の欲目や年齢を差し引いても、これほどの美少女は国中探してもそうは見つからないだろう。
事実、社交パーティーなどでは既にいくつもの婚礼の誘いを受けているが、ヴォルフが国を守るよりも必死に壁となって全部断っている。
将来的にはよい相手を見つけてやりたいが、今この娘を手放す事は絶対にしたくなかった。
「おお! わざわざ出迎えに来てくれたか。さあ、パパが帰ったぞ」
ヴォルフは早足でリモニウムに近付くと、両手で軽々と抱きかかえた。リモは特に嬉しそうでも無いが嫌でも無さそうで、されるがままの胴体が伸びた猫みたいになっていた。
(もう後数年もしたら、こんな事も出来なくなるんだろうな……)
子供の成長は早い。そして、パパとはそのうち邪険にされるものなのだと先に娘を持った部下にヴォルフは聞いた事がある。
この愛くるしい娘に、「お父さん臭いから近寄らないで」なんて言われたら、人目をはばからず号泣してしまうかもしれない。ヴォルフは千人の悪党を一人で相手取るより、愛しい娘に嫌われる事を恐れる男だった。
「おとうさま」
「何かな?」
「今日は、ひとごろしをしたのですか?」
「はは、そんな事はしないぞ」
最近、リモニウムはヴォルフが帰宅すると、開口一番に同じ質問をする。まだ八歳だというのに、王国騎士団がどういう組織なのか理解しているのだろう。そう思うと、ヴォルフは驚いた。
騎士団は平時は王国内の治安維持をするが、有事――すなわち他国からの侵略などがあった場合、迎撃ないし殲滅――あるいは戦争をしなければならない。
場合によってはリモニウムが懸念している事だってするかもしれない。
無論、今その気配は皆無だが、この子は本当に心優しい子だとヴォルフは理解している。そうでなければ毎日、自分が凶行に手を染めないか確認などしないだろう。
ヴォルフは壁に掛けてある時計を見た。メイドや料理長が食事を準備するまで、まだ若干の時間があった。
「お前ももうすぐ八歳になる。今日はパパが大事な話をしてあげよう」
「はい」
ヴォルフは自室までリモニウムを軽々と抱いたまま戻ると、自分はベッドの上に腰掛け、娘を自分の椅子に座らせて対面の形を取った。
巨漢のヴォルフ用の椅子なので、小柄な愛娘が座ると小人のように見える。
「私たちカッターランド家は、もともとは名も無い傭兵だった。傭兵というのは、お金を貰って戦争をする人の事だ。ここまではいいかな?」
「分かります」
リモニウムがそう言ったので、ヴォルフは言葉を続ける。
「初代カッターランド家当主アレックスは『鬼神』と呼ばれるほどの猛者だったらしい。彼の活躍で我々は貴族の地位を得たんだ。それ以来、我々はずっと武家として王家に仕えている」
そこまで言って、ヴォルフは少し考える。
八歳の娘に話すのにはいささか難しい内容だ。だが、親バカかもしれないが、リモニウムは普通の少女とは少し違う。
全てを理解出来なくとも、概要だけでも話してやる価値はある。そう考え、ヴォルフは自論を述べることにした。
「我々は武家として王国に忠誠を誓っている。初代当主の時代と違い、今は平和だ。暴力は暴力。正しいも悪いも無いのかもしれない。でもな、パパは出来る限り正しい力の使い方をしたい。だから人を殺す事はしないんだよ。リモには少し難しかったかな?」
「いえ、おとうさまの考えはだいたい分かりました」
「そうか。お前は賢いな」
そう言って、ヴォルフは大きな手でリモニウムのさらさらの髪を撫でた。
もちろん娘が全ての話を理解出来たとは思っていなかったが、それでもリモニウムが適当に分かりましたと言っている雰囲気ではないのは分かった。
少なくとも、自分が暴力に反対しているという意思は伝わったのだろう。
(本当に素晴らしい娘を授かったものだ。神に感謝せねばな)
自分と違い、父が人を殺していないかと心配する優しさを持ち、容姿端麗、頭脳は明晰。武力でのし上がった粗暴なカッターランド家から、良心を絞り出して凝縮させたような娘。
初代カッターランド家当主が見たら、情けない末裔だと激怒するかもしれない。でも、ヴォルフはそれでいいとすら思っていた。
人を傷つける武力によって成り立つカッターランド家が必要無い世界のほうが、素晴らしいのだから。
だが、初代カッターランド家当主がリモニウムを見たとしても、決して彼女を責める事は無いだろう。
何故なら、リモニウムこそ、数百年越しに転生してきた初代カッターランド家当主なのだから。
楽しい事がたくさん起こり、つらい事が起こってもそれを楽しくする作品にします。