視界の端
「……摘み取らねば。」
壁も天井も見分けのつかぬ程のただ白い部屋の中、浮いているように見える椅子に腰掛けるただ一人のなにか。身に纏う衣は波のように揺らめき、ささやかに虹色に光る。
そして、そっと目を開けた。
「余計な情……不要な、ヒトならざるもの…。生まれて落ちて流れて染み込むだけの無意味な……」
一度立ち上がれば、瞬きする間もなくそこは宇宙であった。比喩ではなく、率直に述べ、宇宙であった。
「傍観者、もとい鑑賞者よ。その客席は余りに高過ぎるだろう。」
問いかける先には誰もいない。ただ光り輝く星が数多無数に散りばめられ、少し大きい石やガスの塊があるだけだ。
『この距離が丁度良いんだ。視界の小さな小さな一点に全てが見える程度が。』
遥か彼方から声が聞こえる。虹の衣を纏うなにかは、それに驚くこともなくまた、呟くように語りかける。
「丁度良いが心地良くはないのだろう。見れば見るほど、対象と自身は離れていくもの。今のお前は現実を遠ざけて、まるで人間だ。」
『……何を言うかと思えば。人間は、全てを見た気になっている傀儡。だが私は実際全てを見ている。故に現実から離れるなど些末な理だ。対して、アレは離れているのではない、決別しているのだ………あぁなんと愚かな。』
「考えを改めよ。まさにその考えこそが決別に他ならないと気付かないのか?人間は現実にいる。お前はその現実を苛み、理解を放棄し、ただ見るのみ。お前は見ているだけの傍観者に他ならない。」
ゆらり。
一つ、灼熱が遠くで揺らぎ近づいてくる。
『……それは、職務を全うしていないと、言いたいのか?』
「考えを改めよ、と言ったのだ。…しかし、力というのは、受け止めた者がその程度を知り得る。言葉もそうだ……お前がそう受け取ったのならそうなのだろう。」
『よく回る舌だ。それで、お前は何が言いたい?先程から遠回しな物言い。蝿のようにうざったいのだが。』
「降りてこい。」
『……。』
「視界の一点ではなく、視界全体で現実を視よ。」
灼熱は焔の塊のなにかであり、それはさながら太陽のようだ。虹の衣を纏ったなにかの目前に来るまでに、それは他の星を焔で喰らい尽くしていった。
『やはり気に入らないな。』
焔はそう言って更に熱を増していく。
しかし、その目前に立つ者が燃えることはなくただ真っ直ぐに、少し微笑みながらそこに居る。
「何がだろうか。私が焔で燃えないからか、あぁ、やはりまだ上司と認めてくれないのか?」
『……わかるだろう、全てだ。全て気に入らない。お前はアレから生み出されたただの空想に過ぎない。神を裏切った癖、偶像に縋らないと生きていけない下愚な人間共の愚考の体現である。』
「その通りだな。」
『そんな奴に命令されるこの私に腹が立って仕方がない。私はずっとずっと、ずっと……!』
段々と語気が強まっていくと同時に、更に焔が強大になっていく。
「落ち着け、力が重くなっている。堕ちるぞ。」
『……………』
一つため息のようなものが聞こえれば、水をかけられたようにたちまち熱気は縮小されていった。
『……問いたい。何故今降りてこいと命ずる?…あの不始末をなんとかしろと言うのではないだろう。』
「まさか。あれは他の部署のことだ。だが、それに関係することをお前には任せたい。……サリエルについてだ。」
『ザラ……!!……来るのか、来たのか?アスタロトが言っていたのか?何処だ、未来か過去か?何処に奴は居る?』
「生憎だが。お前と違い、アスタロトが行使するのは目ではなく力。少しの詮索で彼奴は勘付く。」
『………本当に……あぁ、あぁ…!!あいつはつくづく面倒くさい奴だな!!』
♢♢♢♢♢♢
「…あ、起きた。」
あまりに綺麗にぱっちり目蓋をあげるものだからやはり機械的に見える。
ここは霊魂乖離部署。いつのまにかこの場所に着いて、いつのまにか時間が経っていた。
景色を眺めながら移動していたのに、急に椅子に座っていて目の前には眠っている死ガミがいたのだ。
天使さんが言うには、この世界の時の流れに私が適応できないから、そのズレが自動的に記憶の空白となってしまうのだそう。
この空白の間に私はちゃんと会話をして自ら椅子に座ったというのだから少し不気味だ。
「ここは、部署。先輩に会いに行こう。」
効率的な動きで身体を起こし、そう私に声をかける。
自分が気絶していた間に何が起きてたのか疑問に思わないんだ……。
「なに、起きたの?」
声に釣られてそちらを見やれば、何もない空間からまるで壁から顔を出しているように天使さんがこちらを見ていた。
異様な光景に思わずぎょっとしていると、天使さんは私の後ろに立っている死ガミーーアインさんを見るなり、表情をみるみる綻ばせていく。
「アイン!あぁ、もう!心配したんだから!」
そう言って私を押し除けアインさんに抱きついた!いや、気絶させたの天使さんじゃん!
なんて突っ込めるはずもなく、私はただその光景をあんぐりと口を開いて見ていた。
「メム、心配していたという割に貴女からは今喜んでいる様子しか見受けられない。」
「バカね、心配していたからこそ起きてくれて嬉しいのよ〜!」
これはもしかしなくても、メムさんはアインさんのことが好き……?恋愛的な意味なのか、友情、もしかしたらただの愛着なのかもしれない。一つ言えることは、メムさんは今までのクールな雰囲気とは打って変わって、ただの乙女になっているということだ。
しかしそんな様子に然程動揺しないアインさんは「仕事をしなければ」とメムさんをひっぺがす。その時私の目には、向こう側の景色を覗けるその胸の穴が映った。
空いているのに何ともないどころか気に留めていない。本当に元々開いていたものなのだろう。
「それで、私は一体誰に話を聞いて貰えばーー」
「ヒト臭い。」
私がアインさんへの問いを言い終わるか終わらないかのタイミングで男の声が被さってきた。アインさんは人の話を遮ることはしてこなかった…というかきっとしない。だとすれば、誰?
私は声の聞こえた後ろを振り返った。が、そこには誰もいない。規則正しく隙間なくデスクの並べられた伽藍堂のオフィスが延々と続いている。
「先輩、魂の切断に失敗してしまいました。記憶も欠陥しており、未練の分析・解決も手詰まりでーー」
「そうか。」
今度はアインさんの言葉が遮られている。つられてそちらへ向き直せば、そこにはアインさんと全く同じく全身真っ黒の人物が立っていた。
「う、うわ……!?」
私の口からは、随分と遅れて間抜けな声が出てくる。しかしその人物はこちらを一瞥することもなくアインさんを見たまま黙りこんでいる。よくよく見ればその人物は肌まで真っ黒で、唯一白い目と黄色い目だけがくっきりと見て取れた。少し不気味だ。
「……。」
お互いに特に何も話題を切り出さない……なんだかこの状況身に覚えがあるな。
そして、ようやくアインさんが「どうすれば?」と問い掛ければ、「ヌンさんに報告してくると良い。」とだけ答えて黒い人は何処かへ行ってしまう。
「相変わらず素っ気ないわね、死ガミは。」
「そうだろうか。」
「アインみたいな愛嬌をオプションで付けてもらえなかったのかしら。」
「僕にも愛嬌は与えられていない。不要では?」
背中を向けた黒い人ーー話を聞くに死ガミさんーーに聞こえるか聞こえないかくらいの声量で話し始める2人に、私は内心ヒヤヒヤとさせる。
特にメムさんのよく通る声は耳に入っていると思うのだが、こちらを振り返る様子もない死ガミさんに少しだけ不気味さを感じた。
そんな私の不安をよそに、メムさんはアインさんの素っ気ない返しに対しても語尾に「♡」をつける勢いで絡んでいる。なんだかんだ会話がちゃんと続いていることに、「付き合いが長そうだ」と自然に思った。
「……さて、ヌンさんのところへの経路に障害になるものは無いわ。私は仕事があるし、また会いましょ、アイン。」
「世話になった。」
「えっ」
このまま一緒に案内してくれるのだと思っていたものだからつい声が出てしまった。
だが、天使もきっと暇では無いのだ。そんな中メムさんは気絶したアインさんと私をここまで連れてきてくれた……そういえば何故メムさんはわざわざアインさんを気絶させたのだろう?気絶させたことで天使たちが散り散りになっていった理由に少し興味がある。
しかし、そのことは一旦頭の片隅に追いやることにした。結局は囲まれていた私たちを助けるためにやってくれていたことだったのだ。今はここまで世話を焼いてくれたことに感謝するべきだと思う。
「ここまでありがとうございました、メムさん。」
私は宙に浮くメムさんに向かって一礼をした。
しかし返事はない。視界の端にハラリと羽根が漂い足元に落ちる。その後も音沙汰なし。
暫くの沈黙の間ずっと頭を下げていたが、流石にもう良いだろうと顔を挙げるとそこには既にメムさんの姿はなかった。
「え、えぇ……?」
どんな反応をして受け入れれば良いのかわからず、とりあえず「ふう」と息を吐く。ーーまた会えたらその時に改めて礼を言おう。
そう決意した私は、大きく息を吸い込んでアインさんを見た。
「いつでも行けるよ。」
その言葉にアインさんは相変わらず「そうか。」とだけ言って、先ほどの死ガミも向かっていった薄暗いオフィスの奥へと進み始めた。