奇妙奇怪
初めに驚いたのは、あまりの空気感のなさだった。
息を吸っても吸っても肺が満たされる心地はなく、思えば自分は肉体のない魂なのだったと実感する。ならば今吸っているこれはなんなのか?
宇宙には空気がないと言うが、ここも同様空気はないだろう。だが、息を吸うという感覚はあるのだ。
ただ呼吸を繰り返すこと……それだけでこの空間の異次元さは体に染み込むように分かる。
私は見渡す限りの草原に佇んでいた。
どうやってこの世からーーこの場から言うならあの世にあたるのだろうかーー来たのか全くわからない。
気づけば手を離されており、私はいつから立っていたのか見当もつかないまま意識を戻したのだった。
「あ、あ……あー……いーうーえーおー」
不思議だ。身体なんてないのに声が出る。
思えば、死ガミの手にだって触れられていたのだし、完全に空気!みたいな存在にはなっていないのだろう。
今の自分の存在自体が、生きてた頃からしたら異質であるはずなのに、この世界に来てまず初めに思ったのはこの世界への違和感だった。つまり、私は私が思っているより変わっていないのかもしれない。
五感だってちゃんと働いている。さらさらと耳元で囁く風が、澄んだ香りを運んでいく。そして、それに押されて靡く小草が靴下越しに足を撫でていくのだ。靴を履いていないのだが、不思議と痛くない。日の光だってこんなに……
……あれ…?暖かい……。
「なんで…!?ね、ねえ!その、あ、暖かさがわかるんだけど…!!」
あぁ、言葉がうまくまとまらない……。すぐ横に依然として立っている死ガミに、このどうしようもない鼓動の激しさをぶつける。
しかし当の死ガミは、「貴方が尋ねたいのは、何故五感の再現が出来ているのか、ということだろうか。」と冷淡に分析してくる。そんな態度に引きずられ、感情の波が静まっていく感覚がする中、私はコクコクと頷いて見せた。
「本来魂には、五感、痛覚、圧覚や温覚といったあらゆる感覚機能が備わっていない。故に、魂同士で互いを傷つけようとしても痛覚に影響を与えることができないし、まず傷はつかない。」
おっと、この人間の感覚でない話が始まるということは……異次元知識大放出の予感がする。
「だが、魂という存在に直接干渉することで感覚を感じさせることができる。」
「そ、存在に、直接…干渉……?」
「そもそも肉体の感じる感覚というのは、この存在干渉の疑似だ。」
えーと、『存在干渉』が感覚の本家だぜってことかな。
「高エネルギーを備えた魂ないし天使や神霊はこの存在干渉力が強く、他の乖脊界の住人らになんらかの影響を与えることができる。」
エネルギーってなんだろうとは思ったが、天使や神霊という響きを聞き、とりあえず「凄い力を持ってる人たちが存在干渉できるんだな」と思うことにした。
ふう、いちいち小難しいぞ。
「よって、貴方が日の光を感じることができる理由は、太陽の運行を司る大天使ウリエルの存在干渉力の影響だろう。」
「へぇ〜天使………う、ウリエル!?んっっ?えっあ、あのウリエル!?」
さらっと告げられた事実に、驚愕に満ちた叫び声を上げてしまう。その名は聞いたことがあった。何故ならば、やり込んでいたスマホのゲームアプリで、大好きなキャラとして登場しているからだ。
……ああ懐かしいなあ…。クールで知的な天使ウリエルくん…手に入れるために何度面倒なリセマラをしたことか……!
「あのウリエル、というのは何を指しているのかわからない。」
「あ、ごめん。気にしないで。」
感慨に耽ていたせいでつい置いていってしまった。
片手間に謝りながら、私は「ウリエル」という名前を頭の中で反芻する。きっとこの世界でも高い地位にあるのだろう。太陽の運行だなんてとんでもないことじゃないか…!
と、そこで私は疑問を持った。
「ウリエル…様って重要な天使なんでしょ?なんで呼び捨てなの?」
まさか死ガミは大天使と匹敵するくらい力を持ってるのだろうか。
「大天使と呼ばれる存在は、他の天使とは違って直接神の手によって生み出された、言うなれば天使のオリジナル。したがって名付け親も神だ。それだけでその名は何ものにも代え難い名誉そのものであり、宿っている力がある。」
「なるほどね…。」
つまりは敬称など不要なほど、その名に価値が詰まっているということか。では「ウリエル様」と呼んだら「頭痛が痛い」みたいになってしまうのだろうか…。
そこでふと、私は包み込むような優しさで照らす太陽を仰ぎ見た。そして、眩しさなど恐れぬほどに瞠いた目はある一点に熱心に注がれる。
その目線を受け止めていたのは太陽ではない。それは、太陽の光で陰ったとてつもなく巨大な幹であった。
視界のおよそ3分の2を占めるその幹は、一度見た程度では幹とはわからないくらいに天高く聳え立っていた。雄大であり壮大。壮大であり荘重だ。
ずっと遠くに立っているはずの樹幹だが、首を思い切り反らし真上を見上げるとそこには空の果てに吸い込まれる幹が続いている。それはうねりもなくただ真っ直ぐに立ち、遠くの空に溶けていくのだ。
あまりのスケールの大きさに言葉を失っていると、隣に立つ死ガミはその幹の方を向いて「彼処が乖脊界の門だ」と言う。だが、ここからでは門と思しきものは見えない。あの幹との距離感があまり掴めないが、恐らく予測よりずっと距離が開いているのだろう。
「門……てことは、門番とかが居たり…?」
「あぁ。先程一番目の危険と説明した、生命の樹の守護者であるケルビムらが門番として機能している。」
「生命の、樹……。もしかして、それってあの樹のこと?」
「そうだ。」
なんというべきか……。私は少し地味だなといった感想を持った。
漠然と大きいとしか言い表しようがないその樹は、枝分かれをしているような箇所も見当たらないし、どこまで続いているのかもわからない。
つまり見えているのはただ幹だけなのだ。
こう、光の粒子が舞っていたり色がカラフルだったりしたららしさが出るのになぁ……。
「今のところは、えーと…ケルビム?に目をつけられてないみたいね。」
「そうだな。」
この驚きばかりの世界に来たことによって、当初の目的が頭の片隅に追いやられている私は「門を通ろうとしたら反応するのかな〜」とぼんやりしていた。
そこで突然、死ガミが私の手首を掴んでズンズンと樹の方へ歩いていく。
「えっ?ちょっと!?」
「駆け抜けるぞ。」
駆け抜けるって……まさかあの門を!?
そこで私はようやく、「未練を晴らすために乖脊界のお尋ね者になる」という目的を思い出したのだ。
今にも走り出しそうな死ガミに抵抗するように、引きずられる形で足を踏ん張る。
「待って待って待って!せめて交渉を!訳を話せば応えてくれるんじゃ!?」
「…?己の責務を全うすることが最優先。それを阻害する者が現れたら排除が普通だろう。」
ま、まさかケルビムもこんな機械的な存在だって言うの!
「掴まっていて。」
「まっ……」
必死にあげた制止の声は手首を強く引かれたことで遮られてしまう。
初めは確かに地を走っていた。だが、奇怪なことに今は脚を使わず走っている。
縺れそうになるほどに足の回転数を上げても、「速く、もっと速く。」と急かしてきていた死ガミは今ではただ一直線に前に飛んでいた。
無重力空間は空気抵抗が無いため投げられたボールが止まることはないらしい。
今の心地はまさに投げられたボールのようなもので、スーッと地面と平行に前に進んでいる。
目下の小草は私たちを避けるようにザァァッと音を立てて伏せていく。それを見ることで、自分たちが今とてつもない勢いで移動しているのだなとわかった。
私はそれを眺めながら、半ば引っ張られる形で飛んでいるのだった。
そして、あんなに遠いと感じていたあの樹幹は視界を埋め尽くすほど近くに迫っていて……。
「あ……あれが門かな。」
ようやく小さく捉えることができた門には、その門番と思しき影が2体、門の3倍くらいの巨体を見せつけている。
うぅん…大丈夫かな……。
「あれ?沢山人がいる。」
近づくほどに、人影が沢山立っているのがわかる。思えば、乖脊界の入り口なのだから他に魂がいるのも当然だ。今まさに門に入っていく人もいる。
飛んでいる傍にも人がちらほらいるほど門に接近している中、速度が落ちることはない。本当に駆け抜けていくつもりなのだ。
「ん…?…ん……?」
おかしい……。門の大きさに比べて人が小さすぎる。門の高さの3分の1にしか届いていない。
ということはだ。この2体の門番の大きさ、とてつもないということになるのでは……?
恐る恐る門番に目を向けると、いつのまにこんなに近づいたのか、目の前にいると錯覚するほどに大きい。
「ひっ…………!!!」
喉から締め上げられたような音が出る。ケルビムの姿を見た私はそのまま目を逸らせずにいた。
「ああ、そうか。恐るのか。」
死ガミは後ろにいる私を一瞥した後、すぐに前を向き直してそう言った。
その言葉を聞いて、私は一つ呼吸を置く。
ケルビムには3つ顔が付いていた。
正面は人、向かって左は獅子、右は…牛か山羊か。そして、腕は4本あるように見えるが、恐らく体は一つ。なぜなら、翼で隠れた体の下からは牛の脚のようなものが2本降りているからだ。
ただでさえ圧のある巨体だというのに、こんなにも奇妙な姿形をされては、気の持ちようがないというものだ。
「……なんで皆んな怖がってないの……。」
私がじわじわ恐怖を感じるのはそれだった。門に向かう人たちに一切の表情変化はなく、この二体のケルビムを見ても何も言わない。
薄々感じていたが、この空間には「人間らしさ」というのがない。私だけが不純物だ。
あぁ…本当に、私は、こんな場所に入っていって良いのだろうか……?
「ここに居る魂らは、幽界で乖離臭を落としてきているからだ。乖離界の常識なども不要なものとして共に落としている。」
突然話し始める死ガミ。ああ、さっきの私の言葉を質問とみなしたんだ。
そんな死ガミに少し呆気にとられてしまったが、同時にその声に不安を拭い取られた気がする。
ーー幽界で乖離臭を落とすのなら、私の感傷を落とすのはこの死ガミだな。
「ふふ」
大丈夫だ。私にはこの頼れる死ガミ…が………頼れる……?……いやそもそもの原因こいつじゃねえかっ!!
危なかった。無駄に絆されるところだった。
なんとなく腹が立った私はその後ろ姿をキッと睨む。その視線を感じたのか、死ガミはこちらを振り返り私の顔を見て、ちょっと眉を潜めるのであった。