失われた記憶/そうだ乖脊界へ行こう
ー失われた記憶ー
「お、おー……?」
『魂務員』やら『シルバーコード』やら、様々な単語が飛び交う説明。極め付けに「理解できたか?」と問いかけてくる男。
そんなこと言われても、これは異世界の知識を話だけで理解しようとするようなものなのだ。簡単にわかる話ではない、ゼッタイ。
だからそこまで完璧に頭に入れなくていいだろう。とりあえず大まかにまとめていくとする。
おそらく『乖脊界』には、この世で言う国家公務員のような職があるんだろう。それが『魂務員』かな?
男はその魂務員で、所属は……難しくて覚えていないけど、『死ガミ第一課』とかなんとか言っていたはず。
私の中での「死神」は存在そのものの名称という認識だったが、きっとこの「死ガミ」とは、ただの役職なのだろう。
そして転生輪廻の軌道に乗り損ねた私の処遇だが、私は『乖脊界』に入れないらしい。
まあ、魂にとって転生輪廻するための世界が『乖脊界』なのだから、軌道に乗れない私が入れないのも当然だとは思ったが。
しかし、「想いの糸」というのが切れれば問題は解決するようだ。
本来ならシルバーコードと共に「ハサミ」で切るらしい(鎌じゃないのかとがっかりした)のだが、「想いの糸」を切るためにまた再度魂に刃を入れるのは好ましくないという。
イメージとしては切り口がまばらになる感じだとか、チクチクする感じだとか……。
ということで、取るべき手段は「私のこの世への未練を晴らすこと」なのだそう。
しかし……
「一つ聞いても良い?」
「一つか。」
「あ、いや、一つじゃないかもだけど…」
歯切れの悪い返事をしてしまい、少し咳払いをして誤魔化す。
「えっと……私の名前ってわかる?」
「わからない。」
正に即答。
しかし、その返答は当然だと言える。何しろ名乗ってないのだから。
ただ、死ガミだから狩る魂の個人情報くらい知ってるのかなあという興味があった。……あとはちょっとした期待か。
死ガミは問われたことになんの疑問を持つことなく、ただこちらを見つめている。
「そのぅ……私もわからないの。」
そう、私は自分の名前を思い出せずにいた。確かにあったはずなのだが一文字すらわからない。もどかしいなんて気持ちが一片もわかないくらいに手がかりすら掴めないという、むしろ清々しいと言えるほどに忘れてしまったのだ。
名前がないことに違和感を感じないのは、この「名前なんて初めから無かった」と思わせるような感覚のせいだろう。
その時、死ガミは初めて人間らしい表情を見せた。「あぁ参ったな。」とでも言いたげに眉をちょっぴり潜めたのだ。
今まで無表情だったからこそ、そう認識できたのだろう。
「心当たりがあるの?」
「ある。」
そう答えたっきりまた黙る死ガミ。本当に聞いたことしか答えないのだ。
つい面倒臭いなと思ってしまったが、今この場で頼れるのはこの人だけ。根気よく付き合っていくのが吉だろう。
「なんで私は名前を思い出せないの?」
「私がシルバーコードの切断を失敗したからだ。この世との繋がりの一部である『記憶』にも影響が及んでしまっている。」
あぁ……。この死ガミは本当に重大なミスを犯してしまったんだな……。
ここまで聞いてきた限り、死ガミが行う「霊魂の切断」というのはきっと、魂の今後を大きく左右する肝要な仕事なのだ。
現に、魂の狩り取り失敗の被害者である私は、転生輪廻の軌道に乗れず、記憶も無くなり、完全に行き場を失ってしまっている。
正直これは相手を責めていい状況だと思う。なのに私は相手になんの怒りも感じれずにいた。
被害を被ったという自覚がないからかもしれない。状況を本質まで理解できていないからかもしれない。
だが、それらを自覚し理解したとしても、私は責めることはないだろう。
「この死ガミは怒りを理解することはない」となんとなく感じたからだ。
しかしそれは理解してくれないことへの諦めではなく、理解できないことの空虚さ。
この死ガミは、感情という言葉と並べるには些か寂し過ぎる。何故だかそう告げた第六感が胸を締め付けた。
「……それで、私はこれからどうすればいい?」
置き場のない自分の感情を押し殺し、この男のようにただただ目の前の物事を見つめた。
「先程言った通り、貴方のこの世への未練を晴らす必要がある。まず未練を提示して欲しい。早急に対応する。」
自分の失敗に目を背けず、こちらを真っ直ぐに見つめてくるその赤い瞳。何故だか押し負けた気分になったため、切り替えるために背筋を伸ばしてみる。
そうだ、しっかりしなければ。方法があるなら心配することもないのだから。
「…………」
「…………」
沈黙が続く。その間私の口からは言葉が出てくることはなく、出てきたのは額の冷や汗だけであった。
まずい、これはまずい。
……私は自分の名前だけでなく、未練さえも忘れてしまったようだった。
ーそうだ、乖脊界へ行こうー
未練を忘れてしまった。
そう聞かされた僕は理解したことを示すため、「そうか。」という言葉を使った。
目の前のヒトは、あからさまに不安の色を表情に浮かべていった。
ーー僕はこれまでに何度か霊魂の切断を誤ったことがある。
1度目は新人の頃。教わったことを頭に入れても、それを動きに出すのは難しいことだ。綺麗に切ることができず、付き添いの先輩と魂の未練を晴らして対処をした。
2度目は、霊魂切断の準備を時間以内に済ませられなかったためにうまく切れなかった。しかし、1度目で既に対処の仕方は学んだため一人で処理できた。
3度目も同様、失敗はしたが対応はスムーズだった。
そして今回は4度目にあたる。これまでの経験から、僕はこの魂の処理工程が完全に頭に入っていた。
ーーああ、また顔の筋肉を無駄に動かしてしまった。
直面してしまった問題に、思わず僅かにしわのよった眉間の力を抜く。
どうする。このミスが4度目であっても、未練を忘れた魂の処理なんて今回が初めてだ。
それ故に、まず、今の僕には状況を打破するための判断材料も知識も組み込まれていない。
そして、死ガミ第一課は与えられた職務以外の目的で乖離界にーーつまりはこの世であるーー滞在することは契約違反に当たる。『霊魂の切断及び回収』に失敗した僕は一度乖脊界に戻り、上司に報告して次の任務、もとい事後処理を命じられなければならない。
よってここで出せる判断は一つ。
「貴方と私で、乖脊界へ行く。」
先程まで黙り込んでいたヒトは弾かれたように顔を上げた。丸くさせた目でこちらを見つめながら、困惑したような様子を見せている。
「え、え……?私乖脊界に入れるの?追い出されるとか指名手配かかるとか、ええと……。とにかく、そんな危険ない?」
「危険は、ある。」
「えっ」
鳴き声のように「え」を繰り返すこの状態、おそらく混乱しているのだろう。
そして、「えぇ〜……」と言いながら口元を触り考え込む仕草の後、「危険とは具体的に何か」と問いかけてきた。
僕は、このヒトを乖脊界に連れて行った際に起こり得る、推測可能な事象全てを特定する。そして、その中でも確実に起こると言える可能性を上げることにした。
「まず、一つ目。ケルビムと呼ばれる守護課所属の天使たちがその道を阻むと考えられる。だが、ケルビムたちはあくまでも『生命の樹』の守護者。区画を抜ければ追ってくることはない。」
「へ、へぇ〜……」
ーーつまりそれは暫く追手から逃れなきゃいけないってことね……。と呟きが聞こえる。
「次に二つ目。同様に守護課所属の権天使らが私たちを捕捉しにかかるだろう。」
「追い掛けられっぱなしじゃない!」
あんまりだとでも言うように嘆く姿に、「これらは確実に起こる事だ。」と告げると、拗ねたように目線を床にずらした。
「すみませんね……素直に現実を受け止められないもので〜…」
「ヒトにとって、それは仕方のないことだと把握している。」
「……。…ゴメン、話折っちゃって。続き聞かせて。」
……何故か、僕の発した声を聴いた途端にこのヒトの強張っていた顔の筋肉が弛緩した。
先程は気分を害したと見えたのだが、こちらに向ける目にはもはやその気配はない。
「最後。霊魂乖離部に立ち入れば追っ手から免れることが出来るだろう。」
「霊魂乖離部……?部署って…どういうこと?」
どういうこととはどういう質問なのだろうか。
「…部署とは与えられた役職ごとに分担された集団、またその持ち場のこと。私が指したのは部署のオフィスで……」
「い、いや!そういうことじゃないけど、やっぱ大丈夫!多分よくわからないと思うから!」
「そうか。」
「とりあえず、その部署がゴールってことね?」
「そうだ。」
『霊魂乖離部』ーーその名の通り、霊魂を乖離することに特化した部署である。その中でも、乖離に直接関与する課、死期を管理する課、回収した霊魂の統計をとる課などいくつかに分かれている。
つまり、この部署は霊魂処理の精鋭揃い。そこに行けばこちらの事情も察してもらえるだろう。
「それじゃあ早速向かおう。」
「も、もう行くの?」
驚いたような声を出すそのヒトは、途端にキョロキョロと周りを確認し出す。
「……?何か忘れたものでも?」
「そうじゃないんだけど…でも、うん…。何か忘れていそうで……。」
いざ行くとなると、この世に後ろ髪引かれる想いも出てくるのが通常だ。正確には、切断に失敗した霊魂のみの事象ではあるが。
いやはや、しかし、こんなに自我が保たれた霊魂を連れて行くのは初めてだ。
今まで切断に失敗してきた霊魂は、この世に残った自身の遺物である『未練』のみに執着するため、自分を保つための『自我』ーーすなわち『個性』を持っていなかった。
『個性』というのは肉体を持った霊魂の特性と言える。つまり、乖脊界においてそれは特質。異質。
ここから結論付けられるのが先ほど述べた、守護霊達の反応である。
今まで連れ込んできた自我のない霊魂とは明らかに対応が変わり、異物として排除に向かってくることは想像に容易い。
「ん……もう大丈夫だと思う。」
「そうか。ならばこっちに来て、手を取って。」
そう言って手を差し出すと、ヒトは一瞬硬直するが、挙動をぎこちなくさせながらこちらに寄り、僕の掌に掌を乗せた。
「ここから幽界を通過して乖脊界へ行く。」
「幽界…?なにそれ。」
「本来、霊魂が乖脊界へ行く前に立ち寄る場所。そこで完全に乖離臭を無くす。」
「か、かいりしゅうって……。臭い?もしかして、私も臭いの?」
「あぁ、臭う。」
「エェーーーッ!?」
相手に伝わるようしっかりと頷くと、ヒトは置いていた掌をバッと離し自分の匂いを嗅ぎ始めた。
「わかんない……でも、く、臭い……?うぅ…私もその、幽界ってとこでニオイ消せないの?」
「無理だ。その臭いは乖離界との糸が根本的に断ち切れていないためのもの。私が切断に失敗した時点から生じてるものだ。」
ただ真実のみを述べると、ヒトは黙りこくってしまう。
何故だろうか?やけに目を細めてこちらを睨んできている。
「結局全部あんたのせいじゃない!もーーっわかった、わかったわよ!早く行ってさっさと記憶戻して未練晴らして、スッキリ転生輪廻の軌道に乗ってやるんだから!!」
そして差し出しっぱなしだった僕の掌にまた掌を乗せてきた。しかし、今度はぎこちないどころかかなり乱雑に乗せてきたために、部屋には乾いた音が響く。
「わかった。では目を瞑っていてくれ。それと、出来る限り思考を無にした方がいい。」
「ん、うん…。」
睫毛を震わせながらギュッと目を瞑ったのを確認する。
『________,__. ___.___ ___•___ __,__…… 』
殊の葉を紡げば、繋いでいない掌が滾る。直黒なその手に目線をやると、瞳が全身の血を集めたようにカッカと熱で騒がせた。
ーー行けるか、『タウ』。
その呼びかけに応じるように肘から先が泥のように解けて溶けて融けて遂げ、砥がれる。
まるでハサミの片刃のような形状になったそれには、血管に似たラインがドクドクと点滅している。実に生々しい。
一呼吸置く間も無く、その刃で上に向かって一線引く。まさに空間が裂けたようにそこから覗く別世界は、モノが多すぎる乖離界に比べるとやはり虚空に感じた。
軽く足の裏で地面を叩けば、物理法則の影響を受けないこの身体は急速に上昇していく。
ふと硬く握られた手に応えるように握り返しながら、共に裂け目の中に吸い込まれていった。