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01 プロローグ




「ほれ、はんこ」

 退部届が受理された。

 前島寅子。私の名前。少し古臭い。その横に、先生の苗字の判子が押された。

 私が職員室へ退部届けを出しに行った五月のはじめ、窓の外は雨だった。

「あとはこれ、半分を部長に渡してもらえれば、それで退部完了」

 先生に承認をもらい、部長との待ち合わせ場所まで歩く。

 これで退部は完了。部長に渡すのは、あくまでも形式的なものだ。

 ふと窓の外を見る。雲の色は梅雨の到来を告げていて、傘を持って来ていなかったことを思い出す。帰るまでに止むだろうか。ある程度雨が収まるのを待とうかどうか逡巡した。職員室横、右手側の窓から校門を見下ろす。穏やかではあるものの、そこそこの多雨が木々の葉を揺らしていた。

 雨の音に混じって、くぐもった音色が校舎の中に響いてきた。吹奏楽部の音出しだ。練習前のミーティングが終わったのだろう。上階から、女子生徒の話し声が聞こえる。声はだんだん近づいており、階段を降りてくる足音が大きくなる。咄嗟に私は職員室前のトイレに入りやりすごした。声が近づき、遠ざかって行く。パート別の練習場所であるどこかの教室に向かうのだろう。声が聞こえなくなってから辺りを伺いつつトイレを出て、私は階段を上がる。一段登るごとに私の足は重くなった。

 やめておけばいいのに、足は音楽室の方へ向いていた。

 校舎の端、四階にある音楽室。階段を一段上がる度に、ざわめきは大きくなる。

 階段を登り終え、廊下の先。その教室の扉は開いており、グランドピアノの黒が見えた。壁から首だけ出すようにして、様子を伺う。十秒としない内に人影が見え、思わず首を引っ込める。

 ほどなくして、クラリネットの音が聞こえた。耳をすます。課題曲A。管弦楽器の音に混じって足音が聞こえ、私は急いで階段を降りた。


 二階半下りたところで、下から登ってくる人と目が合った。

「あ」

 お互い、歩みを止める。部長。吹奏楽部の。私が言葉を探し出すよりも前に、部長が先に口を開いた。

「出したの? 退部届け」

 はい、と私は小さく返事をした。

「……なんてね」

 部長の表情がゆるみ私は楽になる。

「さっき先生から聞いたよ。おー、おー、っていつも通り」

「すみません、突然で」

「いいっていいて、仮入部期間なんだから。そんなに気負うことないよ」と部長。

「じゃあ、退部届けもある?」

「はい」

 確かに受け取ったよ、と部長は言った。

 私としても、音楽室まで行く間に見知った顔と会うのも気が進まなかったから、ここで部長に会えたのは幸運だった。

 これからも応援しててくれよなー、と私の肩を叩き、部長は音楽室への階段を上る。私も階下へ二、三段進んだ時、「あ、そうだ」との部長の声で振り向く。

「それで、続けるの?」

 トランペット。

 再び目が合った。さっきの緊張とは違った目。

「……わかりません」

「そっか」

 演奏、聞いてねと言い残し、部長は音楽室への階段を上っていった。

 部長と別れ、一段一段、階段を下り音楽室から遠ざかりながら、ついさっき退部届けを出しに行った時のことを思い出す。


 放課後、職員室の扉を静かに開けて、中を窺うと顧問の先生はまだ机にいた。

 私が退部の意思を伝える際、生徒の答案用紙の添削を続けながら、うん、うんと頷いていた。

 何で辞めるの、とは聞かれなかった。

 そうか、と聞かれて終わり。はんこが押され、承認される。

 結構な心構えで行ったものだったから、どうにも拍子抜けしてしまう。

 その予想が期待だったのか、恐れだったのか。自分でもわからない。誤ってガムを飲み込んだ時のような、わだかまりを胸に感じる。

 とにもかくにも、今日、私は部活を辞めた。

 引きずるような私の足取りとは裏腹に、学校中が活気に満ちている、ように見える。放課後の自由な時間とは、かくも苦痛なものだったか?

 どうにも、まだ慣れない。辞めたばかりだから、当然かもしれないけれど。

 所在無げに歩いていく。これが、何か目的があってやめたのであればまっすぐ家に帰るのも当然なのだろうが、悲しいかな、私はそういうわけでもなかったのだ。

 雨宿り、と言い聞かせてなんとなく図書室に向かう。本の背表紙を眺める。別段興味もない歴史のタイトルを目で流していると、何度もみた名前が目に入る。

 バッハ。モーツアルト。手に取りかけたが、やめておいた。

 適当な席に着き、翌日の授業の課題を取り出した。三十分だけと決めて、ペンを走らせる。

 三十分たち、問題の切れ目でノートと筆記用具をしまい図書室を出て、校門へ向かう。空の色は灰色で、心なしか街まで灰色に見えてくる。

 ただ、時刻はまだ夕刻で、日が沈むにはあと一時間はあるだろう。

 携帯の時刻表示を見る。十七時を過ぎてもいない。私は部活を辞めたのだ。

 傘を打つ雨音が、私の世界を満たしていた。




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