私は最高の喜びを胸に抱き地の底で二人と共に微笑む(4)
私の悲願が達成される晴れの日は何の前触れも無くやってきた。
その日は起きた時から何時もと何かが違った。
今日は何故か朝から心が躍る。
理由は分からずとも、今日は最良の日のなると何故か分かった。
もしかしたらと思いながらも過ごしていると昼を過ぎた時間に【塔】の前から騒々しい音が耳に聞こえて来た。
外を見る事は出来ない故に、耳を澄ませていると、人の怒号と、剣戟の音が僅かに聞こえてくる。
【塔】の前で何やら争いが起こっているらしい。
けれど、直ぐにそれも収まった。
本来ならば、その事に私は落胆するべきなのかもしれない。
争いの音とは私を助けるために【塔】に誰かがやって来た、という事なのかもしれないから。
それが鎮圧されたとなれば、私は自らの先を悲観して嘆くべきなのだろう。
けれど、私にとって争いの音が静まった事は落胆する事は無いのだ。
だって、聞こえて来た声の中にはリュナーグとカトルツィヘルのものが混じっていたのだから。
あの二人――特に逃亡中のリュナーグ――が揃って【塔】の前に居た。
つまり、それは私の望みが叶う日が来たという事。
むしろその事実に心が躍らずにいられない。
滅多に人の来なくなった【塔】に足音が響き渡る。
複数の人間がこの牢獄までやってきている。
混ざる軽い音に、足音の主が大人だけでない事も分かる。
ああ、ああ、やっと、やっとなのね。
表面上は無表情のまま、心の中では堪えきれない恍惚が渦巻く。
思ったよりも早い終焉の時に、遊学は途中で切り上げられた事が分かったが、今はそんな事どうでも良い。
かの令嬢の事すらもはや過去の事。
今、私の心は急いている。
早く、早く、愛しいアーリュルリスの姿が見たい。
心から待っていた来訪者がやってきたのは然程時間が立っていた訳でも無いのに、私には悠久にも等しい長い時間に感じた。
扉が開き、幾人の大人に弟、そして何よりも望んだ愛しい妹が部屋に入って来た。
久しぶりに見た妹は少しだけ大人びた表情をしていた。
どうやらかの令嬢と交流する事で何かしら思う所があったのだろう。
それでも妹の根幹は変わる事無く、私を見る目には未だに切り捨てられない肉親の親愛の情が宿っている。
私とってはその情が失われていない事実に胸が高鳴って仕方なかった。
「アーレアリザ=カイーザ=アレサンクドリート第一皇女殿下。皇帝陛下から貴女は毒杯を賜るようにと命が下った」
騎士が声高々に宣言する。
隣にいる侍女が持っているグラスに毒が注がれているのだろう。
血のように赤いワインとそれが注がれている豪華なグラスは最期を迎える者への餞なのだろうか?
けど、今の私にはそんな事すらどうでも良い事だった。
私は椅子から立ち上がると全員をゆっくりと見回した後微笑む。
「皇族として死を賜る事が出来る事に感謝致します」
取り乱す事無くカテーシーをする私に対して騎士や侍女達は有り得ないものを見るような目になった。
本来ならば毒杯を賜る――皇族として死ねと言われたのだから取り乱すのだろう。
特に私のような小娘ならば喚き散らしても可笑しくは無いし、騎士達もそれを覚悟していたはずだ。
だから一切取り乱す事のない私が未知の生き物に見えたのだろう。
私自身がこの終焉の舞台を整えたのだから取り乱す事など絶対に無いのに。
私の異常さにようやく気付いたのか騎士殿は青ざめた顔になるが、それでも職務は忘れていないからか、淡々と罪状が読み上げられる。
罪状を述べる声に少々の震えがある事には目を瞑った方のいいのかしらね?
「皇帝陛下の恩情にて最期の言葉と望みを告げる事を許された。何かあるか?」
「そうですわね。……では毒杯はアーリュルリスから受け取りたいですわ」
私の発言に場がざわつく。
当たり前だろう。
アーリュルリスの歳ではこの場にいる事すら異例なのだから。
其の上で、間接的に殺す手伝いをさせろと私は言ったのだ。
幾ら皇族とは言え、それはあまりに無慈悲な願いと言えた。
弟は私の視線からアーリュルリスを隠し、騎士は陛下に伺いを出す様に命を下そうとしている。
侍女はまるで私が化け物といわんばかいの視線を向けてきている。
そんな中アーリュルリスだけが冷静だった。
「そ、れは……アーリュルリス殿下が毒杯を貴女に渡さないだろうという自信から、ですか?」
「いいえ? 毒杯を賜る事に逆らうつもりは御座いませんわ。ああ、ご安心なさって? 勿論愛しい妹を殺すような事も致しません。ただ最期に愛しい妹の温もりが欲しいだけですわ」
「その結果アーリュルリス殿下の御心に傷がつく事も厭わないというのですか!」
遂に騎士が耐え切れず声を荒げる。
けれど、私は答えず微笑むのみ。
別にどうしてもアーリュルリスから毒杯を受け取りたい訳では無い。
ただ終焉はあの美しい宝石で視界を一杯にして終えたいと考えただけ。
最初から叶うとも思っていない願いだった。
このままではアーリュルリスが部屋から出されてしまうか、と別の要求を考えた時、覚悟を秘めたアーリュルリスの眸とかちあった。
「……私は構いません」
更に怒鳴ろうとしている騎士を遮ったのはアーリュルリスの静かな声だった。
「殿下!」
「姉上の最期の願いなのでしょう? ならば私は皇族として、妹として叶えたいと思うのです」
弟の前に立ち私を見据えるアーリュルリスの眸は揺れていた。
覚悟を秘めているとはいえ、やはり肉親の情は残っているのだ。
これはこれで美しいけれど、まだ足りない。
まだこの宝石には絶望が浮かんでいない。
悲しみに揺れ、覚悟を秘める眸も美しいが、まだ足りないわ。
この眸が絶望に沈み、更に揺れる姿が見たい。
けれど、それも問題は無い。
だって私は最期の言葉をまだ告げていないのだから。
微笑む私にアーリュルリスは一度だけ目を強く瞑り開く。
そこには先程までの動揺は隠れ、先程よりも強い覚悟のようなものが秘められた強い光が宿っていた。
どうやらかの令嬢に感化されたらしい。
けれど、それでも切り捨てられない情は宿っている。
揺れる宝石は何処までも美しい。
アーリュルリスは侍女から毒杯を受け取るとゆっくりと鉄格子に近づいてくる。
後ろから剣を抜いた弟もついてきている。
もしアーリュルリスに何かした途端、私を切り捨てるつもりなのだろう。
それでも私の願いは叶うかもしれないわね。
ふと、そんな事を考えたけど、経過がどちらだろうと結果が変わらないのなら構わない。
鉄格子越しに毒杯を私に差し出したアーリュルリスの震える手を私は両手で包み込む。
「ありがとう」
「姉上。……お話したい事があります」
「なにかしら?」
「貴女の忠臣であるカトルツィヘルとリュナーグが死にました」
【塔】の前で自決したとアーリュルリスは告げて来た。
あの子等らしいと私は笑う。
けれど、それはアーリュルリスにとっては意外な反応だったのだろう。
アーリュルリスの眸に悲しみと怒りが浮かんでいる。
「あのお二人は最期まで姉上への忠義に報いました。姉上を待つために先に地の底に逝くのだと。……そんな二人の事を聞いても姉上は悲しまず、微笑むのですか?」
「そうね。私があの子達の死に悲しむ事は有り得ないわ」
アーリュルリスのグラスを掴む手の力が強くなった。
目にも怒りの方が強く宿っている。
私の答えはこの子にとっては満足いくものではなかったらしい。
けれど、私にとっては全ては予定調和だったのだからこのような返答しか出来ない。
私亡き後、あの二人がこの世界で生きていける訳がない。
心の虚を普通の方法で埋める事が出来ないあの二人は私を仲介する事でようやくこの世界で異物として弾かれずにいたのだ。
そしてそれは私とて同じ事。
私もまたあの二人を仲介する事でこの世界に繋ぎ留められていた。
歪みを抱えながらも私達は三人で調和がとれていた。――それを他者が理解できるとは思っていないけれど。
「姉上にとってあの二人は忠臣ではなかったのですか?」
「忠臣? そんな風に考えた事もないけれど?」
そんな簡単な言葉で表せる事が出来る相手ではないのだ、あの二人は。
私達は世界の異物だった。
同類が偶々揃い、お互いを仲介する事で世界に馴染んでいる振りをしていた。
偶々私の位が一番高かったから主従という関係であっただけ。
別にこの子の望む答えが分からないわけではない。
この子は二人の死に対して私に動揺し悲しんで欲しいのだろう。
姉である私が少しでも人らしい温かさを持っていて欲しいと願っている。
数多の人間に対して無関心であろうと、少数だとしても心を傾け、“普通”に大事にしていて欲しい。
“孤独”では無かった証を示して欲しかったのだろう。
けれど、私とあの子達の間にそんな甘やかな優しい繋がりなど存在しない。
あるのはこの子が考えもしない重苦しい依存ともいえる繋がりだけ。
そう、そういった意味ではアーリュルリスよりもかの令嬢の方が私に近いはずだ。
だからこそ一度でも対峙していたとしたら私はかの令嬢とは根底で理解し合いながらも敵対していただろうと思う理由の一つでもあった。
私の妹がアーリュルリスで本当良かったと思う。
アーリュルリスは私とは全く違う存在だから。
最期を彩る宝石はこの子なければいけないと強く思うのだ。
「それでは、あの二人があんまりです」
「意見の相違ね。――ねぇ、私の最期の言葉は貴女に送るわ」
私は握りしめた手の上から掴んだ手に力を込めて微笑む。
「過去に私が潰した家はね。貴女を中傷し、皇族から引きずり降ろそうとしていたのよ?」
「え?」
私の言葉にアーリュルリスが驚きの声を上げる。
見上げるその眸は先程よりも揺れている。
その姿に密かに笑みを深めると、続きの言葉を紡ぐ。
「そう。どの家も貴女の事を表向き聖女と謳いながらも、貴族社会らしかぬ振舞いを嫌い、そして貴女が気に入らなかったの。そんな中でも直接手を下そうとした相手を私は次々に潰していた」
本当は政敵を潰し回っていた道化達の後始末もしていたけれど、それはあえて言わない。
だって、そうすれば私のした事は全て貴女のためだったと、貴女は勘違いするでしょう?
ほら、貴女は賢いから気づくでしょう?
どうして沢山の家が潰れたのかしらね?
どうして沢山の人が死んだのかしらね?
どうして私の手は血塗れになったのかしらね?
揺れる眸が一つの結論に達したのか、影が濃くなっていく。
ああ、賢く優しい貴女は気づいたのね。
「そ、れじゃ……わたしのせいで……」
次の言葉は怖くて紡げないのかしらね?
ああ、優しい貴女には無理でしょう。
だから私が続けてあげる。
「愚かしくも優しい最愛の妹である貴女――貴女の無邪気な振舞いによってどれだけの人が悲しんだのかしらね?」
「あ。……あ、ぁぁぁ!」
ああ! ああ! この時を待っていたの!
アーリュルリスの美しい水の眸が深く沈んでいく。
絶望に染まった眸は一等美しく、焦点の合わない不安定さが更なる美しさを与えている。
弟がアーリュルリスの異変に気づき、私の手を払おうとするが、私はそれを視線だけで制する。
これは私が皇帝から頂いた最期の言葉。
それを無暗に邪魔する事は許されない。
弟もそれを分かっているのか、悔し気な表情で身を引いた。
私は再びアーリュルリスに視線を向ける。
水底のような沈んだ眸は美しい。
けれど、それじゃ足りない。
だからもう少し私の言葉を聞いてね、アーリュルリス。
「この毒杯を私に渡せば、貴女は仇を討った事になるかもしれないわね?」
「え?」
半ば正気を失っていた彼女は私の一言に一瞬で正気に戻った。
見上げるアーリュルリスの眸に一瞬だけ希望のようなものが浮かび沈む。
今この子の中には絶望、希望、自己嫌悪が渦巻いているのだろう。
絶望一色の眸も勿論綺麗だけど、不安定に揺れ色を変える様は本当に美しく口に含んでしまいたいほど美しかった。
きっと、この宝石は私に最高の甘美な味わいを齎してくれるだろう。
さぁ、貴女は私の最期をどんな色で迎えてくるのかしら?
私はグラスから手を離し、アーリュルリスの顔を優しく包む。
アーリュルリスの後ろから弟の鬱陶しい視線を感じるけど、そんな事どうでも良い。
これは皇族としての死を許され、最期の言葉も皇帝に許された。
その約定は誰にも口を挟む事は出来ない。
だから、どれだけアーリュルリスが揺れようとも、私の口から齎される言葉がどれだけ酷いものだろうと誰も止める事は出来ない。
それが分かっているからさっきも弟は私が視線で制しただけで身を引いた。
もはや舞台に立っているのは私とアーリュルリスの二人だけなのだ。
ねぇアーリュルリス。此処には今、私と貴女しかいないの。だから本音を頂戴?
アーリュルリスの眸はこの子の内面の全てをさらけ出している。
そんな眸を私はじっと覗き込み目に焼き付ける。
絶望、自己嫌悪、そして妹と呼びかけるたびに込み上げるのだろう肉親としての情。
その全てが入り交じった不安定に揺れ光を放つ宝石。
完璧ではないからこそ美しい私の唯一の宝石。
ああ、なんて美しい宝石なのかしら。
これが見たかった。
この宝石を目に焼き付けるためだけに私はこの終焉の舞台を作り出したの。
思う存分に目に焼き付けると私は口を開く。
「貴女にだけ教えてあげるわ。私の秘密の部屋を開く唯一の言葉を」
私はアーリュルリスの耳元に顔を近づけるとこの子しか聞こえない声で囁く。
「あ、ねうえ?」
「そう、これが正真正銘私の最期の言葉。――――【愛しくも優しく、そして無邪気で愚かな妹、アーリュルリス。永久に貴女だけを愛しているわ】」
私はすっと離れると同時にグラスを奪い取る。
私の言葉に驚いていたアーリュルリスも手元のグラスが無くなった事に正気に返ると鉄格子越しにその小さな手を伸ばしてきた。
けれど、もう奥に戻っている私には届かない。
「姉上!」
そう、私だけを見ていなさいアーリュルリス。
絶望も希望も自己嫌悪も親愛も全てを孕んだ美しい海の眸を一瞬も私から逸らさず見ていなさい。
私は悲痛な声を上げるアーリュルリスに見えるように毒杯を呷る。
あら、意外と甘いのね。
死にゆく者への弔いのつもりなのかしら?
ああ、段々体が力が抜けていく。
足元から力が抜け体が崩れ落ちるのが分かる。
「姉上! 姉上!」
必死に叫ぶ声の方を向けばアーリュルリスが――あの一等美しい宝石が私だけを見ている。
ああ、なんて私は幸せなのだろう。
あの子と初めて会った時、私は自らの終焉を悟った。
一等美しい宝石に見届けられて死する事のなんと甘美なるかな。
そのためだけに今まで生きて来た。
望みが叶うかは分からなかった。
けれど、私はその勝負に勝ったのだ。
もう、なんの心残りもないわ。
私は鮮やかながらも千々に揺れる、最上にて最高の宝石を目に焼き付け、微笑むとゆっくりと瞼を閉じた。
開くことが無いと思っていた瞼が開いたのは上下左右も分からぬ暗闇の中でだった。
運悪く毒杯が効かなかったにしては私の手足は自由が利く。
一時的に仮死状態にする代物だとしたらこのような上下左右も分からない闇の中にいるはずもない。
一体此処は?
意味が分からず首を傾げていると、目の前……数歩程離れた場所が揺らぎ、人を象った。
その姿に私は更に首を傾げる。
目の前に現れたのは“私”だったのだ。
纏う衣装は絢爛豪華。
手に持つは帝国にて皇帝のみが許される剣。
つまり目の前の私は皇帝なのだろう。
“私”は私を見下している。
けれど、その眸を見て私は嗤った。
だって“私”は私を見下しながらも私を羨んでいるのだから。
そこで私は気づく。
この“私”は優しく愚かで愛しい妹に気づかず、女帝となった……“最高の多幸感を味わう事の出来ない私”なのだと。
だから死した私を見下しながらも全てに満足して死した私を羨む。
「一等美しいものに気づかず見過ごした“愚かな私”」
私を睨む目が一層強くなる。
けれど私にしてみれば「私はこんな表情もできたのね」としか思わない。
他人を羨んだ事など一度もない。
だからこんな表情も出来るのだと初めて知った。
“私”を見ても程度の感慨しか沸かないのだ。
そんな人間だなんて“私”が一番よく知っているだろうに。
心の中で“私”を嘲笑う。
「貴女は一生、この多幸感を知る事はないのね」
私は今感じている幸福感のままに微笑む。
「けれど、それを憐れむような人間ではない事は“私”が一番知っているでしょう?」
悔し気に唇を噛む“私”に笑みを深める。
「だから、貴女は一生虚を抱えて生きなさい?」
此方を見る“私”の眸に浮かんだ絶望に対しても私は何も感じない。
一等美しいものを手に入れた私にはもはやそれ以下の美しいものなど必要はないのだ。
「永遠の飢餓感を抱えたまま失せない――“愚かな私”」
私は“私”が何かを言い出す前に振り返って歩みを進める。
もはや“私”に興味など欠片も沸かない。
私の鼓動は既に止まっている。
此処が何処かは分からない。
けれど、カトルツィヘルとリュナーグが先に待っているだろう。
このまま歩き続ければ合流できる。
それとも、リュナーグの事だから、彼方から迎えにくるかしら?
それもまた良いだろう。
私は知らず知らず微笑む。
虚を埋めた美しい宝石。
同じく世界に弾かれた者達。
それだけがあれば地の底の国でも何の憂いなく過ごせる事でしょう。
そんな私に気づかなかった“愚かな私の幻影”など必要無い。
そこで、ふと、思いついた事があり、歩んでいた足を止める。
「……自身の絶望の顔など物珍しいだけだったわね」
あの二人へのお土産話くらいにはなるかしら?
私はそんな事を考えながら暗闇の中、赤茶と青色の髪を目指すため再び一歩踏み出した。