手痛い停滞
ない。
僕はこれまでの人生で不足しているものが多いと感じていた。金、身長、学歴、挙げればキリがないが、今一番必要なものは恋人だろう。
僕は5年間働いた薬品会社の営業を先月辞めたばかりだった。高校卒業と同時に入社し、最初こそは若さと勢いに任せてどうにかこうにかやってきた。だが年数が経つにつれ、ノルマ達成しない日々が続き、部長の怒号が増え、社員は減っていった。
悪くなる体調と業績を自社の栄養ドリンクを飲んで誤魔化し、我が社の薬はよく効く!これで売れないはずがない!と新興宗教のように自分も客も騙してきたがついに限界が来たらしい。
長年の過労が祟ってか、辞めた時のことはよく覚えてない。ただ辞めると伝えた時のあの部長のなんとも言えない悲しそうな顔を思い出すに、相当参ってたんだろう。
そんな訳で、長い苦しみから解放され、久しぶりの自由を満喫している僕には、無職という肩書きはさして気にならなかった。劣悪な環境だったが、幸いにして給料も良く退職金も出た上、お金を使う時間もなかった為貯金は山のようにあった。正直ありすぎて引いたくらいだ。これなら数年は働かなくても生きていけそうだ。
そんな折、ふと自分の人生を朝のまどろみの中思い返して冒頭へと至る訳だ。
自慢ではないが、僕に彼女が出来たことは一度もない。ただの一度も。自分が最高にイケてる奴だとは思ってはないが、彼女が一人も出来ないほど魅力がないとも思えない。営業で鍛えた似非スマイルもそんなに悪くないはずだ。今までは気にしたこともなかったがいい機会だ。この有り余る時間を使って彼女をつくってみよう。
それに今は三月、春だ。出会いを求めるのにこれほどうってつけの季節もないだろう。
だがその前に腹ごなししなくては。腹が減っては戦は出来ぬと言うやつだ。
時計を見ると短針がまもなく九にさしかかろうとしていた。
仕事に行っている時は五時に起きていたので、平日のこの時間に家にいることにまだ慣れてなかった。
「もう九時か…」
誰に言うでもなく呟くと僕はもぞもぞと立ち上がり洗面所に向かった。
僕は一人暮らしの癖に生意気にも1LDKに住んでいる。六畳ほどの寝室兼物置の洋室があり、その横にテレビやパソコン、キッチン等がある大きめのリビングがありそこを抜けると、玄関に繋がる小さいホールがある。僕が目指す洗面所はそのホールに面した扉の向こう側にある。
春とはいえまだ3月の朝は肌寒く、僕は毎朝洗面所まで歩きながら、引っ越そうと決意するのだが、面倒くさくなって結局止めてしまうのだった。
ヒゲを剃り、眉毛を整え、顔を洗い、歯を磨いた後、一人で飯を買いに行くには些か気取った格好に着替えた。仕事のせいで出かける機会が少なかった為か、出かけるときは必要以上にお洒落してしまうのが僕の癖になっていた。
そして姿見で自分の格好をチェックしながら、やっぱりそんなに悪くないよな、と自宅の鏡補正の自分の姿に満足したのであった。
そして所持品を確認しながら、今日は外でハンバーガーでも食べて、喫茶店に行って今後のことを考えよう。と一日の流れを軽くシュミレーションした後、僕は家を出た。