魔法使いだけが、使い魔を喚べる
「ふう…」
フィオナは黙々と夜の草原を歩く。
夜空の天頂で、まるで星々の領主であるかのように振る舞う満月の光が、フィオナの足下を明るく照らしていた。
フィオナの背後で、街の灯が揺らめいていた。
草原のほぼ中央にある、まるで伝説に登場する巨人が、遊び飽きて捨て置いたかのような大岩。
高さだけでも大人の背丈を優に超える、丸々とした灰色の巨岩である。
この街の子供達にとって、街を抜け出して大岩へたどり着き、そして心配した親達に大目玉を食らうのは半ば通過儀礼となっていたが、フィオナがこれを間近に見るのは実は今夜が初めだった。
「思ったほど、でもないかな」
小さな子供にとっては「勇気の印」とも言えるこの大岩だが、今夜の企みを実行するための目印に過ぎないフィオナにとっては、同年代の友人達から聞くほどの大きさを感じなかった。
風が強く吹いた。
寝間着のままのフィオナには少し涼しすぎる風だった。
「ううっ、さぶっ。早く始めよっと」
フィオナは、持ってきた、というよりは、抱えてきたと表す方が相応しい位に大きな本を地べたに置いた。
所々が傷んではいるが、古くて高価そうな革表紙の真ん中には「召喚術大全」というタイトルが、隅にはこの本が記されたであろう年代が記されていた。自分の両親が生まれるより随分昔の日付である。
フィオナは舞い上がった土埃を払いながら、鼻歌交じりにページをめくり始めた。
「どれにしよっかなあ」
一ページ目をめくる。
この本が、魔法使いが従える、使い魔の召喚、および契約方法を記したものである事が、古くさい文体で長々と書かれてあった。
「あーこれはいいや」
二ページ目から続く目次を乱暴にかき分ける。
若い魔法使いに適した、低級な使い魔を呼び出すための章をさらにすっ飛ばし、実績ある中堅の魔法使いに向いた、多彩な特技や能力を持つ使い魔の章も飛ばし、あっという間に最終章にたどり着いた。
「やっぱこの辺じゃなきゃね」
最終章最初の使い魔は一角の白馬である。
悪意ある者には決して捕らえる事が出来ないほどに俊敏で、どんな大きな怪我をしてもたちどころに治癒する魔法を使いこなす、地域によっては今も崇める風習が残っている神獣である。
「白い馬かあ。かっこいいけど、治癒しか使えないってのは地味よねえ」
二番目の使い魔は、天を衝くほどの巨人である。
その拳の一撃であの湖が出来たとか、あの高山は巨人が寝ている数千年の間に土が降り積もったものだ、などという逸話が残る、神話の時代の存在である。
「ちょっと大きすぎるわよね。呼び出したら家が潰れちゃいそう」
三番目は言わずと知れた竜である。
巨大な翼で自由に空を飛び回り、その鱗は鋼鉄のように固く、爪や牙は一撃で城壁すらも粉砕し、口から吐き出される炎は一息で街を灰燼に帰してしまう。
「竜、か…」
フィオナの脳内で、竜にまたがった自分が、魔法学校で自分を馬鹿にするいけ好かない奴らを追い回す光景がよぎった。痛快さに思わず口元が緩む。
「よし、竜、いってみるか!」
フィオナは近くに落ちていた木の枝を広い、「召喚術大全」に記載された魔法陣を地面に描き始めた。
とはいえ、竜を喚ぶほどのものとなると、その陣の複雑さもさることながら、大きさも最上級である。
予想以上の大仕事に、先ほどの風で感じた寒気が完全に消え失せ、むしろ汗だくになっていた。
満月は既に、天頂と地平の真ん中あたりまで傾いていた。
「はあ、はあ、はあ…」
渾身の出来である。
このまま何もせず眺めても良いくらいに完璧な魔法陣が、そこにあった。
「さーて…」
フィオナは「召喚術大全」を抱えて魔法陣の中央に立ち、次のページに記載されていた呪文を詠唱し始めた。これまで家で隠れて何度も練習したが、それでも一文字も間違えないよう、慎重に慎重を重ねて詠唱をし終える。
「…となるべし!力強き竜よ、我の前に出でよ!」
…が、何も起こらない。
「…やっぱダメ?」
フィオナは肩を落とした。
「ま、さすがに初っぱなで成功するとは思ってないけどさあ」
初っぱな以外もことごとく失敗した。
巨人も、一角の白馬も、一軒家ほどの大きさの亀も、喋る人面の鳥も、銀の狼も、半透明な猫も、意のままに動くネズミも、蝿も。
逆戻りしていく「召喚術大全」のページ。
喚ぶ対象を妥協するたびに縮んでいく魔法陣。
簡素になっていく詠唱。
薄らいでいくフィオナの意気。
溜まっていく疲労と、容赦ない睡魔。
夜が白み始めた。
「うー、そろそろ帰らないと母さんに気付かれちゃう。何か私にも喚べそうなのは無いのかなあ」
再び、風が強く吹いた。
「わっ」
開きっぱなしにしていた「召喚術大全」のページが勢いよくめくれ上がり、召喚に失敗した獣たちが黄ばんだ紙の中でフィオナをあざ笑うように次々と現れては消えていく。
「仕方ない。帰るか…」
最初に呼び出した竜のページが、さらにめくれた。
それと同時に風が止まった。
「ん?」
最後だと思っていた竜のページの、さらに次があった。
「え、竜より難しいのがあるの?」
フィオナはページを覗き込んだ。
最終章の次に、未分類と書かれた章があった。