その時、村にて
書き溜めが……
その日、日が暮れかけたダナ村は騒然としていた。
香草や果実、キノコなどの採集に出かけた一人の少年が、どれだけ待っても戻らなかったからだ。
もともと人口五十人程の小さな村であることもあって少年のことを知らないものは誰一人としていなかった。
いつも村を賑わせる少年少女三人組の一人として。
村で一、二を争う戦士の息子として。
そして、ダナ村唯一の『普通』の子供として。
森というのはただでさえ危険な場所だ。
足場は悪く、見通しの悪い森は不測の事態に陥りやすくなるので、そうすれば歩き慣れた者でさえ命を落とすことも珍しくはない。
それがダナ村の東部に広がる森――〈狭間の森〉ともなると尚更だ。
〈狭間の森〉。
それは人間の活動領域と、魔獣の生息地域である〈赤東大陸〉を、大断河川と呼ばれる海と見紛うばかりに広大な河川とともに隔てる魔の森林だ。
北からずうっと〈赤東大陸〉にまで続く巨大山脈と、南に広がる大海原を端に持つため、東西をほぼ完全に隔絶している。
この森の東部(深部)には、〈赤東大陸〉での生存競争に破れた魔獣種が落ち延び、その末に原住の動物種と交わって生まれた猛獣達が多数生息している。
人間の活動領域に面する西部(浅部)には、深部程の危険は少ないが、深部の生物が流れてくることもままあった。
故にこの森の危険度は、全体として並ではない。
現在村人達を不安にさせている少年、ルルには戦う力がなかった。
そんな少年が、普段は一時間も二時間もかからない採集からこれほどまで長く帰ってこないというのだから、村人達の心中はいかばかりか。
「村長、ルルを探しに行きましょう。 私やヴァイスさんがいれば、夜になろうとも森で動けます」
焦りを押し殺しそう言ったのは、黒く長い髪を後頭部で結んだ美しい顔立ちの青年だ。
手には様々な素材を複合して作られた小さめの弓を持ち、いますぐにでも森に入られる服装をしている。
名はロビン。
ダナ村で一番の腕前を持つ狩人である。
そんなロビンの言葉に、村長と呼ばれた初老の男性は顔の皺を深め、重々しく頭を振った。
「少し待て」
そう言ってロビンを諌めた村長に、また別の方向から声がかけられる。
「待てといったってな、ダグザ」
砕けた口調で二人に近付いてきたのは、それとは裏腹に厳しい外見をした、これもまた初老の男性だ。
口の周りから顎全体にかけて白髪混じりの無精髭を蓄え、髪の毛を後ろへ撫で付けたゆえに顕になった額と左頬には目立つ傷跡が残っている。
その風貌もさることながら、獲物を狙う猛禽を思わせる程に鋭い目付きは男をとてつもなく獰猛に見せた。
おそらく、肝の小さい人間ならばただ一瞥されただけで恐れ慄くことだろう。
先ほどロビンに名前を挙げられたヴァイスという戦士だ。
しかし、その顔に慣れ切った二人は意に介すはずもない。
「キアヌのガキが言ってたが、獣どもがなにやら慌ただしかったらしい。 森の奥から何か出てきやがったかもしれねぇぞ」
それでも村長は頭を縦には振らなかった。
それを見たヴァイスはため息をついて言った。
「お前の力は知ってる。 だがそいつは絶対でもなかろうよ。 何かあってからじゃおせぇぞ」
ダナ村の長であるダグザも、例に漏れず『特異能』を持っている。
ある理由からダグザは『特異能』の使用を極限まで抑えているが、村人の危機にまで自分のわがままを押し通すようでは村長など任されてはいない。
それゆえヴァイスはダグザが『特異能』を使っていると判断した。
ダグザの持つ『特異能』。それは『真言』と呼ばれる、いうなれば超直感ともいうべき力だ。
これを使ったダグザは、あらゆる選択において、最適な一手をうてるようになる。
まさに神の啓示の如き的中率を誇るその力は、使いようによっては強大ではあるが、『特異能』の判断にただただ従うのは、自らの意思を蔑ろにしているとしてダグザは『真言』を使用することを制限していた。
さらに、あくまで『的中しやすい』というだけで、絶対的な判断でないとう曖昧さもダグザが使用を躊躇する理由の一つだ。
ダグザの持つ『特異能』と、その事情を知っているからこそ、ヴァイスやロビンを筆頭とした村人達は独断専行せず、今すぐに森へ飛び込もうとする己の身体を抑えることができていたのだった。
「だいたい、そろそろエウリスがやべぇ。 ほっといたら一人でも森に突っ込むぞアイツ」
自分の息子の身を案じるのは当然だ、と思ったダグザではあったが、エウリスは攻撃的な『特異能』を持つとはいえ森を庭とする狩人ではなかったので、今から狭間の森に入ってしまうとエウリスまでもが危険に晒されるとして、ダグザはそれを許さなかった。
「ロビン。 エウリスを抑えておけ」
「……了解。 しかし、あと三十分待ってもルルが戻らなかったときは、行かせてもらいますよ」
ダグザの指示を聞いたロビンは妥協点を探り出し、そう言い残して走っていった。
「…………」
「……お前も心配してんなら、探しに行けって言えばいいだろうが」
苦々しい表情で東を睨むダグザに、呆れたようにヴァイスが声をかけた。
「儂も探しに行きたいとは思っている。 だが、それと同時にその必要はないとも思っている」
自らの背反した思考に辟易した様子のダグザを見てヴァイスは苦笑し、同じように東をみた。
ヴァイスの生まれるはるか昔から顔を覗かせなくなった太陽の、それでも雲を透き通って薄暗く地を照らしていた光はもはや東方には届いておらず、夕闇が這い出してきている。
「……『見て』いるか? ヴァイス」
「あたりめぇだ。 限界まで『広げてる』」
ヴァイスが持つ『特異能』は、『天眼』と言い、自らの視界を天に置く力だ。
自身の周囲数メルからはるか遠く数千メルまでの範囲を俯瞰で観測することができるこの力は、斥候としても、そして近接戦闘における補助としても優秀な力であった。
そんなヴァイスの『天眼』が、異変を捉えた。
「ん? こいつぁ……」
「どうした?」
何かを見つけた様子のヴァイスに、一縷の望みをもってダグザが問かける。
「獣共が逃げ惑ってやがる。 何かに怯えてやがんのか……?」
「なんだと?」
先ほどヴァイスが言っていた『森の奥から出てきた何か』が村を目指しているのかと、ダグザはすこし表情を固くした。
今そんなものに構っている暇はないのだ。
「何から逃げている?」
「わからねえ。 うまいこと木の葉で隠れてやがる……と、ん? ……なんだありゃあ」
ヴァイスが戸惑いの声をあげた。
若い頃から戦いに明け暮れ、今では並大抵のことでは動揺すらしなくなった百戦錬磨の男のそのような声など、ここのところ聞いた覚えはないと、ダグザは怪訝に思って尋ねた。
「どうした? なにがあった?」
少し間をおいてヴァイスが答えた。
それは長年の間〈狭間の森〉という危険地帯のそばにある村で暮らしていたダグザをして驚かせるものだった。
「……銀熊だ」
「何だと!?」
ダグザが声を張り上げた。
ダグザは、普通森の奥に縄張りを持つという銀熊を実際に見たことはない。
ダグザが持つ『真言』の選択は、刹那的な状況変化にはついていくことができないので、彼は戦いを苦手としていた。
ゆえに森の奥へなど行ったことがなかったからだ。
だがその脅威は知っている。
ダグザがまだ若かった頃、狩りの途中で銀熊と遭遇して辛くも勝利を収めた、その時最高の戦士だった男の武勇伝を何度も聞かされていたからだ。
森の奥に縄張りを持つ銀熊が、そこからわざわざ出てきたということには何か理由があるとしか考えられないが、銀熊ほどの生物となれば縄張り争いに負けたなどとは考えにくい。
魔獣種が持つと言われるような特殊な力などは何一つ持たないが、ただ殴る、噛む、のしかかるといった行為が必殺となるような生物だからだ。
となると、食料となる動物などが何らかの理由で減少し、飢えを満たすために森の浅部に現れたのだろうとダグザは見当をつけた。
(だとするとまずいことになる……!)
ただでさえ強力な猛獣が飢えにより凶暴化している可能性があるのだ。
なれば今すぐ村の戦士たちを掻き集めて迎撃に備えなければならない。
村の長としての仕事をまっとうしようとするダグザの耳に、くくくと押し殺したような笑い声が飛び込んできた。
横を見るとヴァイスが心底愉快そうに笑っていた。
「笑い事ではないぞヴァイス。 早く準備を整えなければ」
そんなダグザの声はヴァイスには届いていなかったらしい。
すぐにヴァイスは決壊し、その笑い声が村中に響き渡った。
「クク……クハハハハ! なんだありゃあ! なぁにしやがったあのガキ! クハハハハハ!」
腹を抱えて笑い出したヴァイスに何事かと村人達が集まってきた。
呆然としていたダグザはヴァイスの言葉を思い出し、尋ねた。
ヴァイスの言葉で、銀熊出現によって頭の片隅に追いやっていた少年のことを思い出したのだ。
「……ガキだと?」
ダグザの予感はすぐにヴァイスによって確信に変わった。
「遅ぇ遅ぇと思ってたら、あんなもんとヤリあってやがったのか! どうやって仕留めやがったあのガキ! はははは!」
鉛色の不安に苛まれていた村人達は、それを聞いて皆一様に安心し、そして何やらとんでもないことを成し遂げたらしい少年を迎えるべく、ヴァイスの目線の先へと向かった。
♢♢♢
「力はあっても、体力がついたわけじゃないんだな……」
のそりのそりと這うような速度で銀熊を運んでいるルルが搾り出すように言った。
それを聞いて、大牙を銀熊の身体に食い込ませていたグラトニアスが、そのままで掌部分の口だけを器用に動かして悪態をついた。
『アたりメーだろアホ。 チカラとタイリョクはベツモンだ。 テメーはなんのハナシをキいてやがったんだ』
「理解してたつもりだったんだけど……奥が深いんだな……」
『ウルセェよ! オマエ、さっきオシえてやったオレサマのチカラのセイゲンすらワスれてんじゃねーだろーな』
呆れた様子のグラトニアスの言うことに、ルルは先ほどまでの会話を思い出した。
「お、覚えてるよ。 えっと、まず食べられるのは三つまで」
自信満々に答えるルル。
「それと……えっと……」
早速詰まったルルにグラトニアスが助け舟をだした。
『ミッつクったら』
「あ、三つ食べたら消化するまで何も食べられなくなる! んで……あれ?」
『ショウカしきったら〈付与〉のコウカがウシナわれる、だタコスケ! サンザンじゃねーか!』
呆れを通り越して怒り出したグラトニアスに、ルルは肩を竦めた。
「ごめんごめん。 もう覚えたからさ」
『チッ、アホなのかそうじゃねぇのかよくワかんねぇヤツだぜ』
そんな会話をしながら、休み休みに村へと帰るルル。
初めてよ戦いの余韻と、『特異能』が発現した喜びに浮かれているせいで、日が暮れかかっていることも銀熊の匂いに周りの獣達がざわついているのにも気づいていない。
「ふう……ちょっと休憩」
銀熊の死体を木にもたれかからせて体力の回復をはかる。
少し距離を置いて改めて銀熊の死体を見、嬉しそうにグラトニアスに話しかけた。
「ふふ、これだけあればしばらくは肉に困ることはなさそうだなぁ……父さん達もいっぱい捕まえてるだろうし」
『ほぉ、オマエのオヤジはツエぇのか?』
「強いよ! 猛獣だなんて呼ばれてんだから」
『ヒトとしてどうなんだよソレ……』
グラトニアスの脳裏には、毛むくじゃらで牙を剝いた筋骨隆々の大男の像が浮かんでいるが、地面に腰をおろし、地面を見つめて呟くルルはそんなことには気付かなかった。
「ふふ、俺だって『特異能者』だったんだ。 ちゃんと父さんと母さんの子供だったんだ……」
『……ん? ナいてんのか? クソガキ』
声を震わせるルルに、グラトニアスは茶化すように声をかけた。
「泣いてなんかないよ。 ただ、ウグッってなっただけ」
『ヨくワかんねぇことイってんなよ……』
妙に湿っぽくなった空気を振り払うように声を張ったルルは銀熊を再度持ち上げた。
そして身体に力を込めなおすと、残り少しとなった村への道を歩き出した。