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しばし待たされた後、源蔵は三人の男を連れて庭にやってきた。体格も年恰好もばらばらではあるものの、皆が清五郎のような剣客風である。藤次の言葉は的確だったと言えよう。
清五郎は注意深く三人の男を観察する。一定水準の力量を超えれば、戦わずとも、身のこなしや立ち振る舞いで敵の力量を推し量る事も可能で、清五郎はその領域に達しているのだ。
(ふむ)
実力に順番をつけるとすれば、真ん中、左端、右端……といった風になるだろうか。達人とも呼ばれる真の実力者は、己の力量を隠すのも巧みなので、油断は禁物なのだが。
少なくとも、全員が一定の力量を持っている事は確かなようであった。一方の男達も、清五郎を値踏みするような視線を一瞬で緊張へと変える。彼らが油断できる相手ではないとすぐさま察知したようだ。
(これは心してかかった方がいいな)
清五郎がそう己を戒めると、源蔵が口を開く。
「こちらのお方が清五郎様です。皆様のお仲間になりえるか否か、試していただきたく存じます」
「清五郎です」
名乗って頭を下げると、五人の男も返礼する。それが終わると六人の剣士にそれぞれ、竹刀という竹で作られた刀が差し出された。
「憲吾様から戦っていただきましょう」
源蔵がそう言うと左端の小柄な男が一歩前に出る。憲吾は竹刀を中段に構えた。
(正眼の構えか)
それを見た清五郎は右足を少し引いて剣先を後ろに下げ、竹刀を右脇の下に取る。
「脇構えか?」
皆が怪訝そうな顔をしたのも無理はない。脇構えとは本来、剣の長さを知られぬ為に用いるものだ。長さが同じ竹刀を使っての手合わせに、使う意味などあるとは思えない
「この方が剣を振るいやすいのでね」
清五郎が不敵に言うと、憲吾は無表情に戻る。その自信たっぷりな態度に苛立ちと不信感を覚えたのだ。もし己を侮っているのであれば、後悔させてやろう。そう思い竹刀の柄を握りしめる。
相対する両者の表情は対照的であった。清五郎は悠然としてほどよく力が抜けているのに対して、憲吾の方は強張っている。憲吾は剣先を揺らしながら、清五郎の様子をうかがうが、なかなか切りかかろうとはしない。清五郎に隙がないのではなく、隙がありすぎるように見えるのだ。一向に動こうとはしない相手にしびれを切らしたのか、憲吾が先に動く。
「いやああ!」
烈昂の声を上げながら足を踏み込み、左肩を狙って剣を振り下ろす。その次の瞬間、清五郎の体がぶれたように見えるや否や、憲吾の頭部に衝撃が走った。清五郎は憲吾の剣を紙一重で避け、頭部を打ったのである。
「お見事」
源蔵がうなり、他の者も短くうめいたほどの鮮やかさだった。清五郎が一例をすると憲吾も、呆気にとられた表情のまま応じる。
「清五郎様、お強いですなぁ」
藤次が興奮してそう褒め称えるが、清五郎としては複雑だ。憲吾の腕はそうでもないというのが本当のところで、その相手を倒したからと言って大きな顔をするには、剣士としての矜持が邪魔をする。そんな清五郎の態度をどう見たのか、源蔵が両手を二度叩いた。
「茂吉では荷が重いでしょうな。弥助、胸をお借りしなさい」
そう言われて前に出てきたのは、真ん中の男である。源蔵は三人の実力をきちんと把握しているようだ。指名された弥助はやや緊張した面持ちで、憲吾と同じく正眼の構えを取る。それを見た清五郎は、今度は腕をだらりと下げて、剣先を下に向けた。
「地の構え?」
「清五郎様は、奇剣の使い手なのかもしれぬな」
一人ごちた憲吾に対して、源蔵はそう言う。「奇剣」というのは、奇をてらった邪道の剣という意味である。剣において正道と言われている構えは、正眼の構えを始めとする「中段」と、天の構えなどの「上段」の二種類だ。どちらも取ろうとはせぬのだから、そう誤解されても無理はない。
源蔵の言葉がどう作用したのか、弥助は落ち着いた表情になる。清五郎は目ざとくそれに気がつき、感心した。
(たった一言で落ち着かせたなら大した者だが……)
少なくともそこらにいる凡百の輩には不可能であろう。源蔵はやはり油断がならぬ人間かもしれぬ。そう思いつつ、清五郎は弥助と睨みあっている。清五郎の見立てによると、憲吾よりもずっと隙の少ない構えで、一介の町民だとはにわかには思えぬ。憲吾が先にしかけてあっさり打たれたところを見た後だからか、弥助は清五郎の目を見ているだけで動こうとはしない。
両者が睨みあったまま、じりじりと時間は経過していく。
(このままでは埒が明かぬな)
清五郎はそう判断し、わざと隙を作る。対峙した直後であれば、弥助も誘いと判断して乗って来なかったに違いない。
しかし、いい加減焦れ始めてもおかしくない時間が経過していただけに、乗ってしまった。弥助の剣は空を切り、脛に衝撃が走る。
「お見事」
源蔵は再びそう言い、勝敗は決した。弥助は悔しそうな顔をして引き下がる。まずは第一段階は突破したと言ったところか。清五郎は軽く息を吐き、源蔵に問いかける。
「俺は合格かな?」
「はい」
源蔵は即答した。
「それほどの腕前でしたら、是が非とも雇いたく存じます」
淡々として言う源蔵の顔を見て、清五郎はどうするべきか迷う。しばし考えた後、口にする。
「お主や藤次は立ち会わずともよいのか?」
「はて、どういう意味でございましょうか」
源蔵は見事にとぼけたが、藤次は体を一瞬だけ震わせてしまった。それで清五郎は己の予想が当たっていたと確信を抱く。そして己の腹を明かす事にした。
「俺が殊更奇をてらった構えをしたのは、お主らの反応を見る為だ。刹那のごとく短い間だが、俺の隙を探ってしまったな?」
そう語りながら、不意打ちを警戒すべく集中している。清五郎が口を閉じると沈黙が包む。清五郎が脇構えや地の構えを行ったのは、自分や藤次の反応を見る為だったと知り、衝撃を受けたのだろうか。無表情になった源蔵を、注意深く観察する。
やがて源蔵は大きく息を吐き出した。何か諦めたような表情で。
「参りました。かくなる上は、真実をお話しましょう」
「元締め!」
「おいおい」
「構わないので?」
源蔵の言葉に藤次達は驚き、複数の反応を示す。そんな男達に源蔵は頷いて見せる。
「構わんさ。清五郎様はまだ本気をお見せになっていないようだし、頭も勘も悪くないようだ。そういった御仁に仲間になって頂ければ心強い」
一旦言葉を区切り、清五郎を見る。真っ直ぐと澄んでいて力のあるまなざしだった。
「ここでは誰が見ているか分かりませぬ。私の部屋へ」
源蔵はそう促し、家屋へと入っていく。清五郎は迷ったが、後に続く事にした。悪党の目と言うのは、欲で濁っているものだ。源蔵達のはそうでないばかりか、驚くまでに澄んでいる。恐らく悪事ではあるまいと判断したのだ。
(もし、俺の見込み違いだった場合は……)
血の雨が降るだろう。源蔵、藤次、憲吾、弥助は一対一ならば勝つ自信があるが、全員を同時に相手取るとなるとどうなるか判断できぬ。清五郎は部屋に入ると戸のすぐそばに腰を下ろす。露骨なまでの警戒に、藤次らはやや面白くない表情になるが、源蔵がそれを目で制した。
「清五郎様にしてみれば、一歩間違えれば敵に囲まれた状態となる。警戒なさるのは当たり前だよ」
その落ち着きぶりが清五郎にとっては不可解だ。
(こいつ、よほどの修羅場をくぐってきたのか……?)
一体ただの町人風情がどうすれば、これくらいの落ち着きと貫禄が身に着くというのだろうか。清五郎と源蔵には三間(約五.五メートル)の距離があるが、清五郎にしてみれば刹那で詰められる距離である。
だが、それを態度には出さぬ方がよいと判断した。これほどの相手ならば、ささやかな変化でも情報として捉え、己の判断材料とするであろう。ただでさえ不利なのに、これ以上不利にする訳にはいかぬ。
源蔵はそんな清五郎の態度を見て、「ふむ」と一つ頷いてから慎重に問いかけてくる。
「清五郎様は処刑人という存在をご存知でしょうか?」
「ああ。風の便りに聞いた程度だが」
清五郎は頷く。
処刑人。法では裁くのが困難な悪党を天に変わって「処刑」している、闇の世界に生きる者達だという。善良な人々には密かな人気があるものの、当然公儀からは目の敵にされている。
「お主らがそれという訳か?」
「はい」
源蔵が頷き空気が変わった。憲吾や弥助らはもちろん、藤次も普段とは別人のような鋭い目で清五郎を見ている。
「清五郎様にも加わっていただきたく存じます」
「それは構わぬが、詳しい話を聞かせてもらえるのだろうな?」
「もちろんでございます」
源蔵は説明を始める。彼がこの地における「処刑人」の元締めであり、藤次や弥助が処刑方、憲吾達が斥候方だという。
「相応の金銭は頂いておりますが、依頼者の無念を本人に代わって晴らしているのです。お上のお裁きが正義であるならば、わたくし達もまた正義であると自負しております。日の光を浴びてはならぬ、闇の正義とでも申しましょうか」
「ふむ」
清五郎は感銘を受けなかった。所詮、殺しは殺し、犯罪は犯罪であろう。罪なき人々を殺すのか、人の道から外れた悪党を殺すのか。違いはそれだけである。
「俺としては、妻を泣かせる事さえなければ別に構わぬ」
固唾を呑んで返答を待つ男達に、清五郎はそう答えた。
「それでは?」
表情を輝かせた源蔵に頷いてやる。
「よろしく頼む」
清五郎がそう言って軽く頭を下げると、張り詰めていた空気が弛緩した。
「こちらこそ」
源蔵が頭を下げたのを皮切りに、他の男達も一斉に頭を下げる。
「申し上げるまでもないと思いますが、くれぐれも奥方様には秘密にして下さい」
「ああ」
清五郎は言われるまでもないと頷く。「処刑人」は正義を謳ったところで所詮は犯罪である。むやみに人に知られてはまずい。ましてや雪に言えるはずもなかった。
「何かあれば藤次を介して知らせます」
「ああ」
腰を上げ引き上げる清五郎に源蔵はそう言って別れた。
奇妙な事になったものだと清五郎は思う。
(処刑人か……)
まだ捕まった者がいないので、どういう風に組織され、運営されているのか、不明瞭な事ばかりである。清五郎が追及しなかったのは、新入りが尋ねても教えてもらえるはずがないと思ったからだ。まずは割り振られる仕事を堅実にこなし、信用を勝ち取っていくことが肝要であろう。源蔵が本当に元締めかどうかすら、分からないのだ。ただ、豪商「梅屋」の主人ともあろう男が、賭場を開き、貸し元の真似をしていた理由にはなっているように思える。
(とりあえず、手配師のところに顔を出すか)
処刑人はその存在上、仕事が来るのは不定期であろうし、大っぴらに収入を使うのもまずい。出所が不明な金銭というのは、疑いを持たれる原因になるのだ。
「元締め、本当によかったのですか?」
源蔵にそう問いかけたのは藤次である。他の者達は何を言わなかったが、全員が藤次と似たような表情だった。
「うむ。清五郎様は腕が立つし、頭も悪くはない。味方に引き入れて、損はないだろうさ」
源蔵は清五郎がいた時とは打って変わり、乱雑な言葉で答える。
「しかし、裏切られたりしませんか? どれくらい信用していいものか……」
彼らの不安はそれにつきると言ってもよい。清五郎はひとかどの剣士と言っても、所詮よそから来た流れ者だ。何かあれば彼らを見捨てるどころか、密告くらいはしかねない。そういった心配があるのだった。
「密告だけで奉行所が動いたりはしないさ。わたしはまっとうな商いで、信用を積み重ねているしね」
源蔵の言葉に嘘はない。材木問屋「梅屋」はこの地を代表する商家だし、周囲の評判も悪くはなかった。密告一つで捕縛しにきたりはしないだろう。
「それに清五郎様は、わたしに何かあった方が困るさ」
清五郎が住む長屋の所有者は源蔵である。今、清五郎がやっている仕事も源蔵のところのものだ。源蔵が破滅したりすれば、清五郎は住む場所と仕事の二つを同時に失ってしまう。あの剣士はそれが分からぬほど愚かではないし、それより正義感を優先させる向こう見ずでもない、と源蔵は見ている。
「独り身ならばまだしも、よくできた奥方様をお持ちだしね」
雪がいる限り、清五郎は手足に枷をはめられているようなものだ。藤次から伝え聞く限り、本人はそれを知ると自害しかねないような人柄のようではあるが、別に源蔵達が何かをする必要はない。仲睦まじい夫婦である限り、清五郎が取れる選択肢の幅は自然と狭くなるのだ。
「まあ、油断は禁物だがね。藤次、お願いするよ」
「はい」
藤次はやや強張った表情で頷く。
清五郎は鬱屈とした気分で帰路についていた。手配師のところに顔を出したものの、
「ちょうどいいものはありませんね」
とそっけなく言われてしまったのである。清五郎としては選り好みするつもりはないのだが、手配師としてはそういうわけにもいかないらしい。
(なまじ剣をかじったせいで……)
そういう八つ当たりめいた気持ちが湧きあがってきたものの、雪と一緒になれたのは剣の腕のおかげだ。そう思えば、頭は一気に冷え込む。そして雪の顔が見たくなった。
(相変わらず甘ったれた男だよ、俺は……)
己が情けなくなり、大きく息を吐く。雪は今頃内職をしているだろう。新しい職がなかったと言っても、きっと笑顔で励ましてくれるに違いない。ならばせめて、まともな顔をして帰りたかった。ただでさえ苦労させているのだから。
町をぶらぶらと歩き、心を落ち着かせてから家へ戻る。
「帰ったぞ」
「お帰りなさい、あなた」
清五郎が戸を開けると雪は驚いた顔をしたが、半瞬にも満たぬ間に消えてしまう。縫い物を止めて立ち上がり、戸のところまで出迎えてくれる。
「大家さんはどんな御用だったのですか?」
「ああ、この長屋の所有者に引き合わせてくれたよ」
「まあ」
目を丸くする妻に対して、清五郎は指示を出す。
「すまぬが水をくれないか?」
「はい。ただいま」
雪はすぐさま水を入れる為、奥に引っ込んだ。清五郎は草鞋を脱いで腰を下ろす。そこに水が入った湯飲みが差し出される。
「ありがとう」
清五郎は一言を礼を言って水を一気に飲み干す。ぬるくて美味いとは言いがたがったが、喉が渇いていたので気にはならなかった。空になった湯飲みを手渡し、物問いたげな妻の顔を見る。
「不定期ながら仕事を用意してくれるそうだ」
「それはよろしゅうございました」
笑顔で喜んでくれたが、その表情には一抹の不安がある事と清五郎は見抜いた。
「心配するな。無理はせぬ」
安心させようと笑いかけると、雪はぎこちないながらも頷いてくれる。清五郎が危険な橋を渡りそうである事を、うっすらと気づいているらしい。女の勘であろうか。それでいて言葉にせぬのは、清五郎が先手を打って釘を刺してしまったからだろう。雪の立場としては、夫が心配するなと言っているのに、心配する言葉を口にする訳にはいかぬ。清五郎は己の卑怯さを自覚しているものの、これ以上説明はできぬのだ。今でもぎりぎりであろう。
「雪、今宵はどこかに食いに行かぬか?」
「あなた……」
雪は驚いて右手を口に当てる。無理からぬ事だと清五郎は思う。実入りがいいとは言えぬ暮らしをしてきて、外で食事をする事などほとんどなかった。雪もそれでよいと思ってきて、不満をこぼした事などない。夫が稼ぎがないくせに派手な生活をしたがる男でなくてよかったと、心の底から感謝しているのだ。そんな妻の心情を察したか、清五郎は微笑みかけながら白くて細い両手を
握りしめる。
「そなたにはいつも苦労かけているからな。たまにはよいかと思うのだ。一度外で食ったくらいで、蓄えはなくならないだろう?」
「は、はい。それはもう……」
蓄えはならば実はそれなりにある。夫の仕事は隔日だし、己の内職も不定期なので、急に収入がなくなっても困らぬよう、こつこつ励んでいたのだ。それを知らぬ夫ではないはずだと、雪は訝しがる。
「だめか?」
「いいえ」
雪は少し思案した後、夫に従う事にした。おそらく何かあったのだろう。それも己にも言えぬような事が。そう推測したのである。このあたり清五郎は分かりやすいと言うか、雪は自分の夫の事をよく理解しているのだが、肝心の清五郎自身は今一つそれを理解してはいない。
「参りましょう。支度をいたします」
「ああ」
清五郎は少しほっとした。そして少し後悔もしている。妻に気晴らしをさせてやろうと思ったものの、実のところ心労の原因を作ってしまったのではないか。そういった危惧が浮かんできたのだが、今更であろう。
身支度を整えた雪に対し、清五郎は何か声をかけようとしたが、とっさに言葉が出てこなかった。
「すまん。褒めたいのだが、そなたが美しいのはいつもの事だしな。いつもより綺麗かと言うと、いつも綺麗すぎるしな」
「まあ、あなたったら……」
夫のしどろもどろな弁明を聞いて、雪は頬を赤くしてうつむく。
「と、とにかくそなたは綺麗だ。うん、特に化粧などしなくともな」
「あ、ありがとうございます。でも私が綺麗でいようと思うのは、あなたの為なのですよ」
「あ、ああ。ありがとう」
初々しいやり取りが始まる。夫婦となってそれなりの歳月が経過していると言うのに、なかなか新婚の空気から脱却できない二人であった。このまま睦み合っても始まらぬと思い、清五郎は雪の手を取り「行こう」と声をかける。雪は一つ頷いただけで逆らわずに歩き出した。
表通りに出て少し歩けば、いくつかの屋台が出ている。
「何にする?」
清五郎は妻に尋ねた。雪は思案顔であれこれと考えていて、すぐには返事をしない。二人は銀銭を持ってきているから、多少なりとも贅沢はできる。なかなか返答ができぬ妻に申し訳なさを感じつつ、清五郎はため息をついて己の意見を言った。
「まずは蕎麦を一杯ずつ、それから鮨を食おう。構わぬか?」
「は、はい」
雪はどこかほっとした顔で頷く。清五郎に決断してもらったからだが、清五郎にしてみれば己の稼ぎの少なさが原因に思える。だが、今はそれを口にしはしない。せっかく食べに来たのだから、楽しい時間をすごしたいのだ。
二人はまず蕎麦の屋台のところへ向かう。
「親父、かけ蕎麦二杯」
「はいよ。銅銭四枚ね」
屋台の親父は、清五郎が腰に刀を差しているのを見て少し驚いた顔をした。刀はまともな物であれば金銭数枚はするからであろう。が、すぐに笑顔に変えて応じる。清五郎が銅銭を払うと作り始めた。若夫婦は屋台の前に並んで待つ。
やがていい匂いが漂ってきて、熱いつゆをかけられた蕎麦が入った器が二つ、並べられた。蕎麦好き達の間では「もり蕎麦」と並んでよく食される食べ方である。
「いただきます」
二人は声を揃えてあいさつをし、同時に食べ始めた。蕎麦をつるつるの流し込み、口の中でゆっくりと味わう。熱いつゆと絡み合った蕎麦の美味さが、二人の口の中に広がる。自然と「はふはふ」と声が漏れた。どちらも無言で蕎麦をすすっていく。やがて清五郎は食べ終えるとつゆも飲んだ。それを見ていた蕎麦屋の親父は、目を丸くして唸る。
「いやー、旦那、随分美味そうに食ってくれましたね。それだけ美味そうに食ってくれるなら、蕎麦屋冥利に尽きますよ。よければお代わり、銅銭一枚でいかがですか?」
銅銭一枚ならば半分の値段ということになるし、鮨一貫分だ。だいぶ得になる。雪の方をちらりと見ると、蕎麦を飲み込みんで小さく頷いたので、清五郎は注文する事にした。
「ではお代わりを一杯ずつ頼む」
「毎度ありっ!」
親父は威勢よく言うと蕎麦を作り始める。そして雪はようやく食べ終え、清五郎に小さく耳打ちしてきた。
「よかったですね、あなた」
「ああ。こういう時もあるのだな」
己が作った物を美味しく食べてもらうのが喜び、という料理人はそれなりにいるが、実際にそういった人物と遭遇する例はあまりない。金銭が絡んでくれば、自ずと利益を追求する者は増えてしまうのだ。清五郎はそれが悪いことだとは思わぬ。だからこそ、今日のようにいざ巡り合えると、嬉しさが増すというものだ。
「へい、お待ち!」
親父は声をかけると蕎麦をそれぞれの容器に入れてくれる。清五郎は銅銭二枚を財布から取り出し、親父に手渡す。
「毎度!」
そう言って親父は熱いつゆをかけ直してくれた。清五郎と雪は、再び蕎麦を堪能する。やはり言葉は何もない。美味い物を食べる時、出てくる言葉を持ち合わせていない二人だった。そんな夫婦の様子を、蕎麦屋の親父は満足そうに、そして幸せそうに見ている。
それにつられたのか、はたまた匂いに誘われたのか、町人風の装いの男がやってきて、かけ蕎麦を注文した。雪が端へ動き、清五郎がその横に詰める。男は清五郎の隣に並ぶ。客が入り始めたのは蕎麦屋ばかりではない。通りに出ているあちらこちらの屋台からいい匂いが漂い始め、客が入り始めていた。すっかり夕食時であり、通りは朝や昼とはまた違った顔を見せている。
「馳走になった」
「ご馳走様でした」
清五郎は雪が食べ終えるのを待ち、二人仲よく辞去する。すると列を作って待っていて二人組の男が、清五郎達がいた場所に移動した。それでもまだ数人の男女が待っている。なかなか繁盛していると言えそうであった。
(それも道理だな)
清五郎は蕎麦屋が流行っているのを当然だと思う。彼が味わったかけ蕎麦は絶品で、蕎麦好きならば並んでも食べたいと考えても不思議ではない。蕎麦好きでなくとも喜んで食べそうだと思うのは、さすがに贔屓かもしれぬが。
「雪、鮨は入りそうか?」
清五郎は三歩後ろからついてくる妻に声をかける。かけ蕎麦をお代わりしたことによる、妻の腹具合を気にしたのだ。問われた雪は伏し目がちに答える。
「申し訳ございませぬ。蕎麦のお代わりで……」
「やむを得んな」
元々雪の食は太くはない。蕎麦二杯で満腹になってしまっても仕方のないことであろう。清五郎はまだ入るのだが、二人で食べに来たと言うのに、己だけ鮨をつまむというわけにもいかぬ。それを承知しているからこそ、雪はすまなそうな表情をしているのだろう。
「振り売りも来ているようだから、明日の為に何か買って帰らぬか?」
「はい。何がいいでしょう?」
雪は既に献立を考える妻の顔になっていた。それを見て清五郎も思案する。何でもいいのだが、そう答えるのが一番妻を困らせると知っていた。
「そうだな、貝はどうだろう?」
清五郎がそう言ったのは、遠くで「あさりーしじみー」という声が聞こえているからである。その声を聞いて久々に貝のみそ汁を食べたくなったのだ。
「それは構いませぬが」
雪には聞こえてはいないらしく、やや困惑した表情になる。剣士としてそれなりである清五郎は、聴覚も常人よりはずっと優れているのだった。人の喧騒の中、振り売りの声を聞き分けることは難しくないであろう。
「うむ。こちらだ」
清五郎は妻の手を取って歩き出す。夫の聴覚が優れていることを知る雪は、抗いもせずに続く。
「しじみーあさりー」
少しずつ声が大きくなってくる。ここまで来ると雪にも聞き取れる。そしてそんな二人の様子を、藤次が見ていた。長屋のところから二人を尾行していたのである。彼は「監視人」として清五郎の様子を密かに見ているのだ。と言っても清五郎の裏切りを心配したのではなく、普段と異なった態度になったりして、妻女の雪に気取られぬか、ということを危惧したのである。
(この喧騒の中で振り売りの声を正確に聞き取るとは……)
その藤次は清五郎の聴力に驚きを隠せないでいた。聴力が剣の腕と関係あるかどうか、彼には理解できぬのだが、清五郎が非凡な存在であることの証にはなっていると言えよう。本音を言えばもう少し近づいてみたいところではあるものの、腕の立つ者は尾行にも敏感なものだ。これ以上近づいては危険であろうと判断する。
(変わった様子は見られぬし、一安心と言ったところかな)
藤次はそう判断し、こっそりと引き返すことにした。清五郎の方に問題がなければ、よき付き合いをしたいのである。
清五郎と雪は振り売りから貝を買って長屋へと足を向けた。
「よきしじみが手に入りましたね」
嬉しそうに微笑む雪に対して、清五郎は小さく頷いただけである。
(どうやら尾行は解かれたようだな)
と考えていた。清五郎は尾行されていることに気づいていたのである。態度に出さなかったのは、尾行している者から敵意や悪意といった者が全く感じられなかったからだ。もし藤次が悪意を持っていたのであれば、源蔵達と清五郎との間で破局が訪れていたであろう。
もっとも、
(俺が軽々しく口をすべらせぬかどうか、源蔵一味が見張っていたか?)
清五郎はおよその見当はつけていたのだが。新入りが間抜けな行為をしでかさぬか見張るのは当然と考えれば、そんなに腹は立たない。信用を築き上げる難しさは承知しているのだ。ましてや「処刑人」という立場が事実ならば、どれほど警戒してもしすぎるということはないであろう。万が一、公儀に漏れでもした際は、一族郎党が極刑、あるいは皆殺しにされる恐れがあるのだから。それほどまでに「処刑人」は嫌われているのである。
「処刑人」は悪党にしてみれば正義の味方気取りの邪魔者、公儀にしてみれば独断で悪党を殺す悪党でしかない。清五郎もその点はゆめゆめ忘れぬようにしておかねばならぬ。