1
太陽は沈み、暗くなった空には星々が自己主張を始めている。暮れ六つの鐘がなった後だけに、賑やかだった人通りも少しずつ数が減っていく。
そんな街の郊外に、喧騒に溢れた場所がある。権力の目をかいくぐるように、ひっそりとした場所に存在し、清五郎がいる場所は賭博場であった。
賭博は朝廷より禁止令が出ていて、現場を抑えられた者は全員が斬首刑と決まっている。ただ、それでも根絶はされなかった。町の行政・司法の目をかいくぐり、あるいは付け届けや袖の下などで、目こぼしをしてもらうのが常である。
行政の中枢にいる者達は、賭博に関わる者は皆殺しという過激な事を言ったりする者だが、現場の人間はそれがいかに困難であるか知悉している。だから、ほどほどですむ場合は、見て見ぬふりをしていた。
もっとも、例外はある。たとえば身分の高い者が身ぐるみを剥がれてしまい泣きついた場合とか、賭博が原因で破滅した者が多く出て、公になってしまった場合とかだ。その場合は、強制捜査に乗り出し、賭博場にいる者を一網打尽にしたりする。賭博行為は現行で捕えた者しか裁けぬ決まりなので、力ずくで逃げるという手があった。
そしてもう一つ、賭博で負けた者が言いがかりをつけてきたり、負けた分の金銭の支払いをごねたりする場合がある。そういった事態に備えて、清五郎のような者が雇われているのだった。
清五郎は質素な身なりではあるが、なかなか体格はよく腰には刀を差していて、町人風情では歯が立ちそうにないくらいの風格を持ち合わせている。彼が周囲を睨み回すと、気まずそうに視線を逸らす者がちらほらいた。
(きっと負けている奴らだろう)
清五郎に言わせれば馬鹿な連中である。せっかく汗水たらして稼いだ金なのに、みすみすどぶに捨てているようなものだ。徳利に入った水を小さな盃でちびちびとやっている。
(ま、俺も人の事は言えぬが)
そう自嘲した。清五郎は賭博場の用心棒という、少なくとも「お天道様に顔向けができる」仕事ではない。彼の稼ぎは彼の言う「馬鹿な連中」のおかげで生まれている。
やがてお開きとなり、撤収作業が半ば黙認されて入るとは言え、いつ「手入れ」が行われるか分からない以上、片付けはきちんとやり、痕跡を消す努力をするのが常であった。
清五郎はその作業に加わらぬ変わり、戸の方へと移動し、怪しい動きをする者がいないか、注意深く見守る。賭けた金を支払わず、または他人の財布を奪って逃げる不届き者が、まれにではあるが存在するのだ。そういった輩を警戒し、威圧するのが今の清五郎の役目である。
客が全員帰った後、小柄な壮年の男が近寄ってきた。主催者の源蔵であり、
清五郎にとっては雇い主に当たる。
「清五郎様、本日もありがとうございます。清五郎様がいらっしゃってから、とんと揉め事が起こらなくなりまして」
源蔵は揉み手をしつつ、腰を低くして頭を下げたが、目の奥から放たれる光は油断ならぬ強さを持っている。柔らかな人当たりで警戒心を持たせないのが、この手の人種の常套手段であろう。
「俺としてはその方が助かるがな」
「ははは。わたくしめもでございますよ。それでは本日の分、お受け取り下さい」
「いつもかたじけない」
清五郎は一枚の銀銭を受け取り、黒い財布に入れておく。一回につき銀銭一枚という手当ては、剣くらいしか芸のない清五郎にとってはありがたい話だ。
源蔵にしてみれば、一日に一枚の銀銭を払って平穏を維持できるのならば、安いものなのだろう。
「一献、いかがですか?」
「いや、けっこう」
盃をあおる仕草をしてみせた源蔵の誘いを、清五郎は断る。
「早く帰ってやらねば、妻はまだ起きているであろう」
「左様でございますか」
源蔵は残念そうな顔をするが、いつも同じ断り文句を言っているので、おそらく義理で誘ってみただけにすぎないのだろう。
「うむ、それではな」
「はい。またお願いいたします。最近物騒のようですから」
源蔵の言葉に清五郎は心当たりがあった。
最近、大店や金持ちの家に押し込み強盗が入ったという話をちらほら耳にする。中には寝ていた家族と使用人を皆殺しにされた家もあるらしい。
「わたくしめもいつ狙われるやら」
源蔵は恐ろしそうな顔をするが、まんざら芝居ではないだろう。賭博場を開くのは、金持ちの証である。賭博で負けている者のことを考えれば、自宅に押し入る輩が現れてもさほど不思議ではない。
深々と頭を下げる源蔵の視線を背中に感じつつ、清五郎は帰路へつく。外に出るとひんやりとした風が頬をなでた。空には三日月と星々が出ていて、地を照らしている。時間帯を考えれば当然だが、町にある建物から明かりは見えない。提灯の明かりがまばらに見える。清五郎には提灯を用意するゆとりがないので、月と星の明かりを頼りに歩く。
やがて清五郎が戻った先は路地裏にある長屋であった。彼はここで妻の雪と二人で暮らしているのだ。格子窓からはぼんやりと明かりが見えていて、妻がまだ起きていることを示している。
立て付けの悪い引き戸を開けるとすぐに雪がよって来た。
「おかえりなさいませ。いかがでございましたか?」
「ああ、何もなかったよ」
「それはよろしゅうございました」
雪は夫が無事に帰ったことを喜び、満開になった美しい花にも劣らぬ笑顔を見せる。それは清五郎の鬱屈した気分を吹き飛ばす力を持っているのだが、同時に彼の心を苛む要因にもなっていた。
雪は夫としての贔屓目を抜きにしても、相当な器量よしである。縁談の申し込みに困ることはなかったと風の便りにも聞いた。
(どうして雪は俺を選んだのだろう?)
清五郎は人に褒められぬ稼業で何とか生計を立てている。落伍者とまではいかずとも、その数歩手前であることは疑う余地がない。不釣合いにもほどがあると他ならぬ清五郎本人が思っていた。
「いかがなさいましたか?」
美しい妻は、そんな夫の様子を不審に思ったのか、首をかしげて心配そうな表情になる。
「いや、何でもない。お前がいてくれて幸せだなと思っただけだよ」
安心させてやろうと微笑みかけると、雪は照れて頬を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「そ、そんな……私の方こそ幸せですわ。あなたがいるんですもの」
そう言ってもじもじする妻を優しく抱きしめる。この笑顔を曇らせてはいけない、と清五郎は思う。愚かな自分でもそれだけは心がけねばならないと。左手で雪の顎に手をやり上を向かせる。そして言葉をささやきかけた。
「愛しているよ、雪」
「私もです、あなた」
雪はそうささやき返し、そっと頬を夫の胸に当てる。そんな妻の髪を、清五郎はゆっくりと愛しげに何度もなでた。
しばしの間、甘い時をすごし、やがて二人は体を離す。そして夕飯にありつく。
「いただきます」
二人で手を合わせてあいさつをする。善の上に並ぶのは、白いご飯と豆腐とワカメのみそ汁、焼き魚、高菜の漬物であった。みそ汁は清五郎好みの薄味で、豆腐の豊かな味わいが口に広がっていく。米はつやつやと輝いていて、高菜の漬物と一緒に食べると頬が落ちそうなくらいの美味さになる。ワカメも瑞々しい上にみそ、豆腐と美味さを引き出しあっていた。
「美味い。相変わらず達者な腕だな」
清五郎は舌を巻く。ありふれた食材をここまで美味に変えてしまうのは、一種の才能というものではないだろうか。
「ありがとうございます」
夫に褒められても雪は幸せそうに微笑むだけである。料理屋を開いてもやっていける、というのは清五郎の欲目ばかりとは言えぬ。雪が作った物を食したことがある近所の奥方達も、似たような評価を口にしたのだ。
一度褒めればそれっきり、言葉は途切れてしまう。食事中、あまり会話をしないという点では、似た者同士であるのだ。
食事が終わると後片付けを始める前に、雪が夫に尋ねる。
「明日はいかがなさいますか?」
「手配師のところに顔を出そうと思っている」
手配師とは手数料を取る代わりに仕事の斡旋をする稼業をやっている者のことだ。よそから流れてきてこの地域の住人と面識がない清五郎でも、仕事にありつけたのは手配師のおかげである。合法か非合法か、きわどい仕事が多いものの、清五郎のような人間には重宝する存在だ。
「かしこまりました。明日、大家さんが顔を出してほしいと言っていましたわ」
「大家が?」
妻の言葉に驚く。大家とはこの長屋を管理している壮年の男の事だ。清五郎にしてみれば得体の知れぬ自分達を裏通りとはいえ、入居を認めてくれたありがたい人物である。用があると言うならば出向かねばならないが、一体何があるのか。
「家賃なら、つい先日払ったばかりだったな?」
「はい」
雪は夫の問いに即答する。となると、他に一体何があるのか。大家の仕事は入居人と家賃を集めるだけではなく、長屋の管理や入居人の世話も含まれている。雪も心当たりがないらしく、怪訝そうな表情をしていた。
「まあ、よい。朝食をすませてから顔を出してみるさ」
明日は手配師のところに行くくらいしか予定はない。先に大家に顔を見せてからでも構わないだろう。
寝る時、清五郎は蝋燭の火を吹き消し、雪の手を取って自身の布団へ引き寄せた。
「あ、あなた」
何か言いかける妻の唇に己の唇を重ねる。しばらく唇を貪った後、口を離して問いかけた。
「だめか?」
「……いいえ」
雪は驚いただけで、拒絶しようとしたわけではない。清五郎に求められるのは、妻として、女として大きな喜びだった。
翌朝、清五郎が目を覚ますといい匂いが鼻を刺激した。雪が台所で忙しそうに動き回っている。
「おはよう。美味そうな匂いだな」
「おはようございます、あなた」
雪は振り返ってにこりと微笑みかけてくる。そんな妻に愛しさを覚え、清五郎は起き上がると甘い言葉を口にした。
「朝からお前を見ると元気が沸いてくるよ。いつもありがとう」
「やだ、あなた。何ですか、朝から」
雪は照れて頬を染め、向き直ってしまう。そんな姿を見て可愛いなと夫馬鹿とでも言うべきことを考える。雪が膳を持ってきて並べるのを待つ。所帯を持った当初は手伝おうかと思ったのが、やんわりと断られのだ。
「私がやりますから」
妻が口調とは裏腹に、目に力強い輝きを宿しているのを見てとった清五郎は、黙って引き下がるしかなかったのである。手持ちぶさたなので、妻の様子を眺めていると、明け六つの鐘の音が聞こえてきた。それと同時に、雪が膳を二つ並べる。昨日の残り物であるが、そうとは見えず、美味しそうなのは雪の手腕だろう。
朝食をすませると雪は清五郎に問うてくる。
「今からおでかけになりますか?」
「ああ。見送りはいらん」
清五郎は先回りして、そう言っておく。でなければ雪は、必ず出かける夫を見送ろうとするのだ。さすがにそこまでされるのは心苦しい。夫であると威張っていられるほどの稼ぎはないのだから。
今日の予定は何も入っていないが、それだけに職探しに精を出せるというものだ。おそらく雪もうすうすは察しているだろう。今の二人の稼ぎは、清五郎が一日に銀銭一枚、雪が内職で銅銭十枚程度で、しかも毎日ではない。週単位で見れば銀銭四枚くらいになるだろうか。雪が上手にやりくりしてくれているおかげで、何とかやっていけるのである。
(たまには何か買ってやりたいな)
雪は着飾ったり化粧をしたりということは一切しないが、それでも家の外に出れば男達から好色そうな目を向けられる美貌の持ち主だ。たまには身を飾る物一つ、与えてやりたいのである。こんな自分に黙ってついてきてくれている、できた女だ。少しくらい夫らしいことをしてやりたかった。妻の性格上、ただ買い与えても喜んだりはしない。無駄なことに金を使ったとたしなめる姿か容易に浮かぶ。それを避ける為には稼ぎを増やすのが一番だった。
清五郎は外に出るとまず大家に会いに向かう。大家が住んでいるのは、同じ長屋の表通りに面した一室である。戸を叩くとすぐに反応があった。
「はーい。あら、清五郎様」
出てきたのは大家の娘、はつである。十四歳になる少女は、清五郎の顔を見て、まぶしそうに目を細めた。
「親父さんに会いに来たんだが、清五郎が訪ねてきたと伝えてもらえないかな?」
「かしこまりました。おとっつぁん、清五郎様がいらっしゃったわよー!」
その場を動かず大声を張り上げた娘に、清五郎は苦笑する。はつの声が響くや否や、すぐに父親が現れた。
「ようこそ、清五郎様」
壮年の男は清五郎に対して丁寧にお辞儀をする。それが腰に差してある刀によるものだ、と清五郎は推測していた。この時代、まともな刀を差せるのはひとかどの剣客だとみなされる傾向が強いのである。この地に来てすぐに仕事にありつけ、住処も決まった一因になっている理由だと疑う余地はない。もっとも、最大の理由は妻の雪であろうと、いざとなれば若くて美しい雪を売り飛ばせばよい、という計算が働いているのは考えるまでもない。
「妻から用があると聞いてな。何かな?」
清五郎は卑屈にならずにそう問いかける。むやみに威張っても滑稽でしかないことくらい、自覚はしているものの、かと言って舐められるわけにもいかなかった。大家は清五郎の態度を和らげようとするかのように、穏やかな笑顔を作る。
「実は清五郎様に仕事の依頼が入ってましてな。ぜひ、お知らせしておこうと思ったのです」
「ほう、それはかたじけない。ただ、意外ではあるな」
清五郎は思いがけぬ申し出に目を丸くしながらも、素直には喜べないでいた。基本的に町内の結びつきは強く、それ故清五郎のような流れ者には排他的な傾向がある。それを許さないのが大家の手腕の一つとも言えるが、話はそう単純ではない。
「左様でしょうか?」
もっとも大家には違ったらしく、清五郎の反応に待ったをかける。
「清五郎様がここにお住みになってはや二月、実直なお人柄だということを知るには充分な期間と言えます。奥方様も、負けず劣らず素晴らしい方です」
褒められてはいるのだが、清五郎は素直に喜べない。そして、そんな自分が矮小な存在である気がして、嫌悪感を覚える。清五郎の表情を見た大家は、更に言葉を重ねた。
「清五郎様は今、とある場所で用心棒をなさっておいでですな?」
問いかけではなく確認であったが、清五郎はひとまず頷く。大家が入居人の仕事を把握していないなど、ほぼありえないことである。犯罪者を住まわせたり、家賃を回収できなかったり、何か問題が発生すれば全て大家が責任を問われるのだ。
「そこでの働きが評価されたようですな。一度、清五郎様と会ってお話がしたいとのことですが、いかがでしょうか?」
清五郎は考え込む。働きを評価したということは、依頼主は賭場に出入りしている客のうちの誰かだろう。となると、非合法の話である可能性もあり、飛びつくのはためらわれる。独り身であった頃ならば平気だったが、今の彼には守らねばならない家族がいるのだ。
「仕事次第ではあるな。俺は罪人になるつもりはない」
清五郎はきっぱりとそう言う。たとえ彼が罪人になったとしても、雪はきっと歯を食いしばってついてきてくれるだろう。そんな女だからこそ守りたいし、守らなければならぬ。それが清五郎にとって、最後の一線と言えた。清五郎の態度から何かを感じとったのか、大家はなだめるような顔つきになる。
「もちろんでございますよ。罪人を生むような仕事を斡旋したとなっては、わたくしめの立場がなくなりますからな」
もみ手をして、すがるように早口で言う。清五郎はそれもそうかと思い直した。中には地主や金持ちもいるが、大半の大家は雇われ人にすぎず、目の前の男もそれに当てはまる。下手な真似をすれば、仕事と住みかをあっという間に失ってしまう立場だ。
「それもそうだな。失言であった。申し訳ない」
清五郎は大家の言い分がもっともだと認め、頭を下げて謝る。大家は笑ってそれを受け入れた。
「清五郎様は失礼ながら、自己評価が低くていらっしゃいますな。真面目に働いてもらえる人なら、という雇い主はけっこう多いのですよ」
犯罪への罰は厳しい反面、被害にあうのは自己責任という声は大きく、町内での結束が強い一因となっている。それだけに真面目で信用できる人間は、流れ者であっても歓迎されやすい。清五郎はそういった信頼を勝ちとったと、大家は迂遠に言っているのである。
「そんなものかな」
そうした機微に明るくない清五郎は、ひとまず納得したふりをすることにした。いずれにせよ犯罪に加担せず収入を増やせるならば、清五郎にとって悪い話ではない。
「そういうことであれば、会うだけ会ってみようかと思うが」
清五郎は前向きに考えることにする。大家は嬉しそうな顔をした。
「左様でございますか。では、早速ご案内いたします。おはつ、わたしは今から清五郎様と出かけてくる」
「はーい、いってらっしゃい」
元気のいい返事を背に二人の男は歩き出した。
清五郎が大家に案内されてたどり着いたのは、大通りにある材木問屋「梅屋」であった。裏長屋とは比べ物にならないほど立派な作りであり、清五郎は感嘆のため息しか出てこない。二人が裏口に回り、大家が戸を叩くとはつと同年代と思われる女中が姿を見せた。
「あら、藤次さん。何の御用でしょう?」
「旦那様に頼まれていた件だ。例の御仁をお連れしたと伝えてもらえないか」
「はい、しばらくお待ち下さいね」
女中が引っ込み、沈黙が訪れる。藤次は口を開こうとせず、清五郎も無駄口を叩こうとは思わなかった。ただ、「梅屋」と言えば清五郎でも知っているような豪商の一人である。
(賭場の客にそんな奴いたかな?)
羽振りのいい商人を見た覚えがなく、首をかしげた。もしかしたら若旦那の方だろうか。清五郎があれこれ考えているうちに先ほどの女中が戻ってきて、二人を中に通してくれた。
あまりじろじろ見るのも恥ずかしいと清五郎は思い、視線を女中や藤次の背中に留めるよう心がける。
やがて女中は一つの部屋の前で立ち止まり、両膝を床について戸を開ける。
「主人が参るまでこちらでお待ち下さい」
女中は一礼をすると立ち上がって去っていく。部屋の中には三つの青い座布団が並べてある。二つは左右に並んでいて、一つがそれと向き合うような配置だ。おそらくその一つが己を呼んだ者の場所だろう、と清五郎は予想した。
ほどなくして足音が二人分聞こえてくる。藤次は気づいてはおらず、鍛えてある清五郎のみが聞こえる程度の大きさである。
「いらっしゃいませ、清五郎様」
戸を開けるや否や声をかけてきたのは、源蔵であった。彼は見慣れた笑顔を浮かべて清五郎に一礼し、向かいの座布団に腰を下ろす。そして彼の背後からついてきていた女中が続いて入室し、三人にお茶を配る。
「まさか源蔵とは……」
清五郎はそう言うのがやっとであった。賭場を開いているあたり只者ではないと睨んでいたが、こんな大店の主人であるとは。さすがに想像もしなかったのである。一方でどこか納得している清五郎もいた。「清五郎の働きぶりを信用している」ということに関して、一番説得力があるのが源蔵であろう。そう思うと、自身の不明さが恥ずかしくなってくる。
「考えてみれば、俺のことを信用できると言ってくれる人間など、限られていたよな。真っ先にお主を浮かべるべきであった」
清五郎がそう声に出して述懐すると、源蔵は鷹揚に笑う。
「いえいえ、単に運の問題でしょう。わたくしは幸運にも、清五郎様のお人柄を知る機会に恵まれた。そう思っております」
豪商で社会的地位も財産もあるのにも関わらず、清五郎のような者に対しても物腰が低い。こういった人物の中にこそ、大物と呼べる輩は存在する。
「して、用とは?」
清五郎は分の悪さを感じとり、強引に切り出した。源蔵はその拙劣さをあげつらうことなく応じる。
「はい、実は用心棒を求めておりましてな。清五郎様には住み込みでお願いしたいと考えておるのですよ。むろん、奥方様もご一緒に」
「……あいにく、うまい話に飛びついてしくじった経験があるのでな。そう簡単に頷くわけにはいかぬ」
清五郎は思わずうなったが、それでも慎重な反応を見せた。「ただより高い物はない」「うまい話には裏がある」という言葉を身をもって知った、苦い経験があるのである。
「もっともなことですな」
源蔵は清五郎の態度に不快感を示すどころか、感心して見せた。少なくとも清五郎からは、そうとしか思えない表情である。やはり腹芸の達者な男だと思いつつ、清五郎は茶を一口含む。今まで飲んだことがある中で、一番上等だと分かる美味さだった。
「このあたりが剣呑になってきているのは、先日も申し上げた通りでしてな。わたくしとしましては、信用ができて腕の立つお方を探していたところなのです。実を申しますと、賭場の用心棒もその一環でして」
賭場の用心棒は誘惑が多い仕事である。人の出入りが多い上に、それなりの額の金銭が飛び交う。その気になれば、まとまった額の金を手に入れて素知らぬ顔を決め込むのも不可能ではない。
「わざと何度か隙を見せたのですが、清五郎様は一切怪しい素振りをお見せになりませんでしたな」
清五郎には心当たりがあることであった。「不用心だな」と呆れつつ、仕事上いつも以上に気をつけた覚えがある。清五郎にしてみれば、せっかく見つけた仕事を邪な考えで失う危険を冒す気にはなれなかっただけだ。もっと言えば雪を悲しませたくはなかったのである。ただ、ずっと掌の上で動かされていただけ、と思うのもいささか癪ではあったので、言い返してみた。
「危ないことを考えるな。俺が盗人に早変わりした時はどうするつもりだったのだ?」
「偽金ですから、どこかで使った清五郎様が捕まった可能性が高いでしょうな」
しれっとして答えられ、清五郎は窮する。偽金など簡単に作れる物ではないし、すり替える様子もなかったはずだが、「梅屋」ほどの豪商ともなるとあるいは、という気分にさせられた。少なくとも罠を張るからには何らかの細工はしてあったはずである。考えこむ清五郎に対し、源蔵は茶を飲んでから言葉を続けた。
「それに、そこまでうまい話ではございませぬ。わたくしが既に雇っている方々と手合わせをしていただき、雇うに値する腕前か否か、吟味させていただきます」
「それはむしろ当然だな」
清五郎にはその方が自然だと思う。賭場の用心棒となった際、腕を確かめられなかった方が不自然なのである。もちろん、源蔵の言葉を全て信じたりはしない。嘘を言っているようには見えぬものの、本当のことを言っているかどうかは不明である。
だが、清五郎は少々怪しくても受けたい話でもあった。源蔵の方もそれは承知の上であろう。
「それで、手合わせはいつ行う?」
「清五郎様のご都合がよい日に。何でしたら今からでも」
「今から?」
清五郎は源蔵の申し出に目を瞠ったが、すぐに承知した。
「よかろう。そちらが構わぬと言うのなら、今からだ」
源蔵は我が意を得たりとばかりに破顔一笑する。
「それでは早速、用心棒達を集めて参りましょう」
源蔵はそう言って立ち上がり、清五郎達もそれに続く。
「どこで立ち会うのだ?」
清五郎がふと思いついて問いかけると、源蔵は振り返って答える。
「当家の庭でございます。手合わせを行える程度の広さは何とかございますので」
確かにこの家の庭は広い。清五郎はそう思う。清五郎が住む四畳半の部屋がいくつも入りそうなくらいだ。
清五郎が庭に下りると藤次もついてくる。
「用心棒達がどのような者達なのか、何か知っているか?」
「はあ」
問われた藤次の反応は鈍かった。
「存じておりますが、果たして申し上げてもよいのやら」
「素性くらいは俺が知っても構わぬだろう」
得意武器や戦法を知ってしまうと卑怯になるやもしれぬが。清五郎にそう言われて藤次は安心したか、舌の回転がやや速くなった。
「いずれも清五郎様と似たような方々ですな。旦那様と知己を得て、雇われるようになった、ひとかどの剣客とわたくしは思っております」
「ふうん」
清五郎は思案をめぐらせる。剣で身を立てる輩はそれなりに多く、庶民からは敬いに近い感情を抱かれやすいが、その気性や素行はまちまちだ。まっとうな者であれば、道場主になったり、それなりの家の剣術指南役になっていたりするはずである。もちろん、清五郎が言えた義理ではない。彼自身、あまり褒められた経歴の持ち主ではないのだ。
(俺のような輩を何人も集めるとは、何かしでかす気か? それとも危険が迫っていることを察知しているのか?)
押し込み強盗に入られた家の話は、清五郎も聞いたことがある。各町はそれぞれ木戸で仕切られているとは言え、ならず者の流入を完璧に防ぐことは不可能だ。大家達が団結して怪しい輩を住まわせぬようにはできても、旅籠に旅人を泊めるなとは言えぬのだから。
問題は源蔵がどういうつもりでいるのかだ。「梅屋」ほどの商家ならば、何かよからぬことを企てていても変ではないし、逆に自衛の為であってもおかしくはない。
(虎穴に入らずんば虎児を得ず、という言葉はあるが……)
雪を泣かせてまでやる価値はないと清五郎は思っている。いずれにせよ、まず腕試しを終えてからの話だ。