シガレット・フレグランス
学校が終わり、早速夏休みが始まった。
家に帰ってすぐに荷物を持って空港に向かい、イギリス便に乗って数時間。
時差の影響か、イギリスは夜だった。
日本はあんなに暑かったのに、イギリスはやはり肌寒い。
あろうことか上着を忘れてしまったため、腕をさすりながら、『ある人』を探しながら空港を出た。
(黒い車…うーん、どこだ?)
手紙で、『黒い車が迎えで空港の外で待っているから探せ』とかなり投げやりな指示を出されていた。
走り書きで書かれたそれを片手に、暗い空港の外を彷徨う。
黒い車という大雑把な指示に若干悪意を感じた。
せめて車のナンバーくらい入れておけよ、黒い車何台その辺にいると思ってんだ。
くっそ、腹立つなぁとブツブツ言いながらふと足元を見下ろす。空港の窓から漏れ出す照明でできるはずの煌子の影が、背後の何かの影で消えている。
なんだ、と首を傾げた途端、その謎は解けた。
「何が腹立つって?あぁん?クソガキ」
「っぎゃーーーーーーー!!!!」
振り返った先には逆光と服装のせいで顔が見えないどころかマスクにサングラスという職質必至の格好をしている大男が仁王立ちで立っていた。
男は煌子の近所迷惑な悲鳴に耳を塞ぐ素振りを見せながら煌子の襟首を引っ掴んで、手紙に書いてあった通りの黒い車の中に彼女を放り込んだ。
一見すると誘拐臭くも見える動作後、男も車に乗り込み、何事もなかったかのように車は発進した。
「お前は悲鳴さえ女らしくできないのか。何だあの絶叫は。山猿かと思ったぞ」
「だったらもっとマシな登場してくださいよ…って誰が山猿だ誰が」
「夜にあんな絶叫上げる山猿なんかお前しかいねぇだろ」
「慈悲はない」
一切の慈悲も優しさもない言葉を遠慮なく投げかけてくる見た目不審者の男に、煌子は視線で全力で反抗する。
しかしその振り絞った程度の僅かな反抗心も、男のサングラス越しのひと睨みで消された。
煌子の視線が萎んだものになると、男は鼻で笑った。
「……せめてナンバーくらい書いてくれたっていいじゃないですか」
「あぁん?」
「………なんでもないです」
もうヤダこの人、と煌子が膝を抱えて嘆く。
そんな煌子に目もくれずに悠々と運転する男をちらりと横目で見て、煌子は再び膝に顔を埋めた。
(……ほんと、私は何でこんな人に、)
「着いたぞ」
車が止まり、煌子側のドアが開く。
こういう所は紳士なんだよなぁ、と心の片隅で思いながら車を降りた。
ここは煌子が生活する寮だ。
軍事施設内にあるこの寮で、煌子と男は同室で住んでいる。
「春休みに帰ってきてたけど、なんか懐かしい気がしますねぇ」
「この前お前が帰ってきてた時は俺がいなかったからじゃないのか?」
「あ、そうかもしれません。そう言えば怪我は大丈夫ですか?」
「ガキに心配されるほど引き摺っちゃいねぇよ」
ガキガキ言いやがって。ガキだけど。くそ、心配して損した。
この男と煌子が初めて会ったのは、ずっと前だ。何年前だったかさえ覚えていない。
祖父に連れられ、この軍の人達に挨拶をした際、彼を見つけた。
その時から目だし帽にサングラスをかけ、徹底的に顔を見せないスタンスを貫いていたので、強烈なインパクトが残っている。
休日でさえフードで髪をかくし、サングラスとマスクで顔を隠す。
だんだんそれが当たり前になって、今ではこの状態がデフォだ。
「…大尉、気にしてましたよ。『トレーズ中尉は俺を責めてもいい』って」
「それについてはもう知ってる。殴って黙らせた」
「サラッと言ってますけどあの人貴方の上官ですよ」
この男―――――煌子の上官、トレーズ。階級は中尉。
身長は185㎝、体重は75㎏。英語の訛りからしてきっと、ロンドン出身。
トレーズという名はもちろん本名じゃなくてコードネームだ。彼は頑なに本名を名乗らない。
年齢は三十代前後のはずだが、煌子が5歳の頃には既に兵士だったから、兵役は長い。
傭兵経験もあるらしく、部隊の中ではかなりの経験豊富だ。
だが煌子が春休みに帰ってきた時、トレーズは病院に入院していたため、煌子は彼に会えなかった。
紛争地に出向いた時、重傷を負ったそうで一週間ほど意識が無かったらしい。
今ではピンピンしているが、割と危険な状態だったらしい。
だが、彼の捨て身の前進で作戦が成功したことから、非常に有能な兵士であることも確かで。
煌子も彼に、数えきれないほど助けられてきた。命に関わるような場面で、それも頻繁に。
今まで彼に兵士としてのノウハウを教わってから、煌子は彼を心の底から尊敬はしている。
性格以外でな。
「……っくしゅ、」
「…お前、そういえば何でそんな薄着なんだ。半袖とか馬鹿か?」
「ええ馬鹿でしたよ。上着忘れました」
くしゃみくらいは女らしいな、と鼻で笑われる。
もう反抗する気すら起きない、と溜息を吐いた直後、肩に温かい何かがかけられた。
ふわりとトレーズのいつも吸っている煙草の匂いがしたそれは、彼がついさっきまで来ていた上着だった。
思わず彼を凝視すると、彼は何食わぬ顔で煙草を取り出している。
「………ありがとう、ございます」
「さっさとそれ着てさっさと他の奴らに挨拶しに行け。荷物は入れておく」
「すみません、ありがとうございます!」
赤くなった顔を見られないようにすぐに頭を下げて、宿舎の方へ駆けだした。
(なにあれ、なにあれ。何であんなに急に優しいの、)
畜生、畜生!
結局帰ってきても彼に振り回されてばかり、何も彼に仕返しできない自分に腹が立つ。
宿舎のロビーに飛び込んで、自販機の前にしゃがみ込む。
ああ、なんて情けない。
(何であんな人なんか、)
トレーズの上着に染みついた煙草の匂いのせいで、暫く熱は治まりそうにない。