髪を切れない、彼女の話。
久し振りに訪れた馴染みのバーは、少しも変わらぬ居心地の好さで私を迎えてくれた。
カウンター席に陣取り、マスター相手にお喋りを楽しむ。二年も来ていなかっただなんて、まるで感じさせないマスターの気安さ。
「やあ、佳奈。今もまだ、噂の不毛な恋愛に身を投じてるの?」
――そして、嘗て愛したあの人も。
どうして遇ってしまうのだろう。こんな平日に、この場所で。
店へ来る前に電話を入れ、彼は週末にしか現れないと確認を取ったのに。
「ええ。どんな噂が流れているのかは知らないけれど、相変わらず純愛に生きていますわ、お陰様で」
内心の動揺を押し隠して吐き出した言葉の裏に『大きなお世話!』と意味付けて、ゆっくりと振り返る。そこには私の予想通りのニヤニヤ顔で聡が立っていた。
「恋愛に於いては百戦錬磨の君も、可愛い坊やには形無しらしいね」
「失礼ね。私はいつでも、純情可憐な恋する乙女よ」
「純情可憐……?」
隣の席に滑り込みながら、驚いた表情の聡は自分の耳に小指を突っ込んだ。
「……何よ、その反応は」
耳の中を何度も掻き回す様に厭味を感じ取ると、彼は指を抜いて頭を下げた。
「ああゴメン。何だか急に、耳が悪くなったみたいで」
「失礼ねっ!」
憤慨すれば更に聡を喜ばせるだけだと分かっていても、つい大声を上げてしまう。案の定、彼は実に愉快そうに大笑いした。
「佳奈の恋愛遍歴を知ってたら当然だろ?」
「……うるさいわよ」
「僕だって、その1ページを飾ってるはずだし」
「貴方のページは、燃やして捨てたわ」
「それは酷いな」
ぽんぽんと弾む会話が、悔しいけれど楽しくて仕方無い。今の恋人は、微笑みながら話を聞いてくれるばかり。打てば響くような聡の反応に、心ならずも唇が綻んだ。
「女を手玉に取る男の方が、よっぽど酷いと思うけど?」
「手玉に取った覚えは無いけどな」
呟きながら、彼の指があの頃よりも長くなった私の髪を掬う。
「覚えてるのは、この髪の香りだ」
最後に聞いた二年前と同じ、官能的に響く声。
「それから、濡れた髪の温度と肌に纏わりつく感触」
油断していれば、あっと言う間に囚われてしまいそう。
「忘れられないよ」
溜め息混じりに囁かれて、落ちない女はいないだろう。けれど私も、あの頃の私じゃ無い。
「……カサノヴァ」
呟いて、グラスに手を伸ばす。それは図らずも、彼と最後に飲んだあのカクテル。
「愛に忠実な男の名前だね」
「私は、人に誠実な男が欲しいのよ」
レモンの酸味を舌に乗せ言い返した私の言葉に、彼の指がぴくりと動いた。
「……彼氏はそれに値する男?」
「少なくとも、貴方よりはね」
聡の深い瞳に流されまいと、必死に抵抗を試みる。恋に溺れて、盲目なるのはもう沢山。
「退屈な男だ」
「振り回されるよりはマシよ」
「愛してるの?」
さらりと問われた言葉に、声が詰まった。
「……嫌いなら、付き合ったりしないわ」
「愛してるの? その男を」
曖昧な返事を、彼は許さない。
「来年、結婚するのよ」
「彼氏と?」
「そう」
鋭い眼光に、体が竦む。
「愛してるから? それとも単なる妥協?」
「聡には関係ないわ」
視線を逸らして、突っぱねる。それでも彼は、納得してはくれないようだった。
「人に誠実なら、愛は二の次か」
吐き捨てられた台詞に、頬がカッと熱くなる。
「家族として愛して行けるわ!」
「男としては?」
「……彼の子供なら産めるわ。きっと」
「それを望んでるようには見えないけどね」
軽蔑しきった、冷たい声。
居た堪れなくなった私は、数枚のお札をカウンターに置くとスツールから立ち上がった。話し相手になってくれていたマスターは、聡が現れた時点で他の客の許へ移動している。置いたお金を指差して合図を送り、視線だけでご馳走様と告げた。
「逃げるんだ」
背後から追い駆けてきた挑発には、もう乗れない。
「そうよ」
「臆病者」
「そうよ!」
振り返らぬまま、小さく叫んだ。
臆病でも卑怯でも、もう何でも構わない。今すぐに、彼の前から消えてしまいたい。
「さよなら、聡。……もう、会わないで。偶然でも、私の前に現れないで」
それだけ告げると、震える足を踏み出した。
「佳奈」
呼ばれても、返事はしないわ。
「……髪が伸びたね」
最後に聞こえた彼の声は、酷く懐かしい切なさで私の胸に届いた。
『失恋したら、髪を切る』
日本の女の子の、不思議な常識。
だから私は、切らなかったの。
私は、恋を失った訳じゃ無かったから。
ただ、愛を殺してしまっただけだから。
けれど、殺したはずの愛は死んでいなかった。
仮死状態に陥っていただけ。
願うのはただひとつ。
――息を吹き返す前に、安楽死を。
伸びた髪の分だけ、時の流れが巻き戻る前に。
Motif cocktail / XYZ