恋の主語は、いつも君で
「明美ってさ、本当に優しいよね」
「ええ? なに言って――」
「だって、達実くんに告白したのも、明美からなんでしょ?」
そうだった。
いつも私からはじめているんだ。
「そうだけど……でも、達実くんは私に合わせてくれているだけだし」
「違うよ、臆病なだけなんだって。なんでも相手に合わせりゃ優しいってわけじゃないでしょ」
痛いところを突いてきた。
私は口ごもり、紙パックのストローを噛んだ。
「私はなんていうか、押しが強くて。彼は優しく受け止めてくれて。えっと……」
「それだけじゃ、達実くんが明美のこと本当に好きかなんて、わかんないじゃん」
「男なんだからって言いたくないけど、好きって一方通行の恋じゃなくて、あんたたち、付き合ってるんでしょ? なんか〝証明〟が欲しくならない?」
「う……。そりゃ、まぁ」
一度目のデート、ってか放課後だったけど、あの時もなんて言ったんだっけ。
そうだ、下の名前で呼んで、タメ口で話そうだったな。
『う、敬語はなんか、そのうち直すんで、今は明美ちゃんでいいかな』
あの時の、赤くなった顔を見て、私は達実くんの遠慮を許したんだよね。
思い出していると、予鈴が鳴り、友だちの香瑠は自分のクラスに帰ってしまう。
「いいから、明美からも達実くんに言ってやんなよ? そんなんじゃ、どっかに行っちゃうかもって」
古文の授業は退屈だ。
「さて、今日は万葉集の相聞歌についてです」
もう長谷川の言葉は右から左だった。
古文の長谷川がメガネのフレームを上げる。
そして、チョークで小難しい日本語の羅列を書いていく。
『あしひきの 山道を越えて 行く人の 行き過ぐまでに 妹寝ざるべし』
『命あらば 逢ふこともあらむ 畏みの 厳しき国を 払いかねてふ』
……意味がわからない。昔の人はこんな風に話してたんだろうか。
長谷川が読み上げ、現代語訳をする。
「これは大原今城が狹野弟上娘子への返歌です」
「……二種目は、生きてさえいれば、いつかまた会えることもあるだろう。天皇のお咎めが厳しいこの土地の因習や状況を、払うことができずにいる。といった意味になります」
「つまり、彼は彼女を嫌っているのではありません。自分を取り巻く状況や性格の不器用さのせいで、どうしても一歩踏み出せず、身動きがとれない思いを綴ったのです」
環境と性格、か。
彼もそうなのかもしれない。
勇気が出ないだけで、動かないわけじゃないんだ。
ただ、私が『彫刻の君』に一目惚れして、暴走しただけで。
……迷惑じゃ、なかったかな。
私は右斜め前の彼に視線を向ける。
やっぱり、横顔がきれいで。
私なんかじゃ相手にされないくらい、俗っぽさがない。
気づいては、くれないよね。
耳をかけて、板書を写す彼の手は意外と男らしかった。
あの手で頭を撫でられたなら。
もしくは肩を抱き寄せてくれたのなら。
今は夢でも、私は待ってみよう。
◆◆◆
いつも彼女からだったっけ。
左斜め後ろから、明美ちゃんと友だちの香瑠さんが話している声が聞こえた。
「だって、達実くんに告白したのも、明美からなんでしょ?」
放課後デートの時に、タメ口で下の名前で呼んでほしいって言われて、僕は舞い上がっちゃって。
喉が締まって、声が上擦ってしまったんだ。
そして、逃げた。
思い出しても、今読んでる小説の内容が頭に入らない。
主人公の名前さえも飛んでしまっている。
そばだてた耳は明美ちゃんの声ばかり拾ってしまう。
予鈴が鳴って、香瑠さんが僕に刃を突き立てた。
「いいから、明美からも達実くんに言ってやんなよ? そんなんじゃ、どっかに行っちゃうかもって」
そう、だよな。こんな臆病な男じゃ飽きられてしまうかもしれない。
明日の土曜のデートはどうしようか。
僕は彼女と別れたくない。
だって教室でカラカラ笑う『光の君』を手放すなんて、考えられないから。
古文の授業は楽しい時間だ。
古代の人も今の僕のように悩んで生きた証が、そこにあるからだ。
長谷川先生がメガネをクイッと上げて、万葉集の相聞歌を紹介してくれる。
「今回、紹介する万葉集の歌は激しい感情を込めたものになります。それだけ彼らではどうにもできない想いを、誰になんと言われても彼女が彼に贈ったのです」
まるで明美ちゃんみたいだな。
僕が読んでる小説を自分も読んでくれたり、赤くなった頬を冷ますように両手を添えるあの仕草も。
大原今城は見ることはなかったかもしれないけど、彼女が言葉で行動で示してくれるところは同じだと思った。
先生が板書する歌は、まるで明美ちゃんと僕が詠んだかのような歌だった。
『あしひきの 山道を越えて 行く人の 行き過ぐまでに 妹寝ざるべし』
『命あらば 逢ふこともあらむ 畏みの 厳しき国を 払いかねてふ』
「一首目は、険しい山道を越えて行くあなたが無事に通り過ぎるまでは、私は一睡もせずに無事を祈り続ける。という意味ですね」
「つまり、行く側の彼を、ただじっと待つしかない彼女の、張り詰めたような切なさが表れています」
そうだ、僕はいつも彼女に負担させてばかりで。
ああ、振り向いたら睨まれているのかも。
僕はホントは明美ちゃんのことが好きなのに。
彼女ばかりに言わせてばかりで、情けない。
明日は変われるように、手汗で滲んだ文字をそのままにしておいた。
◆◆◆
翌日のデートは動物園だった。
秋の入り口。寒くもなく暑くもないこの時期は、達実と明美にとって、いい思い出になった。
スマホのフォルダには動物と寄り添った自撮り写真が並んでいる。
歩いたら暑かったとソフトクリームを買ってみたり、食べ終わったら寒いとカーディガンを羽織ってみたり。
そんな日常の時間を共有できることが二人にとっての幸せだった。
「はぁー、遊んだ、あそんだ!」
「明美ちゃん、そっちは危ないからこっちに寄って……ください」
ぎこちなく、彼が車道を避けるように誘導し、左手を差し出す。
彼女はその様子に、思わず吹き出してしまう。
「達実くん、もう五回目のデートなんだから、敬語は控えめにね」
「うう、だって……」
達実が俯いたら、メガネが夕日でキラリと光る。
明美にはそれが心のバリアに感じられた。
「あ、明美ちゃん家の途中に公園あったよね。……あ、信号渡らなきゃか」
彼女は意外そうな顔をする。
「ん? なんか用なの? いいよ、寄ってこ」
「……ありがと」
夕暮れの赤信号は、茜色。
青くなったら、進んでみよう。
小さな公園には一台だけベンチがあり、規模もあってか誰もいなかった。
夕暮れがさよならして、群青のベールが街を包んでいる。
カチカチリと公園の街灯が点いてベンチを照らす。
「暗くなっちゃったね。てか、達実くんが寄り道なんて、珍しいね」
ふと、彼女の手に達実の手が触れる。
「えっ? ああ、ごめん。近すぎちゃったかな」
明美は驚きをそのまま言葉にし、距離を取ろうとした。
が、達実がそれを許さなかった。
「わざと、です。明美ちゃん――」
心臓の音で自分の声の反響さえ、聞こえない。
それでも達実は言葉にした。
「あ、明美ちゃん。キス、していい……ですか?」
相変わらず、たどたどしく、声がひっくり返ってしまった。
明美は目を丸くし、お腹を抱えた。
「あっはっは。ごめん、笑っちゃって」
「だ、めだった……?」
彼はオロオロとし始め、手を離す。
明美はグッと距離を詰めて、彼の耳元でささやく。
「ううん、嬉しい」
首に抱きつき、彼女が正面を向くと、目を閉じた。
達実が意を決して目を閉じて、唇を重ねる。
彼は震えていた。
それ以上に熱くなった彼女の柔らかい唇の感触に、足の先からじんわりとあたたかな気持ちを噛み締めていた。
ほんの少し小鳥が触れ合うような短いだけの、けれど確かな熱を持った抱擁。
唇が離れた後、達実は少し視線を泳がせた。
そして、彼女の肩をそっと抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。
「もう、行こっか」
「……うん」
繋いだ手に少し力を込める。
彼女がそれに気づいて、嬉しそうに握り返してくれた。
その手の温かさだけで、もう言葉はいらなかった。
今度は僕がその手を引いて、二人でゆっくりと歩き出す。




