最後の間取り図
梅雨の湿り気が街を包む午後、大学三回生の早苗は、図書館の片隅で独り、無為にスマートフォンを滑らせていた。ページの海を漂う中、ふと目を引いたのは、不動産情報サイトの過疎掲示板。そこに一枚、無言のような画像が貼り付けられていた。
「【閲覧注意】逆さにしないでください。間取り図」
添えられた書き込みは、それだけ。写真には、よくある古めの1K。ユニットバス、狭苦しいキッチン、押入れがひとつあるだけの、平凡な図面だった。しかし、その下に続いた誰かの返信が、彼女の指を止めた。
――「どこかが“見てる”。逆さにすれば気づきます」
訝しげに眉をひそめながら、スマホを上下ひっくり返す。線と線。畳の並び。押入れの角、浴槽の輪郭、そして窓――
喉の奥が、ざらりと音を立てた。背筋を這い上がる冷気。逆さにされた間取り図は、もはや部屋ではなかった。
そこには歪んだ“顔”がいた。
押し潰された双眸。くの字に裂けた口元。図面が、真正面から彼女を見返している。
翌朝、早苗は薄靄に沈む高尾の旧団地跡地に足を踏み入れていた。建物はすでに取り壊され、ロープで囲われた更地が広がっている。地面にかすかにかかる霧が、すべてを曖昧にしていた。
中央――押入れがあった位置と思われる場所に、黒々と雨水が溜まっている。闇のように深く、濡れた眼孔のように。
踏み出した足がずぶりと土に沈んだ。靴底から染みてくる冷気が、皮膚を突き破って骨の奥へと届いていくような錯覚。靴の底が何かに当たった──
「カキ…」
微かに鳴る。足をどけると、土の中から指先ほどの木片が覗いていた。拾い上げると、それは焦げのこびりついた、古い板切れ。朽ちかけたその裏に、黒い文字が滲んでいた。
「四〇一。最終住人:藤野 深夜出火」
風が、何の予兆もなく吹いた。湿った草がざわめき、背後から肌に触れた。
――ただいま。
耳ではなく、頭の内部を震わせるような、低く細い声が、確かに聞こえた。
それから間もなく、間取り図は夢の中に現れた。最初は断片的で、どこか所在なげに漂っている。一つ抜け落ちたパズルのように、同じ形の部屋が何度も現れては消えた。
三日目の夜、夢は変質した。
押入れに、奥行きが生まれていたのだ。ありえないほど深く、黒々とした空洞。その闇の奥から覗くもう一つの目。鏡のようにこちらを模した顔――虚ろで感情の抜け落ちた早苗自身の顔が、その中からじっと、外の世界を見ていた。
眠るたび、疲労だけが蓄積していく。目が覚めるたびに、窓の傍に泥の足跡じみた筋が一本、また一本と増えていった。扉の鍵は閉まったまま。誰も出入りはしていない。
それでも、何かが“中”にいた。
数日後、早苗は大学から姿を消した。
友人が訪ねたとき、ドアの内側には一枚の紙が貼られていた。手の震えがそのまま残ったような線で描かれた、あの間取り図。
だが一点だけ、違っていた。
“押入れ”の位置に浮かんでいたのは……彼女自身の顔だった。
後日、彼女のPCから不動産掲示板への最後の投稿が確認された。
「間取りは顔。見る者を覚えている。“押入れ”は口。吸い込まれないように」
投稿は数分後、アカウントごと削除された。
以来、「最後の間取り図」はネットの片隅から消えることなく、折に触れて再投稿されている。一見すれば、ただの古びた1K。
どこにでもある、ありふれた図面。
けれど、ある種の人間には――“顔”が見えるという。
今、あなたのスマホの画面がそれを映しているのなら。
どうか、ひっくり返すその前によく考えてほしい。
その“顔”が、あなたを見つめているのではない。
間取り図という“部屋”そのものが、あなたの訪れを……ずっと、待っている。




