婚約破棄を突き付けてきた婚約者の鼻の中にヒールをぶち込み申しただけのお話ですわ
「フィオレンツァ・ディ・ベルトロット」
王立学園の裏に呼び出された私は、私の名前を呼ぶお方を見つめますわ。
金髪碧眼の超絶美青年。
彼はノルベルト第一王子殿下。私の婚約者の兄に当たり、同時に幼馴染とも呼べるお方ですの。
彼は神妙な面持ちで私へ囁きましたわ。
「明日、君は婚約破棄をされるぞ」
「……そうですか」
私は長く息を吐きます。
殿下がこんな嘘を吐く必要もない事を考えれば、この話は真実なのでしょう。
正直潮時だとは思っていましたから、ショックは受けたものの、その事実自体は受け入れられない程のものではありませんでしたわ。
私は公爵家の長女として生まれました。
国でも有数の、高貴な地を引く貴族として私は幼い頃に第二王子レオポルド様の婚約者に選ばれましたの。
それからというもの、要領が悪い私には地獄のような淑女教育に耐え抜き、レオポルド様のご機嫌を取って生きてきましたわ。
しかしその努力も水の泡。
レオポルド様は学園で、セコンディーナ男爵令嬢に夢中になられましたわ。
同時に私に対しては常に嫌悪を向けてきましたもの。
彼の心が私の元にはないことなど、よくわかっておりました。
「気落ちしているようだな。まさかあの愚弟に恋心を抱いていた訳でもないだろうに」
「ええ、勿論。しかし……ここまで尽くしていただいた家族には申し訳がないと思っておりますわ」
「ああ、なるほど」
「それで、ノルベルト様がわざわざ私にその件を伝えに来た理由は何でしょうか」
「ああ、婚約破棄になる事を知ったので誰よりも先に予約しておこうと思ってな」
「なるほど。揶揄いに来たのですね」
いやこれ自体は事実なのだが、とまだ冗談を続けようとするノルベルト様の言葉を無視し続けていると、彼は一つの咳払いと共に漸く本音を吐きました。
「ポンコツの申し子とも言える君が、何もやらかさない訳がないからな。一枚噛んで当事者として観戦しようと思ったんだ」
「誰がポンコツの申し子ですの! 私はいつだって大真面目ですわ!」
「だからこそ面白いという事にそろそろ気付いた方が良いと思うが。まあいい。楽しみにしているよ」
これが、昨日の記憶になりますわ。
さて時は進み、学園内。
この日はダンスパーティーが行われておりましたから、皆着飾っておりました。
そして校舎の玄関口、大きな階段が備えられたロビーにて私はレオポルド様にこういわれました。
「フィオレンツァ・ディ・ベルトロット! 貴様との婚約を破棄する!」
ええ、ノルベルト様がおっしゃっていた通りだったのですわ。
まあ避けられはしない結果なのだろうと腹を括ってはいたつもりなのですが、それでもやはり何も感じないわけではありません。
レオポルド様の隣にはセコンディーナ嬢がいらっしゃいます。
お二人とも互いに腕を組んで、随分と仲睦まじい様子ですわ。
私はそのお隣に立つために、触れても許される立場を確立する為に、全てを捧げてきましたというのに。
努力の結果得たものがこんなにも虚しいものであったこと。それが悔しくてなりませんでしたわ。
けれど生憎と私が何を言おうと聞く耳は持っていただけないでしょう。
ですから私は心当たりのない冤罪をいくつもレオポルド様の口から投げられても、ただ静かにお辞儀をしてじっとしておりましたの。
そして彼が満足するまでお話した後、騒ぎを見守っていた皆様の視線があったものですから、家の名に泥を塗ることがないよう、全て事実無根であるという事だけ指摘をしましたわ。
やはりといいますか、レオポルド様は激昂し、余計にあれこれと心ないお言葉を投げ付けられましたけれども。
そういえば、とふと最近巷で流行りのロマンス小説を思い出します。
悪役を好んで演じるような御令嬢が主人公の物語。それが今の流行です。勿論私も目にした事はありました。
彼女たちのように華麗に強く振る舞うことが出来たなら、と私は思いましたわ。
私、実は相当心が脆いのです。
けれど完全に非があるのはあちらですのに、私だけが傷つくなんておかしな道理ですし、私が傷ついているという事実をレオポルド様方には知られたくありませんでしたわ。
ですから私は不敵に笑みを浮かべて、深々と頭を下げました。
「婚約破棄、謹んでお受けいたしますわ。どうぞお幸せに。まあ」
私は顔を上げて鼻で笑いましたわ。
「男爵家の御令嬢とのご関係が、どこまで公に認められるものであるのかは……大変見物でございますわね?」
「ひ、ひどい……っ! 私達は釣り合わないというんだわ!」
「なっ、フィオレンツァ!!」
これ以上長居をすればボロが出ます。
悪役令嬢としての皮を被れている間に、私は退散する必要がありましたわ。
ですから、速足で二人の横をすり抜け、階段を駆け上がります。
しかし、怒りで顔を真っ赤にしたレオポルド様は大きな足音を立てて私の後を追いかけてきました。
正直、非常に怖いですわ。彼は、感情に駆られると何をなさるかわかりませんでしたもの。
ですが振り返る訳にはいきません。
恐怖が滲むこの顔を彼に見せる訳にはいきません。
ですから前だけを向いておりましたの。
けれど……高いヒールの靴を履いておりましたから、どう頑張ったってレオポルド様の方が進む速度は速いのです。
「フィオレンツァッ!!」
私は階段の中腹辺りで彼にドレスの裾を掴まれましたわ。
「あっ!」
私は重心が傾き、階段から落ちそうになります。
しかしその時、正面に腕が差し出され、私の体を引き寄せる力があります。
お陰で今度は超絶前のめりになりましたわ。
急に前のめりになったものですから、私、今度は前に転びそうになったのですわね。
幸いにも私の体はどなたかに受け止めて頂けたのですが。
問題は、体勢を崩した時に投げ出された片足でした。
私、転び慣れておりませんものですから受け身の取り方も分からず……という言い訳が正しいものなのかもわかりませんが、とにかく、階段を踏み外した方の足を後方へ蹴り上げてしまいましたの。
すると、何かが突っかかる衝撃と共に私の靴が脱げ――
「フガァッ、ゴ……ッ」
というとても苦しそうな呻き声が聞こえましたわ。
何事かと、思わず私は振り向いてしまいました。
するとですね、あの……脱げた私の靴のヒールが、ですね、その――
――レオポルド様のお鼻の穴にしっかり入り込んでしまっていたのですわ。
お鼻の穴が三つに増えていなかったのは幸いでした。
いいえ。勿論安心している場合ではありませんのよ?
レオポルド様、鼻奥を強打なされたようで、鼻血を出していましたし、あまりの衝撃といたさに仰け反ってしまわれました。
そしてそのまま階段を転がり落ちたのですわ。
予想だにできない珍事件です。誰も彼もが呆然と、階段下に倒れるレオポルド様を見下ろします。
鼻血に塗れた彼は白目を剥いて伸びておりました。
暫くの沈黙の後。
「い、い……イヤァァァアアアアアアアッ!!」
色んな意味で戦慄した私が、産声以降初めての大絶叫をいたしました。
「ダハァッ!! だっはははは! あははは、ヒィ――wwww」
私を受け止めたお方――ノルベルト様はそれはそれは楽しそうに大爆笑。
王族という事も忘れたような品性のない笑い方をされていらっしゃいました。
「いやぁ! レオポルド様ぁ!! しっかり! しっかりなさってください!」
セコンディーナ嬢が必死にレオポルド様にお声を掛けますが、私とて同じ気持ちでしたわ。
先程まで抱えていた悲しみと、王族を害してしまった罪を負わなければならないかもしれない恐怖から半泣きになってしまいました。
「う、嘘ですわ……私、わたくし……な、なんてことを……きっと一族郎党首切りの刑に処されるんですわ…………うっ、ふ、うぅぅ……お父様お母様ごめんなさいぃぃ」
「ヒヒッ、クッ、ふふ……っ、やめてくれ、これ以上笑わせないでくれ、笑い死んでしまう……ッ」
嘆けばいいのか怒ればいいのか笑えばいいのか。訳の分からない空気を醸し出す空間で、野次馬の皆様は顔を引き攣らせております。
そんな彼らの空気を全て無視した上でノルベルト様は体勢を崩して自分にしがみ付いていたままであった私を優しく立たせてくださいました。
「フィオレンツァ、君やっぱり私と婚約しよう」
「な、ななななぁにを言っていらっしゃるんですかぁ!? 今冗談を言っている場合ではありませんがぁっ!?」
「いや。君は階段に落とされそうになった側だし、目撃者も数多いるから、無罪の為の弁明は出来るだろうが……一応あれでも王族だからね。何かあった時に同程度の地位を持つ者の後ろ盾があった方が安心できるだろう」
へらへらとしているノルベルト様を涙目で睨み付けた私でしたが、何と仰っている事は案外まともでした。
お陰で私の思考もやや冷静になっていきます。
「それに、今回みたく、君は君のポンコツを助けられるような人間と一緒にいた方が都合がいいだろう」
「ポンコツじゃありませんわ!」
「それに、君がこれまで努力して来た淑女教育も無駄にはならない」
ポンコツは訂正してくださりませんでしたが、ノルベルト様は私が落ち込んでいた理由を的確に見抜き、私の心を揺さぶります。
私の積み重ねて来たものが何も無駄にならない。それどころか王位継承権第一位の第一王子の婚約者になる事で、家の為になる。
冷静になった頭がその事を理解したところで、私は小さく頷きました。
「……やっぱなし、はなしですわよ」
「君が勝手に冗談だと取り合ってくれていなかっただけだが? 勿論だとも」
レオポルド様はその後、自力で起き上がり、「覚えていろよ!」などと宣いながら鼻を押さえて去って行き、セコンディーナ嬢もその後を追っていなくなりました。
「そういえば、ある童話では片方の靴を落としてしまう女性がいたね」
「はい。王子様が拾ってその女性に履かせるのですわ」
「そして姫として城へ連れ帰る、と……」
ノルベルト様は階下に転がった私の靴――レオポルド様の怪我の原因を見下ろします。
そしてそれを指しながら私へ笑顔を向けました。
「やっておくかい? 私のお姫様」
「……御冗談でしょう?」
私の靴にはレオポルド様の血も付着していました。
私は大きく肩を竦めて苦笑します。
「鼻血鼻糞付きのガラスの靴なんてお断りですわ」
「高貴な立場の人間がくそとか言う言葉を遣ってはいけないよ」
ノルベルト様はそう言って吹き出しながら、私を横抱きにしました。
「ひゃっ」
「では、新しいガラスの靴でも探しに行こうか」
私は落ちないように、慌ててノルベルト様の首に手を回します。
すると顔のすぐ傍で、彼と目が合いました。
私達はどちらともなく笑いを零しました。
それから私はノルベルト様に抱き上げられたまま、その場を離れます。
二度と足が通される事はないだろう、片方の靴を残したまま。




