涙
彼女はオレの顔を見て、安堵の色を浮かべた。
だがその顔には、隠しきれない疲労の色が見える。そんなお鶴に、オレは軽く会釈する。
「おおっ。そうじゃ」
円空はようやく書物を閉じ、孫子一三巻全てを積み上げると、オレの前に差し出した。
「拙僧には不要の書です。お前様がお持ちになり、役立てなさいませ」
「ありがとうございます」
「さて、これから他所で法事がありますゆえ、出かけます。お前様はどうぞごゆるりと」
円空はそう言うと立ち上がった。オレは円空に、これまでの礼と別れの言葉を述べ、庵の外まで見送った。
(オレに気を利かせて、お鶴とふたりきりの時間を作ってくれたんやろか……)
と思うと、胸に込み上げてくるものがあった。今後、師匠と再会のチャンスがあるのだろうか。非常に心許ない。
(信西め!)
やはり、京を離れるのが心残りである。
屋内に戻ると、お鶴はかまどに火を熾していた。
「夕餉の支度を致します。粗末な物しかご用意出来ませぬが、ごゆるりとなさって下さいまし」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
オレは一旦外に出ると、馬の背に括り付けていた行李を解き、座敷に戻る。
どのような手品を使ったのか分からないが、お鶴の手によりたちまち夕食の支度が整えられた。
お鶴が囲炉裏に向かい、楚々とした所作で座る。
「おそらく数日のうちに、九州に向け出立します。円空殿や貴女とお別れするのは非常に残念ですが……」
ふいに悲しみがこみ上げ、言葉に詰まった。
それを振り払うように、オレは、
「色々お世話になりました。こちらはこれまでのお礼です。お納め下さい」
と、行李をお鶴の前に差し出す。
「恐縮にございます。……こちらは、さるやんごとなき御方より、冠者へと」
逆にお鶴は、小さな封筒らしき物を、オレに差し出した。
中には熊野のお守りが入っていた。その添え書きに、オレは仰天した。
――武勇第一の若武者よ、異郷の地に在りても自愛せよ。
と、したためられている。
(……!)
それこそ先日拝見したばかりの、崇徳院様の筆跡ではないか。
「何故、斯様な……」
言葉に詰まった。
崇徳院様が、無位無官のオレなんぞに気遣ってくれるのも驚きだが、お鶴を通して下賜……というのも驚きである。彼女は一体何者なのか!?
しかしお鶴は、オレの驚きに何も応えてくれない。
「それから、こちらは冠者のために準備して参りました。是非お受け取り下さいますよう」
お鶴はさらに、風呂敷の包みをオレに差し出す。
解いてみると、それは“六韜”という書物、計六巻であった。
「支那の古い兵法書だそうです。他にも“三略”という三巻がございますが、あいにく書写が間に合いませんでした。そちらの“六韜”六巻分だけでもお受け取り下さいまし」
パラパラと頁をめくると、最後の最後まで、流れるように美しい文字である。
随分急いで書き写したらしい。六巻のラストは墨が乾き切らないまま書き進めたようで、ところどころに次頁の文字の墨が滲んでいる。
平成令和の世の書籍と異なり、一巻あたりの文字数は極めて少ない。しかしこれだけの漢文を手書きで完璧に筆写するとなると、大変な労力である。聞けば、最後は持ち主に無理を言って数日泊りがけで書き写したのだとか。
(ここまでの労力を、オレのために……)
オレの置かれている状況を察し、何とか間に合わせようと懸命に筆を走らせたに違いない。それが手に取るように解る。
言葉に、ならない。
「何とお礼を申し上げたらよいか……」
オレはお鶴に、深々と頭を下げた。
それからようやく、食事をとった。
ふたりの間に会話は無かった。共に碗と箸を置くと、オレはお鶴を見つめた。お鶴はオレを見つめ、そして黙って俯いた。
雨戸を打つ風の音が、少し激しくなったようである。
日中、急に気温が上がったせいだろう。昼夜の温度差が生じ、強風が吹いている。
お鶴は俯いたままだった。その白い頬に、一筋の涙が流れ落ちた。オレは胸を締め付けられる思いがした。
そっと、お鶴の脇ににじり寄り、お鶴の手を握りつつ肩を抱いた。
お鶴は声もなく大粒の涙を流し始め、オレの胸に顔を埋める。オレもただ黙って、お鶴を強く抱きしめ続けた。
粗末な庵の仄暗い囲炉裏の灯の中で、ふたりだけの儚い時間が、ただただ哀しく流れた。




