保元の乱って西暦何年やったかな
前世において、“院政”について、
――天皇が退位して上皇となり、政治の実権を握った。
と学校で教わった記憶がある。
「天皇には、直接政治を執り行うてはならぬ、という厳しい戒めがございましてな」
故に政治は必ず、全てを誰かに“信託”する規律がある、と円空は教えてくれた。
奈良平安の世においては、それを藤原氏に託しているらしい。
摂関政治という言葉がある。これは天皇から“うしはく者”として政治を託された者による、行政システムの事である。託された藤原氏は、天皇が幼い頃は摂政、成人後は関白となり天皇に代わって政治を行った。
ところが藤原氏は、そういった皇室の規律を巧みに利用し、ガッツリと政治の実権を握ってしまった。
何世代にもわたって一族の娘を皇后や中宮として送り込み、強固な外戚関係を構築したのである。そのため、もはや天皇皇室は藤原氏に対し一切口を差し挟めなくなっている……という。
「そこで白河天皇が、七〇年程前に上手いやり方をお考えなされた」
それが“院政”だ、というのである。
つまり白河天皇は、
「天皇の地位にある以上は、諸制約により政治を掌握出来ぬ。されば退位すれば、“八慎”をはじめとする諸制約から逃れられるではないか」
と思いつき、わずか八歳の皇子(堀河天皇)に譲位して自らは上皇となった。そして摂政や関白に代わって“院政”を開始し、実権を握った。
「ところが六条判官様のお仕えする崇徳上皇は、政治を行っておられぬ」
と円空は言うのである。
「現在の政治は、全て鳥羽院様が執り行うておられる。崇徳上皇は鳥羽院様によって天皇を退位させられ、近衛天皇がお立ちあそばされました。されど依然、あらゆる実権は鳥羽院様が握っておられまする」
なるほど。――
院政を開始した白河上皇は、以来、天皇及びその周囲に政治の実権を奪われぬよう、幼少の皇子を次々と即位させては短期間で退位させた。
その白河上皇ご自身は、当世としてはかなり長生きしたため、簡単に言えば「後が閊えている」状態らしい。白河上皇亡き後、やっと院政の政治基盤を継いだ鳥羽上皇が、いまだに実権を握っているという。
父、六条判官が仕える崇徳院とは、まさにその鳥羽上皇の皇子である。
もう随分前、数え五歳で即位し、二◯歳を前にして退位させられた。
「以来一〇年、未だ政治に携われぬ、いわばお飾りの存在におかれておられる」
オレの父・六条判官為義がお仕えしているのは、政治的実権のない“院”……即ち形だけの“政庁”らしい。
二つの院と朝廷、及びそれぞれを取り巻く藤原家各人の思惑が複雑に絡み、実に難解な状況になっているという。オレは円空から色々と聞き出し、当世の政治事情の一端を知った。
「ちなみに都がこの地に遷って、何年経ちますか?」
「そうじゃのう……」
円空は積み上げられた書物の中から“続日本後紀”や“扶桑略記”の写本を取り出し、指折り計算し始める。
「う~む。三六七年程ですかのう」
なるほど。平安京遷都が七九四年だから、今は……西暦一一六二年頃か。
(いや、ちゃうわ。西暦は太陽暦、この時代は太陰暦。確か太陰暦と太陽暦では一年の長さがちゃう筈やぞ)
再び円空に尋ねると、一年は三五四ないし三五五日だという。オレは手元の紙に数字を書き出し、筆算にて太陽暦一年三六五日に換算した。
(う~ん……。今はざっくり西暦一一五一年頃ということになるのか。一一九二作ろう鎌倉幕府、の四一年前やなあ。保元の乱って西暦何年やったかな)
円空はオレの書き散らした算用数字と筆算を見て、不思議そうな顔をしている。
「ちなみにそれがしは、近々崇徳院様に呼び出されるそうです」
と言うと、円空は院内での作法を色々と教えてくれた。
「天皇も上皇も、いわゆる神の如き御方であり、直にお声をおかけし会話するのは憚られます。必ずお付きの方に、言葉をお伝えなさいますよう」
「うわ。面倒臭い……」
「左様、作法とはそもそも面倒なものでござってな。……また何かを仰せ付けられても、まずは遠慮なさいませ。私め如きに左様な仰せは勿体無い、おこがましい……という意思をお見せするのです。それが作法の基本でございますぞ」
うわっ。――
オレは頭が痛くなってきた。
そんな思いをよそに、一月の末、オレはとうとう父・六条判官より、
「いよいよ明日朝、院に参るぞ」
と命じられた。
オレは元服式以来の武官束帯を着込み、特注の弓を携えて、父に従い崇徳院へと参内した。




