Day9「ぷかぷか」
花音ちゃんと約束したその日は、家から少し離れた駅で待ち合わせた。
約束の十分前に着いた俺は、スマホと花音ちゃんが来そうな方向を交互に見ていた。
「須藤さん! 早いですね、待たせちゃってすみません」
「いや、俺も今来たとこだから……」
いつもの決まり文句なのに、途中からうまく言えなくなった。
だってさ、花音ちゃんがワンピース着てるんだ。
前回出かけたときの服も、きれいだったしかわいかったし、(俺の情緒が)大変だったけど、今日のワンピースも、どうしようもないくらい可愛かった。
ふわっとしたスカートのワンピースにすっきりしたブレザーっぽいジャケットを着てて、スカートを風になびかせて駆け寄ってくる姿が愛らしくて、背が高いからスタイルもすごく映える。いや、そもそもスタイルがいいんだろうけど、それがさらにマシマシで……もう、どうしようもなく好きだった。手遅れなのは、とっくの昔だ。
「須藤さん?」
黙ってしまった俺を、花音ちゃんが不安そうに覗き込む。目尻が少しキラッとしてて、いつもはしてない化粧もわざわざしてくれたのかと思うともう……。
「ごめん、あんまり可愛くて……ちょっと驚いた」
「えっ、あ……、えっと、須藤さんも……かっこいいです」
「あ、ありがと。行こっか」
「はい!」
二人でそわそわしながら歩き出す。……緊張しすぎて、少し浮き足立ってたかもしれない。それくらい、脚の感覚がふわっふわだった。
「本格的な品評会というより、お祭りの中で『一番人気を決めよう!』みたいな企画みたいです」
電車に乗ってすぐ、花音ちゃんがスマホの画面を差し出してきた。
画面には、「○○市民祭り」と大きく表示されている。
「ああ、お祭りだから、車じゃ行けないのか」
「そうなんです。縁日も出るみたいで。たこ焼き、一緒に食べましょう」
笑顔の花音ちゃんが可愛くて、気づけば目が離せなかった。
スマホを少し覗き込むと、ふわっといい香りがした。思わず深く吸い込みたくなるけど、ぐっとこらえる。……いつか、自然に許される距離になれたらいい。
「うん、せっかくだし、ゆっくり見て回ろう」
そう言うと、花音ちゃんが嬉しそうに笑った。なんでもないその笑顔に、思わず胸が詰まって、俺は次の言葉を飲み込んだ。
半月ほど前、花音ちゃんの様子がどこか不自然だった。
はっきり理由はわからなかったけど、何か引っかかって、瑞希に電話をかけた。
……そのとき、電話越しに聞こえてきたのは、「私じゃなくてもいいじゃんって思っただけ」という言葉だった。
瑞希は冗談っぽく「藤乃が泣くぞ」なんて笑ってたけど、実のところ、少しだけ泣いた。
どうして、そんなふうに思わせてしまったんだろう。
俺には、花音ちゃんじゃなきゃ意味がないのに。
翌日、バイトに来ていた葵と、たまたま一緒に来た理人にその話をすると、葵が不思議そうに首をかしげた。
それから、前の日に、母親と三人で花音ちゃんと話した内容を教えてくれた。
「それ、完全に原因じゃないですか」
理人がじっと葵を睨んだ。俺はその二人を交互に見て、葵は目を丸くした。
「え、なんで」
「気になってる相手のことを、他の女の子から“知った風”に話されたら、普通は嬉しくないですよ」
「……そんなつもり、なかったんだけど……」
「菅野さん、自分の顔の攻撃力にまだ気づいてないんですか?」
その言葉で、俺も理人の指摘がようやく腑に落ちた。
……花音ちゃんだってかわいいのに。俺からしたら、世界で一番かわいい女の子なのに。
葵も可愛いけど、俺の中ではまったく別の枠だ。
「……ごめん、藤乃くん」
「いや、俺に謝ることじゃないけどさ」
「藤乃くんが、初めて女の子を好きになったから……私の方が舞い上がって、余計なことしちゃった。ごめん」
葵は唇をきゅっと結んで、うつむいてしまった。
葵に泣かれるの苦手なんだよな……。
「気にしてるなら、次から気をつけてくれればいいよ。もう、謝らなくて大丈夫だから」
「……うん。お店の前、掃いてくる」
箒を手にした葵は、少し肩を落としながら外へ出ていった。
残された俺と理人は、なんとなく顔を見合わせた。
「菅野さんも、反省とかするんですね」
「お前、葵のこと何だと思ってるんだよ……」
あまりの言い草に聞き返すと、理人からはもっと辛辣な答えが返ってきた。
「無駄に気が強くて、鉄面皮だと思ってます。学校でも、外面だけはいいから苦労してるんですよ。相変わらず僕を男除けに使うし、男子からはやっかまれるし、女子には『江里くんって、菅野さんと付き合ってるんでしょ』ってチラチラされるし……ほんと、面倒くさいんです」
まだ、こいつらそんな関係続けてたのか……。
俺の記憶だと、葵が理人を男除けに使いはじめたのは、小学生の頃の塾からで、理人も同じように葵を利用してた。
まあ、なんだかんだで気が合うらしくて、高校も一緒、今も同じ大学で、しかも同じゼミ。もう腐れ縁みたいなもんだ。
……別に狙ったわけじゃないけど、あいつらを引き合わせたの、俺だしな……。
「まあ、菅野さんのことですし、明日にはケロッとしてると思いますよ。明日は網江さんが迎えに来るって言ってましたし」
「朝海が? なら安心だな。……で、お前は今日は何の用?」
「管理してるマンションの庭木、そろそろ入れ替えようかと思って。相談に来ました」
「へいへい。それで、どこの現場?」
理人の祖父はマンションやアパートを何棟か持ってて、理人はその管理をバイトで任されてる。
だから、こうして相談に来ることもあるし、逆に俺や親父が理人の祖父のところに出向くこともある。
それはいいんだ。
……結局、花音ちゃんの様子が変だった理由は、分かったような、やっぱり分からないような、そんな感じだった。
でも、「私じゃなくてもいいじゃんって思っただけ」って言葉は、やっぱり刺さった。
そんなふうに思わせてしまったのは、男として情けない話だと思う。
そのあと、花音ちゃんがデートに誘ってくれたのは嬉しかったけど……。
……でも、もう二度とあんなことを思わせないように、俺が何かしないといけない。
何をすればいいのかは、まだはっきりしないけど。
電車で数駅揺られて、ターミナル駅に着いた。人混みに慣れてないから、改札まで行くだけでもひと苦労だ。
「花音ちゃん、大丈夫?」
「はい。でも……逸れたら困るので、その……」
その言葉のすぐあと、花音ちゃんが人波に揉まれていった。
慌てて手を伸ばして、花音ちゃんの手を掴んだ。
「迷子にならないように、手、繋いでていい?」
「……お願いします」
花音ちゃんのやわらかい手をそっと握ったら、かすかに握り返されて、胸がぎゅっとなった。……持って帰りたい。
「行こうか」
「……はい」
いつもより、ほんの少しだけゆっくり歩き出した。
改札を抜けて、お祭りの会場へ向かう。相変わらずすごい人混みだけど、みんな進む方向が同じだから、歩くのはそこまで大変じゃない。
「そういえば、品評会ってバラのそばにいなくていいの?」
「それがですね、数年前に、バラの隣にきれいなお姉さんを立たせて票を稼いだ人がいたらしくて……。だから今回は、市の園芸サークルの方が紹介と販売を担当してくださるそうです」
「なるほどね……。俺も花音ちゃんに勧められたら、全部買っちゃいそうだし」
「ちゃんと見てくださいね?」
「……努力します」
「もー」と笑う花音ちゃんを見ながら歩く。
今回はお祭りの一環だから、バラの横にシールを貼るボードが用意されてて、その数で人気を競うらしい。
市が主催してるから、優勝すると名前付きで市役所や保健所なんかの公共施設に飾られるらしくて、実績を作りたい園芸家たちで、毎年にぎわってるらしい。
品評会用の大きな鉢に加えて、小さめの鉢や切り花も並べて売るらしくて、それも俺の楽しみのひとつだ。
しばらく歩いて、お祭りの会場に着いた。
バラは手前にずらりと並んでいて、ふんわりいい匂いが漂ってくる。
「花音ちゃんのは、どこ?」
「奥の方です。手前は一般の園芸家さんたちの作品で、奥に農家の出品が並んでいます」
「手前から、順に見てっていい?」
「はい! 私も他の方のバラ、見たいです」
手をつないだまま、ゆっくりと見て回る。気になったバラがあれば、紹介文ごと写真に撮っておく。
全部で十点ほどだったから、すぐに花音ちゃんのバラのところまでたどり着いた。
「これ、なんですけど……どう思いますか?」
無言でそのバラを見つめた。透けるような繊細な色に、幾重にも重なる大ぶりな花弁――見事に華やかだった。
「……花音ちゃんの作るバラって、華やかだよね」
「そ、そうですか? ……そうかな……そうかも」
この華やかなバラは、たぶん……鈴美が作るアレンジに、よく映えるんだろう。
俺の個人的な好き嫌いと、プロとしての目線――どっちを優先するべきかって話なんだろう、きっと。
「花音ちゃん」
「は、はいっ!」
「……このバラって、他の色もある?」
「はい、たくさんじゃないですけど……」
「これさ……」
言いかけて、花音ちゃんの顔を見る。不思議そうに首をかしげて、俺を見返してくる。
つないだ手を、そっと少しだけ強く握ったら、花音ちゃんも同じように握り返してくれた。
……だから、大丈夫。
「このバラ、鈴美に紹介してもいい?」
「えっ、え……?」
「ここだと邪魔になっちゃうから、移動しようか」
ぽかんとした花音ちゃんの手を引いて、屋台の方へ歩き出す。たこ焼きとロングポテト、それに唐揚げを買って、近くのベンチに並んで腰かけた。
「こないだ行った展覧会の目録見た?」
「はい。何度か見返してます」
「鈴美のアレンジって基本的に派手だよね。豪華で、迫力がある」
ポテトをかじる。やたらしょっぱい。唐揚げは少し硬くて、もう冷めかけてた。
「花音ちゃんの作るバラならそこで主役を張れると思うんだけど、どうかな」
花音ちゃんの手元でたこ焼きが崩れて、ソースが口元についた。そっと手を伸ばして拭ってやると、花音ちゃんがぴくっと跳ねた。
「あ、あの……ちょっと、考える時間もらえますか?」
「もちろん。急にごめんね。食べたら戻ろう。まだ投票してないし」
ポテトと唐揚げを花音ちゃんに勧めて、代わりにたこ焼きをひとつもらう。熱さに驚いて、思わずむせた。
……半分は、意地だと思う。
これでもかってくらい嫌な思いをさせられたあいつらを、見返したい。
俺が花を選ばなきゃ、鈴美なんてろくにアレンジ作れないんじゃないかって、そんなふうに思っちゃってた。
それに、花音ちゃんを巻き込んでるのも悪いなって思う。
ついぼんやりしてたら、花音ちゃんが俺の顔を覗き込んでいた。
「……須藤さん」
「ん、なに?」
「……今はデート中なんですから、他の人の名前、出さないでください」
言葉に詰まる。
俺は、どうかしてる。
こんなにかわいい子が目の前にいるのに、なんで俺は、嫌いなやつのことなんか考えてたんだろう。
「ごめん……どうかしてた」
少し泣きたくなったけど、花音ちゃんが手を握ってくれてるから、ちゃんと我慢できた。
「俺からも、お願いしていい? せっかくのデートなんだし……名前で呼んでほしい。俺も、そうしてるし」
「……わかりました。藤乃、さん?」
「……ありがと。あと、もうひとつ。連絡先、教えてもらってもいい?」
「はい!」
花音ちゃんがスマホを取り出して、画面を向けてくれるので、カメラで読み取る。
無難なスタンプをひとつ送る。すぐに既読がついて、無性に安心した。
「じゃあ、行こうか」
ゴミを捨てて、また手をつなぐ。そっと握ったら、そっと握り返されて――それだけで、なんだか救われた気がした。
祭り会場の入り口まで戻って、気に入ったバラにシールを貼る。
花音ちゃんのバラの前でさんざん悩んだ末に、小さな鉢を買った。
「言ってくれれば、ご用意しますよ?」
「だめだよ。プロの作品なんだから、ちゃんとお金払わせて。……これって、量産できる?」
「そんなにたくさんは作れません。優勝できたら、あちこちに卸すことになるので……たぶん、それで終わりです」
「そっか、残念」
「……もし優勝できなかったら、そのときは、よろしくお願いします」
自信なさげに肩を落とす花音ちゃんを覗き込んだ。
「そういうこと言うもんじゃないよ」
「すみません、甘えました」
「それは全然大丈夫。いくらでも甘えていいよ」
また歩き出す。
屋台を見て回って、綿飴を食べて、ぶらぶらと歩き回る。
隣に花音ちゃんがいると、つい顔がゆるむけど、それすら笑ってくれる。……すごく、許されてる気がする。
「藤乃さん、時間大丈夫ですか?」
「うん、そんなに遅くならなければ。どこか行きたいところある?」
「またバラを見に行っていいですか? その、投票がどうなったか、バラが売れたか見たくて」
「行こう」
手を引いて戻ると、切り花は全部なくなっていた。……やっぱり、一本くらい買っておけばよかったかも。
二人で少し離れたところから品評会の様子を眺める。他のバラも、切り花はほとんど残っていない。
「ちゃんと売れて、よかったです」
「きれいな花だから。当然だよ」
「えへへ、藤乃さんにそう言ってもらえると嬉しいです」
「……花音ちゃんって、ほんとにかわいいね」
「んっ……!? いま、バラの話してたんですよね?」
顔を真っ赤にして慌てる花音ちゃんに触れたかったけど、両手がふさがっていた。
片手はバラの鉢を下げていて、反対の手は花音ちゃんとつないでいる。
「これ、投票結果っていつ出るの?」
「たぶん、そろそろ出ますよ。終わる前にこの展示のバラも売り出すので」
「そうなんだ。そっちを買えばよかったかも」
「もし売れ残ったら、もらってやってください」
相変わらず自信なさげな花音ちゃんだけど、たぶん残らない。見ている間に鉢もなくなってしまった。買っておいて、本当によかった。
やがて市の職員がやってきて、投票用のボードを回収していく。
花音ちゃんが目に見えてソワソワし出したので、写真を撮ろうとしたら怒られた。
「だって、かわいかったからさ」
「もう、かわいいって言えば何でも許されると思ってません?」
「本当にかわいいよ?」
「……そんなこと、ないです」
「ある。絶対にある」
きっぱり言うと、花音ちゃんは唇を尖らせて黙ってしまった。
葵みたいに「私、かわいいから! かわいいから!」って言えとは思わないけど、もうちょっと自信を持ってくれてもいいのに。
……自信のなさは、お互い様なのかもしれないけど。
そうこうしている間に、職員がマイク片手に戻ってきた。
「ただいまより、バラの投票結果を発表いたしまーす」
花音ちゃんの手が、ぎゅっと握られた。
眉間にうっすらシワが寄っていたから、つないでないほうの指でそっとなぞったら、花音ちゃんが目を丸くして、やっと少しだけ笑ってくれた。
結果だけ言えば、花音ちゃんのバラは優勝を逃した。
でも、運営していた園芸サークルの会長が気に入ったとかで、市内の公園に植えたいからと大口の注文が入ったそうだ。
……しばらく店に入れられそうにないのは、嬉しいような、ちょっと寂しいような。
花音ちゃんと会長の話が終わるのを待って、一緒に駅に向かう。
「最寄り駅まで送るよ」
「遠回りになっちゃいますよ?」
「その分一緒にいられるでしょ」
「……じゃあ、お願いします」
でも、別れるのが惜しくて、なんだか言葉が出てこなかった。
次にこうやって出かけられるのはいつになるだろう。
あー、でも、ひとつだけ、言っておきたいことがある。
花音ちゃんの最寄り駅で電車を降りて、ホームのベンチについてきてもらった。
手をつないだまま、並んで座る。
「さっき言った……鈴美の話は無しにさせて。俺に復讐とかそういうのは向いてないみたい」
「……わかりました。でも、鈴美さんのアレンジに私の花を使いたいときは、ちゃんと言ってください。ご希望の品をご用意します」
「ありがと。本当はさ、恨んだってしょうがないんだよな。疲れるし、そもそも考えたくないじゃん、嫌いなやつのことなんて。できれば、もう忘れてたいよ」
思わず弱音が漏れたら、花音ちゃんがそっと俺の顔を覗き込んだ。
「忘れられませんか?」
「……んー、たまに夢に出てくるかな。花音ちゃん以外でいいなんて、あるわけないから。……また、どこか行こう」
「な、なんでそれを……? でも……はい、行きましょう。また、デートしましょう。図々しいかもしれませんけど、忘れちゃえばいいんです。私だけでいいじゃないですか」
「ほんとにね……。ありがと。遅くなるし、そろそろ帰ろうか」
ここで帰さなきゃ、本当に手放せなくなる気がした。
なんで、俺が欲しい言葉をわかってくれるんだろう。
「……わかりました。藤乃さんもちゃんと帰ってくださいね? あとで確認しますから」
「ちゃんと帰る。改札まで送るよ」
立ち上がって、並んでゆっくり改札へ向かう。
別れがたくて、つい手を強く握ってしまった。なんか、毎回こうなっちゃう気がする。
「今日は付き合ってくれてありがとうございました」
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう。気をつけて帰って」
「はい。藤乃さんも」
そっと手を離す。
花音ちゃんは改札を抜けて、何度も振り返りながら歩いて行った。
手を振って、見えなくなるまでそこに立っていた。
ホームに戻って電車に乗り込む。座ったら、たぶん気持ちが崩れそうで、立ったまま外を見ていた。
「……やっぱり、欲しい」
俺は、何が何でも、あの子が欲しい。
会う前は、ただぷかぷかと浮かれてた。でも今は、体の奥が熱くて、どうしようもなかった。