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Day7「あたらよ」

 初夏の早朝。母親と市場から戻ってきて、鼻歌まじりに店先を掃き、箒をしまう。

 注文のブーケを仕上げて、ついでに店頭用のアレンジも作るか……そんなことをぼんやり考えていたら、鋏で手をやってしまった。


「痛っ……」


 手のひらを見たら、赤くなってるだけで血は出てなかった。まあ、これくらいならいいか。

 花音ちゃんとの初デート以来、我ながらずっと浮かれ気味だった。

 葵にも母親にも呆れられたけど、それでも、俺は気にしてなかった。


 ……鈴美に花音ちゃんのことを聞かれて、思わず声を荒げそうになった。

 鈴美の父親……伯父に散々罵倒されたことを思い出して、花音ちゃんまであんなふうに言われたらと思うと、胸がざわついて、じっとしていられなかった。

 でも、キレ散らかす前に花音ちゃんが止めてくれたから、怒鳴らずに済んで、せめて作品の感想だけは伝えられた。

 鈴美の顔は見られなかったけど、それでも、俺からすれば進歩だと思う。

 その後もずっと手をつないでてくれて、帰りにはまた一緒に出かけようと言ってくれた。

 星の明かりだけが照らす夜空の下で、俺を見つめる花音ちゃんは本当にきれいだった。気づけば、顔を寄せかけていた。

 あの一瞬を、そのまま額に入れて飾っておきたいくらいだった。

 終わりが名残惜しくて、最後まで情けなかったかもしれないけど。

 これで浮かれずにいられるかって話だ。無理。足元がふわふわして、ほんと、物理的に浮きそうなくらいだった。帰りに事故らなかったのが奇跡みたいなもんだ。

 それに今日は、デート以来初めて花音ちゃんが納品に来るって言ってた。

 お茶とお菓子も用意したし、店もちゃんと片づけた。楽しみだ。



 夕方、バイトに来た葵に店を任せて、店の倉庫の花の手入れをしていたらエンジン音がした。急いで駐車場に向かうと、やっぱり花音ちゃんだった。俺に気づいて、小さく手を振ってくれる。


「須藤さん、お待たせしました。クレマチスとアジサイ、お持ちしました」

「ありがとう、花音ちゃん。……あれ、顔、赤くない?」


 花音ちゃんの顔が、やけに赤い。夕日に照らされてるからかとも思ったけど、それにしたって真っ赤だし、目が潤んでいる。


「……ごめん、ちょっとおでこ、触るよ」

「はい……?」


 しっとり、というか、じっとり熱くて……これは完全に熱がある。


「花音ちゃん、ちょっとごめんね。嫌だったら、元気になったときに文句言って」

「ふえ?」


 うつろな目で首をかしげる花音ちゃんの脇と膝裏に手を差し込む。

 脚と腰に力を入れて、持ち上げると小さく悲鳴が上がった。


「おとなしくしてて」

「え、あの、なんで……?」

「けっこう熱あるよ。自分じゃ気づかなかった?」

「……なんか寒いなあって思ってました」

「とにかく事務所まで運ぶから。ちゃんと掴まってて」

「はあい」


 いつもより低くて、やわらかく溶けるような声が耳元に落ちた。

 そわそわはしてるけど、それどころじゃない。苦しそうな息づかいとか、ぼんやりした目つきとか、熱い体をなるべく意識しないようにして、揺らさないように気をつけながら、大事に抱えて事務所へ向かう。


「葵! タオル、濡らしてきて!」

「なに? えっ、花音ちゃん? どうしたの?」

「納品に来てくれたんだけど、すごい熱あってさ。椅子、背もたれ倒して。ありがと」


 椅子の背もたれを倒して、花音ちゃんをそっと座らせる。葵が持ってきた濡れタオルを額にのせた。


「俺は花音ちゃんの家に連絡して、花を運んでくる。葵は母さん呼んで。今、奥で親父と一緒に庭木の手入れしてるから」

「わかった」


 葵が裏口から飛び出していく。俺はスマホで瑞希にかける。

 瑞希は二コールで出てくれた。すぐに状況を伝える。


「マジかよ、えー、どうしよっかな」

「今日の配達は終わってる?」

「うん。基本的にお前んとこを最後にしてるから、他はもう大丈夫」

「じゃあ、俺が送っていくから。帰りはお前が俺を連れて帰って」

「悪い。こっちはなんとかしとくから、出るときに連絡くれ」

「わかったよ。お義兄さん」

「きめえなあ……」


 電話を切って顔を上げると、母親が来ていて、花音ちゃんの額に冷却シートを貼っていた。


「お店は私と葵ちゃんで見てるから、花音ちゃん、送ってあげて」

「親父のほうは?」

「もうほとんど終わってたから大丈夫。お義父さんがちょうど戻ってきたしね」

「……親父とじいさんで補修やってんのか。喧嘩してない?」

「放っときゃいいのよ。花音ちゃんが持ってきた花は……あ、葵ちゃんがやってくれてるのね。なら大丈夫。ほら、行った行った。由紀さんとこ出るときに連絡して」

「ありがと」


 店のエプロンを外して、真っ赤な顔でぼんやりこっちを見ている花音ちゃんの横にしゃがむ。

 そっと手を取ると、花音ちゃんはやっぱりぼんやりした瞳を俺に向ける。


「花音ちゃん、由紀さんの家まで送るから、車の鍵貸してくれる?」

「……でも」

「気になるなら、今度またデートしてくれたらいい。次は俺から誘うから」

「……それ、私が嬉しいやつですよ……」

「花音ちゃんが喜んでくれたら俺も嬉しいから。家まで送らせてくれる?」

「はい……」


 ぽやっとした表情のまま、花音ちゃんは胸ポケットから車の鍵を出してくれた。


「……母親の前で、よく女の子を口説けるわね……」

「藤乃くん、手慣れてる……? え、私の知ってる藤乃くんじゃない……」


 やかましい母親と葵を睨む。

 つーか、母親と弟子兼妹もどきの葵と、花音ちゃんへの対応が同じなわけないだろ。


「うるせえなあ。とにかく行ってくるから」

「はいはい、病人は休ませてあげなさい。くれぐれも自重してよね」

「母親がそういうことを言うな!」


 花音ちゃんを正面から抱き上げる。葵が扉を開けてくれたので、小さく「サンキュ」と言って店を出た。

 駐車場で、由紀農園の車の助手席に花音ちゃんをそっと座らせた。


「すみません……」

「そう思うなら、早く元気になってね」

「……はい」


 シートベルトを締めてもらってから、運転席に回る。瑞希に「今から送る」とメッセージを入れてから、エンジンをかけた。


「気をつけるけど、気持ち悪かったら言ってね。着くまで寝てていいよ」


 花音ちゃんが小さく頷いたのを見てから、ギアを入れる。



 由紀農園に着くと、駐車場で瑞希と花音ちゃんのお袋さんが待ち構えていた。


「ごめんなさいね、藤乃くん。わざわざ送ってもらっちゃって。やあね、真っ赤じゃないの」

「いえ、こちらこそ、いつもお世話になってます。瑞希は?」

「手が離せなくてね。悪いけど、花音を部屋まで運んでもらえる?」

「……さすがに、部屋まで入るのは気が引けますけど……」

「母親が良いって言ってるのよ。それに藤乃くんは熱を出している花音に手を出すのかしら?」

「そう言われたら断れませんね。花音ちゃんに嫌われたら、責任とってくださいよ」

「任せておいて」


 車の鍵をお袋さんに返してから、花音ちゃんを抱き直す。


「ごめ……なさ……」

「いいよ。落とすといけないから、ちゃんと掴まっててね」

「はい……」


 寝てたからか、花音ちゃんの体はますます熱くて、まるでこのまま溶けちゃいそうなくらい汗をかいてた。

 落とさないように慎重に抱えて、お袋さんのあとを付いていく。


 由紀さんの家に上がって、二階の花音ちゃんの部屋に通してもらう。

 あんまりキョロキョロしないようにしつつ……なんか、いい匂いするし。俺があげたシャクヤクのドライフラワーとか、一緒に行った展覧会の目録まで飾ってあって……。


「花音ちゃん? 下ろすよ」

「……はい」


 花音ちゃんをそっとベッドに寝かせる。

 真っ赤な顔のまま、ぐったりと倒れ込んでしまって……見てるだけで胸が痛む。


「ありがとうね、藤乃くん。良かったら夕飯食べていって。須藤さんには私から連絡するし、瑞希にも一緒に食べさせてから送らせるから」

「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいます」


 お袋さんに頭を下げて、ベッドを離れようとしたとき、何かに引っかかる。

 振り返ると、花音ちゃんが俺のズボンの膝あたりを掴んでいた。

 ベッドの横にしゃがみこんで、花音ちゃんの顔を覗き込む。熱でとろんとした目で見つめられて……いつか、風邪じゃないときに、そんな目で見てくれたらいいのに、なんて思ってしまった。

 余計な気持ちは押し込めて、できるだけやさしく声をかけた。


「花音ちゃん、俺、そろそろ行くね。ゆっくり休んで」

「ありがと……ございました……。ばんそこ……貼っていって……」

「ばんそこ……絆創膏?」

「手……怪我してるでしょ、藤乃さん……」


 一瞬、なんて返せばいいかわからなかった。

 朝、手のひらに鋏を刺したところが、気づいたら血豆になっていて痛かった。

 でも忙しかったし、手のひらなんて絆創膏したら邪魔だから放っておいた。

 こんなに熱があって苦しそうなのに、そんな俺の手を気にしてくれたのかと思うと、胸が詰まって言葉が出てこなかった。


「……ありがとう、花音ちゃん。ちゃんと絆創膏貼るから、花音ちゃんもしっかり休んで。おやすみ」

「うん」


 花音ちゃんがそっと目を閉じたのを見届けて、ゆっくり立ち上がった。

 部屋を出ると、いつのまにかお袋さんが救急箱を持って待っていた。


「怪我してるの?」

「今朝、鋏が手のひらに当たっちゃって」


 手を開いて見せるとお袋さんは「んー」と呟く。


「絆創膏が貼りにくいわね。下に行きましょう」


 一緒にリビングに下りて、大きな真四角の絆創膏を手のひらに貼ってもらう。ちょっと邪魔だけど、しょうがない。花音ちゃんと、貼るって約束したし。


「ごはん用意するから待っててね」

「ありがとうございます」


 でも、じっと座ってるのも落ち着かなくて、結局は配膳を手伝ったり、サラダを取り分けたりしているうちに、瑞希と親父さんが帰ってきた。


「悪いね、藤乃ちゃん。飯の支度まで手伝わせちまって」

「いえ、座ってるのも落ち着かないので」

「藤乃ちゃんなら……まあ、俺も諦めがつくさ……」


 親父さんがビールを取り出して呟く。

 ……何も言ってないのに、周りだけが勝手に納得していく……。

 瑞希を見ると既に飯を食い始めている。お前も手伝えよ……。


「藤乃も食えって。お前が終わんねえと、送ってけねえんだから」

「……そだね」


 手を合わせてごはんを食べる。

 子どものころから、なんやかんやたまにごはんを食べさせてもらってたから。実家とは違うけど、どこか懐かしい。


「ごちそうさまでした。美味しかったです」

「そう言ってもらえると嬉しいわ。うちの人たち、なーんにも言わないんだから」


 お袋さんが肩をすくめる。


「俺も家だと言わないです」

「はいはい、行くよ」


 瑞希がさっさと玄関に出ていったから、俺も軽く頭を下げて、おいとまする。

 玄関を出ると、瑞希が待っていた。一緒に並んで歩き出す。


「悪いな、わざわざ花音送ってもらって」

「役得だったし。あとは元気になってくれたら、それで十分」

「そうかよ。すっかりうちの親もそういう気だし」

「俺、花音ちゃんになんも言ってないけど」

「だよなあ。花音だって……ま、俺が言うのは野暮か」

「聞かなかったことにしとく」

「助かる」


 そのまま二人で車に乗り込み、家まで送ってもらった。

 初夏の夜空は、どこか明るい。月が冴えていて、星もちらほら光ってる。

 きれいな夜だったけど、隣に花音ちゃんがいたら――きっと、もっときれいだったんだろう。

 

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