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Day3「鏡」

 その朝、俺は少し緊張しながら、由紀農園に向かった。

 瑞希の親父さんは、冬ごろから腰の調子が悪かったらしい。長引いてるみたいで、検査入院することになったそうだ。

 検査の三日間だけ手を貸してくれないかって、瑞希とおばさんが、うちの母親に頼んだらしい。母の日が終わって、店がひと息ついたタイミングだったから、母親が引き受けてきた。

 小さい頃は親父にくっついてよく遊びに行ってたし、大学のときもちょくちょく手伝ってたから、行くのは気楽なもんだ。


 ……それに、花音ちゃんにも会えるかもしれないし。


 俺が大学生だった頃、花音ちゃんは高校生で、部活が忙しくて顔を合わせることはなかった。

 だから、今の花音ちゃんが、あんなに綺麗になってるなんて思ってもなかった。


 そういうわけで、朝一から瑞希の家に行ったら、玄関に出てきた花音ちゃんは、ぽかんとした顔でこっちを見ていた。Tシャツとジーパンのさっぱりした格好だけど、背が高いからすっきり見えてよく似合ってる。……やっぱり、かわいいし、どこかかっこよさもあって、目を奪われる。


「えっと……あの、どうして……?」

「瑞希とおばさんから聞いてない? おじさんが入院中だから、手伝いに来たんだ」

「……聞いて、ないです……」

「えー、そっか。ごめんね急に。驚かせちゃって。瑞希は?」

「まだ、市場から戻ってないんです。でも、手伝いに来てくれたんですよね? ごめんなさい、びっくりして……。どうぞ、上がってください」


 花音ちゃんはまだ戸惑ってる様子だったけど、「どうぞ」と部屋の中を手で示した。

 ……これ、本当に上がっていいんだろうか。

 女の子一人の家に入るのって……やっぱり、ちょっと気が引けるな。瑞希の家だけど……。


「ふじ……いえ、須藤さん?」

「今、家に花音ちゃんしかいないよね? だったら、外で待ってようかな。……女の子ひとりの家に入るのって、ちょっと……その、気が引けるというか……」

「……なら、ちょっと待っててください」


 花音ちゃんは驚いたように目を丸くして、それからすぐに部屋の中に戻っていった。

 ほどなくして、水筒をふたつ抱えて戻ってきた。


「こっちです」


 玄関の長靴を履いて、花音ちゃんは俺の方を振り返りながら、外に出た。

 ついて行った先は俺が車を止めさせてもらった駐車場のすぐ横の温室だった。


「……ここ、どうぞ」

「……ありがとう」


 温室の前にあるベンチに誘われて、花音ちゃんと並んで腰を下ろす。

 花音ちゃんは間に水筒を置いた。


「これ、良かったら……。ただの麦茶ですけど」

「ううん、す……ありがとう。いただきます」


 あぶな……。嬉しすぎて、思わず「好き」って言いそうになった。

 一人で勝手にドキドキして、水筒をそっと受け取った。

 麦茶って……こんなに美味しかったっけ?

 花音ちゃんも隣に座って、静かに水筒を傾けていた。


「……もしかして、つきあってくれてるの?」

「まあ……。せっかく来てくれたのに、ほったらかすわけにいきませんよ」

「ありがとう。あ、そうだ、聞こうと思ってたんだけど……花音ちゃんが育ててるチューリップって、ピンク以外にもあるの?」

「ありますよ」


 花音ちゃんがスマホを取り出して、いくつか写真を見せてくれた。

 どれも発色がよくて、花の形も整っている。


「うん、どれも素敵だね。来年が楽しみになるよ」

 そう言って顔を上げたら、思った以上に花音ちゃんの顔が近くて、思わず後ろにのけぞった。

 ……これくらい背が近いと、キスしやすいんだろうな、なんて考えてたら、エンジンの音が聞こえた。


「あ、瑞希帰ってきましたね」

「……うん。ありがとう、一緒に待っててくれて」

「いえ、すみません、こんな場所で待たせちゃって……」


 “こんなところ”なんかじゃないのに、そう言う前に花音ちゃんはもう、トラックのほうへ歩いていってしまった。

 ちゃんと瑞希が帰ってきたらすぐわかるような場所で、飲み物まで用意して、ずっと隣にいてくれた。その優しさだけで、ここは十分すぎるくらい素敵な場所だった。


「悪いね藤乃。道混んでてさあ」

「大丈夫。花音ちゃんが一緒にいてくれたから、もう一週間くらい帰ってこなくても平気だった」

「そうなったら花音も連れてっていいから自分の家に帰ってくれ。んで、こっちの畑なんだけどさ」


 瑞希について畑に向かう。

 振り返ると花音ちゃんはおばさんと一緒にトラックの片づけをしていた。

 水筒、ちゃんと後で返さなきゃな。


 昼頃、花音ちゃんが弁当箱を二つ手にして顔を見せた。


「これ、花音ちゃんが作ってくれたの?」

「いえ、母が作ったので、安心してください」

「……そっか。わざわざ持ってきてくれて、ありがとう」


 食べたかったな、花音ちゃんの手作り弁当……。

 水筒も減ってるだろうからって、朝のと交換してくれた。至れり尽くせりで驚く。

 畑の隅のベンチで瑞希と並んで昼をとるのは、バイトの頃からずっと変わらない。


「そういえば、昔、花音ちゃんが作ってくれた杏仁豆腐、あれ美味しかったよ。言いそびれてた」

「杏仁豆腐……?」

「それ、いつの話だよ」


 花音ちゃんと、さっさと食べ始めた瑞希が首をかしげる。首の角度が同じで思わず笑ってしまった。


「いつだったかな……大学生のときだから、たぶん……十年くらい前……?」

「よく覚えてたな」

「花音ちゃんの手作り弁当、食べたいなって思ってたら、ふと思い出したんだ」

「な、なんですかそれ……。あ、でも思い出しました。高校の家庭科の課題で作ったやつです。部活の試合のあとに食べようと思ってたくさん作ったのに、帰ったらなくなってて、母と喧嘩しました……」

「えっ、うそ、ごめん。俺がもらって、美味しくて、全部食べちゃったんだ」

「いえ、母が勝手に渡したんですから、須藤さんは悪くないですよ」


 花音ちゃんはそう言って、自分もお昼を食べると家のほうへ戻っていった。

 瑞希はもう食べ終わっていて、弁当箱を片付けていた。

 俺も急いで食べよう。


「そういやさ、花音ちゃんって遠慮がちじゃない?」


 ふと思い出して、瑞希に話しかけた。


「兄に遠慮する妹なんか、いねーよ」


 あまりに嫌そうな言い方に、思わず吹き出した。


「そうじゃなくてさ。うちに来たとき、俺が花運ぶの手伝おうとしたときとか、お茶とか椅子とか、なんでも一回遠慮するんだよね」

「あー、分からんでもない。けど、それ遠慮っていうより慣れてないだけじゃね?」

「慣れてない、って?」

「他人に親切にされるのに慣れてないの」

「そうなの? あんなにかわいいのに。全人類親切にしたくなるレベルでしょ」

「お前は相変わらず、たまに気持ち悪いな。花音はデカいからさ」


 デカいからってなんだ、それがいいんだろうが! って言いたいけど、またキモいって言われそうだから黙っておく。


「大丈夫そうに見えがち、みたいな。あいつ中高でバレーやってたからさ、余計に。がっちりしてて、助けなくても平気そうに見えんだよ」

「いや、見えない。墓まで助ける所存だけど」

「それ、本人に言えよ」


 瑞希がドン引きした顔でこっちを見てくる。

 ずっと一緒にいると、あのかわいさに気づけないんだろうな。

 手を貸すと、少し戸惑いながらも照れた顔で「ありがとう」って言うのが、本当にかわいいと思う。


「てかさ、藤乃んとこにもいるだろ、かわいい子。バイトの……あお……あおちゃん?」

「葵? あれは確かにかわいいけど、そういうんじゃないから」


 スマホを取り出して画像を探し、検索結果の画面を瑞希に向けた。


「子猫?」

「そう。かわいいだろ? 葵のかわいさは子猫と同じで、それが当然って感じ。でも、花音ちゃんのかわいさって、見るたびにドキッとするんだよな……あんなにかわいくて、大丈夫なんだろうか」


 思い出すとまたドキドキするから、なるべく考えないようにして弁当を食べ進めた。


「俺は見慣れてるからな、あいつの顔。てか、兄が妹のかわいさに毎回びっくりしてたらキモいだろ」

「それはそうだ」


 食べ終えた弁当箱を片付けていたら、瑞希が家に持ってくって言うから、お願いする。

 午後の作業に向かおうと立ち上がって農具を取りに行く途中、温室の中に花音ちゃんの姿が見えた。

 花音ちゃんは、真剣な顔で花を見比べていた。

 蒸し暑い温室の中、汗でびっしょりになりながら、いつものぱっちりした丸い目を細めて、何かをメモしていた。


「かわいいだけじゃないんだよな……ほんとに」


 邪魔したくなくて、そっとその場を離れる。

 本当はもっと見ていたいし、写真も撮りたかった。でも、それはさすがにキモいって自分でも分かってるから、我慢した。



 戻ってきた瑞希と一緒に、畑の作業に戻った。

 夕方まで働いて、夜ごはんをご馳走になってから家に帰った。食事のとき、花音ちゃんがいなくて、少し残念だった。

 翌朝、コンビニに寄ってから瑞希の家へ向かった。


「はよー」

「はよ……なにそれ」


 出迎えてくれた瑞希がコンビニ袋を指さす。


「花音ちゃんにお土産。渡しといて」

「いいけど、俺のは?」

「ないよ。それ、お詫びだから」

「……ああ、なるほど。ウケる。律儀だな、藤乃は」


 中身を見た瑞希が笑って部屋に引っ込む。

 すぐに戻ってきて、二人で畑に向かう。

 広い畑に水をまいて、隅では肥料を混ぜたり、落ち葉を掃いたり。

 途中で瑞希と別れた後も、汗だくになって身体を動かしていたら、遠くから声が聞こえた。


「須藤さーん、お昼、お持ちしましたー!」

「ありがとー」


 顔を上げると花音ちゃんが手を振っている。

 昨夜も今朝も会えなかったから、つい頬がゆるんだ。

 手を洗って花音ちゃんのところに行くと、弁当箱と水筒が差し出された。


「母が作ったお昼です」

「ありがとう。わざわざ持ってきてくれて」

「……あと、これも良かったら」


 花音ちゃんが手に下げていた、小さな袋を差し出す。保冷バッグかな?


「昨日……杏仁豆腐、おいしかったって言ってたから……」

「作ってくれたの!?」

「ちょ、声が大きいです……でも、はい。作ったので……その、よければ」


 杏仁豆腐を受け取る。

 すごい。嬉しい。どうしよう。

 こんなことなら、コンビニのじゃなくて、もっとちゃんとした杏仁豆腐を買ってくればよかった!

 朝の五時に開いてたのがコンビニしかなかったから……。


「食べます……でも、もったいなくて、まだ食べられない……」

「食べてください。そんなの、いくらでも作りますから」

「ありがとう。でも、“そんなの”って言わないで。せっかく作ってくれたんだから、大事に食べるよ」

「……私も、ありがとうございました。杏仁豆腐。買ってきてくれて」

「ううん、お詫びだし、気にしないで食べて」


 花音ちゃんを見送ってから、昨日と同じベンチに向かった。

 瑞希はいなかったので、先に食べていると泥だらけの瑞希がやってくる。


「……なにそれ」

「花音ちゃんが杏仁豆腐作ってきてくれたんだよ。てか、あれってそんな簡単に作れるの!?」

「昨日の夜いなかったの、それか……」

「えっ」


 わざわざ、材料を買いに行ってくれたの!? 買いに行ったんなら、杏仁豆腐そのものを買ってくればいいのに、材料買ってきて作ってくれたんだ……?


「うわ……マジで……?」


 空の弁当箱を脇に置いて、保冷バッグを開けると、ひんやりした容器が入っていた。

 そっとフタを開けると、中で白い塊がぷるぷると揺れていた。


「……うまっ。泣きそう……」

「どんだけだよ」

「死ぬまで養います」

「杏仁豆腐一つでお前……。藤乃がキモいのは知ってたけど、まさか重さまで乗ってくるとはな。義弟になるの、マジで嫌なんだけど。鏡見てみ? すごい顔してるぞ」

「お義兄さん、悪いけど、そこの肥料撒いといてくれます?」

「うるせー!」


 瑞希とバカなやり取りをしながら、杏仁豆腐をぺろりと平らげた。

 瑞希の弁当箱も受け取って家に返しに行ったけど、花音ちゃんの姿はなかった。

 ついでに洗面所を借りて鏡をのぞいたら、案の定、締まりのない顔でヘラヘラしてて、自分でも気持ち悪かった。

 

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