Day2「風鈴」
帰ると、風鈴がチリチリ鳴って、玄関から父が顔を出した。
「おかえり。悪いな、瑞希に任せっきりで。花音は市場、初めてだっただろ? 平気だったか?」
「こいつ、迷子になってさ。でも藤乃が見つけてくれた」
「そうかい。花音、藤乃ちゃんにお礼しとけよ」
父と兄の会話で、私を助けてくれた人が藤乃さんって名前なんだと、初めて知った。
……ううん、ていうか、なにあの人。
トラックの荷台を片付けながら、さっき出会った人のことを思い出す。
私は女にしては背が高くて、175センチもある。だから、自分より背の高い男の人には、あんまり会ったことがない。
父さんが腰を痛めて、手伝いに来いって言われて。兄に連れられて行った初めての花市場は、人も多いし広いし、もう何がなんだか。花を抱えてて周りがよく見えなくて、気づいたら自分の店がどこかもわからなくなってた。
半泣きで歩き回ってたら、誰かにぶつかっちゃって、「あ、倒れる……」って思ったとき、支えてくれたのが、あの背の高い人――藤乃さんだった。
首から下げてた許可証で、須藤造園の人だってことはわかった。たまに直接納品に行くけど、いつもいるのは花屋を仕切ってる奥さんと、バイトのかわいい女の子だけ。あんなかっこいい人、見たことなかった。
名前だけは聞いたことがある。たまに家を手伝いに来てくれてるらしいし、兄と遊びに行ったりもしてるみたい。小さい頃に会ったらしいけど、私がまだ幼稚園とかそのくらいのときの話だから、まったく覚えてない……。
我ながらチョロいとは思うけど、泣きそうなくらい心細かったときに助けてくれて、優しく店まで送ってくれて、それに、私のチューリップをあんなに褒めてくれたら……好きになっちゃっても仕方ないよね。
この身長のせいで、今まで恋愛がうまくいった試しがないし。
それに……最後、なに、あれ。
「チューリップ……花音ちゃんみたいに素敵だから……えっと、育つの、楽しみにしてる」
なにそれ……ちょっと、期待しちゃうじゃん。
高身長のイケメンが、顔を真っ赤にして、私の服の裾を掴んであんなこと言うなんて……惚れないわけないでしょ!
「花音ー朝飯さっさと食えー」
「はーい」
兄に呼ばれて、慌てて片付けを終えた。
……うまく、藤乃さんのこと、聞き出せないかな。
次の日の夕方、兄がひとりで農具を洗っていたから、できるだけ自然に声をかけてみた。
「ねえねえ、瑞希。朝助けてくれた人なんだけどさ」
「んー、藤乃?」
兄は鋤にザバザバと水をかけている。
「そ、そう……藤乃さん。あの、チューリップのこと、何か言ってた? 瑞希が、渡してくれたんだよね?」
「ああ、うん。すごく喜んでたよ。あいつ、ああいう明るい花、好きだからさ」
「そっか……喜んでくれたんだ」
瑞希が顔を上げて私を見た。何度かまばたきしてから、静かにうなずいた。
「え、なに……?」
「いや、ただ……春だなって思っただけ」
「春だよ。なに言ってんの」
「明後日、須藤さんとこにヒヤシンス持って行ってよ。俺、農協に行かないといけないから」
「わかった」
瑞希は農具を洗い終えたのか、手をふいてからスマホをいじり始めた。
私は温室に、ヒヤシンスの様子を見に行った。
「こんにちはー、由紀です」
須藤造園は造園業がメインで、敷地の隅っこに花屋さんもある。
うちからの納品は主に花屋さん宛で、たまに造園の方にも持って行く。
今回は切り花を花屋さんに持ってきた。
駐車場にトラックを停めて、納品書を片手に花屋さんの裏口をノックする。
「はーい、いらっしゃい、花音ちゃん」
「ふ、藤乃さ……先日は、本当にありがとうございました!」
笑顔の藤乃さんが出てきて、テンパってしまった。
慌てて取り繕ったけど……藤乃さんは穏やかな笑顔で、丸い眼鏡の奥の切れ長の瞳が、ふわっと細くなっていた。
「いえいえ、お気になさらず。今日はヒヤシンスの納品だったね」
「はいっ、すぐにお持ちしますね。こちら、ご確認お願いします」
納品書を藤乃さんに渡すと、なぜか確認もせずに、そのまま黒いエプロンのポケットにしまってしまった。
「……なんで?」と思って見上げたときには、藤乃さんはもう、さっさと歩き出していた。
昨日は作業着だったけど、今日は白いワイシャツに黒のスラックス姿で、なんだか、昨日よりもっとすらっと背が高く見えた。
「俺も運ぶよ。一緒にやったほうが早いからさ」
「そうですけど……」
「それに、女の子ひとりに運ばせるのって、かっこ悪いでしょ」
そう言って行ってしまった藤乃さんは、後ろから見ても分かるくらい耳まで真っ赤だった。
……ほんと、なんなの、この人……!
今まで男の人に女の子扱いなんてされたことがない私は、どう返したらいいのか全然わからなくて、ただ慌てて追いかけるしかなかった。
結局、藤乃さんは私よりたくさん運んでくれたし、納品書を見てる間も椅子を勧めてくれて、ミニ冷蔵庫からお茶まで出してくれた。
至れり尽くせりすぎてちょっと怖くなって、最初は断ったけど、向こうも引いてくれなくて、押し負けて結局座らせてもらった。
「はい、確認しました」
「ありがとうございます」
差し出された受領書には、少しクセのある、とがった字でサインが書かれていた。
受け取って立ち上がったそのとき、花屋の裏口が開いた。
「葵ちゃんが来ましたよーっと。あ、花音ちゃん。こんにちはー」
「葵さん! こんにちは」
「ごめんね、藤乃くん。邪魔しちゃった?」
「ほんとだよ。空気読めよ」
葵ちゃんがニコッと微笑むと、藤乃さんは笑って肩をすくめた。
……葵ちゃんとは、すごく仲よさそうに話すんだな。
そっか……いやいや、なに考えてるの、私……当たり前だよね。店員さんとバイトさんなんだから。
私がひとりでモヤモヤしていたら、藤乃さんとおそろいのエプロンをつけた葵ちゃんが、いたずらっぽくニヤッと笑って、藤乃さんの背中をポンと押した。
「私、店番してるから、花音ちゃん送ってあげて」
「うるせえ弟子だな、ほんと」
「気が利くって言って欲しいなあ」
藤乃さんがこちらに振り返る。
なんて言えばいいかも、どんな顔をすればいいかもわからなくて、多分、すごく間抜けな顔になってたと思う。
「ごめんね、騒がしくて。行こうか」
「え、でもすぐそこですし」
「いいから」
藤乃さんは戸を開けて、そっと押さえてくれた。
外に出ると、藤乃さんがゆっくりと後ろをついてきた。
何か言わなきゃって思うけど、何も思いつかない。
なんとか言葉が出たのは、トラックのところで鍵を取り出したときだった。
「そういえば、先日お渡ししたチューリップって、ブーケとか何かにしたんですか?」
「あれね、プリザーブドフラワーにしてるよ」
藤乃さんはニコッと笑ってスマホを取り出した。
……待ち受けが、私が育てたチューリップの写真だった。
思わずじっと見つめてしまったら、藤乃さんは照れくさそうに、はにかんで笑った。
いちいちかわいいの、なにこの人……!
「手を加えると長持ちはするけど、やっぱり咲いたばかりが一番きれいだから、残しておきたかったんだ。今は乾燥させてて……」
差し出されたスマホの画面には、チューリップの写真がずらりと並んでいた。
最初の日付が、その日の朝。きっと持ち帰ってすぐに撮ってくれたんだと思う。
そこから、脱色液に浸している写真、色づけしている写真、乾燥を始めた写真まで――。
「……ありがとうございます、ほんとに」
「なにが?」
思わず呟いたお礼に、藤乃さんが首をかしげる。
「大事にしてくれて……。あのチューリップは、私がどうしても売りたくて、父に頼み込んで、やっと育てさせてもらった花なんです。だから、それを大事にしてもらえるのが、本当に嬉しくて」
「するよ、もちろん」
そう笑った藤乃さんは、やっぱり“男の人”って感じで、すごくかっこよかった。
当たり前だけど、やたらとドキドキする。
「由紀さんちの花がいいものだってのは前から知ってたけど、あのチューリップは本当にきれいだったから、大事にしたいって思ったんだ。それに、すごく丁寧に育てられてるってわかったよ。瑞希がすすめてくれた花だし、きっと間違いないって」
胸のドキドキの中に、ちくっと小さな針が刺さった気がした。
花を信じてもらえたのは、私じゃなくて、お父さんと瑞希の努力のおかげなんだ。
「だからね、花音ちゃん」
藤乃さんは一度、少し遠くを見て、それからまた、まっすぐ私に視線を戻してきた。
思わず、背筋を伸ばしてしまう。
「楽しみにしてる。君が育てる花が、どんなものなのか」
「はい。ご期待に添えるような花を、お届けします」
「うん。頑張って」
藤乃さんの手が、そっと伸びてきた。
けれど、私に触れる寸前で止まった。
「ごめん、つい癖で」
「……撫でてくれても、いいんですけど」
「えっ」
「すみません、口が滑りました。失礼します」
これ以上何か言いそうで怖くなって、あわてて運転席に乗り込んだ。
軽く会釈すると、藤乃さんは変わらず笑顔で手を振ってくれた。
少し悩んでから、私も小さく手を振り返す。
車を走らせても、藤乃さんの姿はサイドミラーに小さく映ったままだった。
その後、週に一度くらい私が須藤造園さんに顔を出すたびに、藤乃さんは一緒に花を運んでくれて、椅子とお茶も欠かさず勧めてくれた。
早朝の市場でも数日に一回は顔を合わせて挨拶をする。
そんなささやかなやり取りが続いて、二ヶ月ほど経ったころ。
朝ごはんを食べ終えてお皿を洗っていたら、玄関で呼び鈴が鳴った。
こんな朝早くに、誰だろう……?
まだ兄と母は市場から戻っていない。父は腰の様態が良くないからと、昨晩から検査入院中だ。
手を拭いて玄関に向かう。
「はーい……えっ?」
何も考えずに扉を開けたら、そこには藤乃さんがいた。
藤乃さんは、ぶかぶかの薄手のウィンドシェルを羽織って、いつもの笑顔を浮かべている。
「おはよう、花音ちゃん。お手伝いに来ました」
……なに、なんなの……?
私はぽかんと間抜けな顔のまま、藤乃さんの顔をただ見つめるしかなかった。
玄関の外で、季節外れの風鈴がチリンと鳴った。けれど、それよりも私の心臓の音のほうが、ずっと大きく響いていた。