Day19「網戸」
夕方、天気が急にスコールみたいな土砂降りに変わった。
その日は朝から、じいさんと一緒に葵の実家の神社で庭木の剪定をしていた。
昼過ぎまでは晴れていて、葵や葵の母さんが麦茶や塩飴を差し入れてくれて、作業は順調に進んだ。
三時か四時を過ぎた頃、急に空が暗くなった。作業はほぼ終わっていたから急いで片付けたけど、間に合わず服がびしょ濡れになった。
土砂降りと雷の中、急いで帰宅して、じいさんを先に帰してから俺が片付けに回った。
片付けは一時間もかからず終わって、花屋にいた両親に声をかけてから家に戻った。
「あー、ひでえ目にあった」
ボヤきながらメガネを外して顔を拭う。メガネは水滴でよく見えないし、前髪が張り付いて鬱陶しいし。
まあ袖もビタビタだからあんまり意味ないけど。
とりあえずシャワー浴びよ……洗面所の扉を開けたら人がいた。
「あ、ごめん。母さん使ってた?……あれ、さっき花屋にいなかったっけ?」
メガネをかけ直したら、そこにいたのはシャツ一枚の花音ちゃんだった。
「……えっ!?」
「す、すみません、お借りしてます……」
「え? あ、ごめっ、失礼しました!!」
とにかく廊下に出る。
洗面所の扉の横にもたれて、そのまましゃがみこんだ。
えっ、なに? 夢か?
……まさか、俺と結婚してたっけ?
いやいや、そんなわけ……え?
花音ちゃんが、たぶん俺の白いシャツを着て、ドライヤーを片手に鏡に向かっていた。
下に何を履いてたかはわからない。
え、履いてたよね? 何かしら……。
混乱していたら洗面所の扉が開く。
しゃがんだまま見上げると、ほっぺたを赤くした花音ちゃんがゆっくり出てくる。
「お待たせしました」
「あ、いや……、えっと、なんで……?」
我ながら間抜けというか、なんというか。
もう驚きすぎて、まともに言葉が出てこなかった。
洗面所から出てきた花音ちゃんは、俺の部屋着のシャツとウニクロのステテコ姿で、少しぶかぶかしていて……まあ、正直に言えば、すごく色っぽかった。
いつもは見えないふくらはぎが白くて、袖から伸びる腕は細い。普段は結んでる髪が乾かしたばかりでふわっとしている。
「急な土砂降りで、帰り道の道路が冠水しちゃって。それで、私もびしょ濡れだったので、泊まっていけばって須藤さんが言ってくださったんです」
「なるほど……」
「藤乃さんもビショビショじゃないですか。私が言うのもなんですけど、シャワー浴びてらしてください」
「……うん」
まだ少し混乱はしていたけど、とにかく洗面所に入った。
扉を閉める直前、花音ちゃんが笑顔で「いってらっしゃい」と見送ってくれて、心臓が変な音を立てた。
濡れた服を全部脱いで洗濯機に突っ込むと、中はすでにいっぱいだった。とりあえず回して、そのまま浴室に入った。
「はあ……びっくりした」
体を洗ってから浴槽の蓋を開けたら、湯が張ってあった。ゆっくりと沈み込む。
耳のあたりまで浸かって泡を立てながら、ふと気づく。……これ、花音ちゃんが入ったお湯? いや……だめだって。何考えてんだ、俺。……変態かよ。
しばらく悶々としてから湯を出た。
部屋着に着替えて髪を乾かし、洗面所を出ると、台所の方から話し声が聞こえた。
覗いてみると、花音ちゃんとじいさんが並んで料理していた。網戸がガタピシとうるさくて、会話の内容までは聞こえない。
「……なにしてんの?」
「おう、藤乃。代われ」
「え、うん。代わるけど……何してたのさ」
「僭越ながら、夜ごはんの用意をお手伝いしてました。おじいさん、お料理じょうずなんですね」
「桐子さん一人に任せるわけにはいかんからな。うちの男どもは全員ばあさんから仕込まれとるよ」
「じゃあ、藤乃さんも?」
花音ちゃんが微笑んでこちらを向く。
さらりと流れる髪から、俺と同じシャンプーの匂いがふわっと香った。
「……いや、俺は教わってないんだ。俺が高校に入るくらいにばあさんは出てっちゃったから。大学のときに一人暮らししてたのは言ったよね? そそのときに理人と一緒に料理や家事をするようになって、そこから少しずつ……まあ、最低限はできるかなって感じ」
花音ちゃんの手元では肉が広げられている。
「何作ってたの?」
「カレーです! おじいさんから“体が冷えたときはカレー!”って聞いたので」
それ、じいさんが食べたかっただけだろ。
まあ、花音ちゃんが作ってくれるカレーなら、ありがたくいただくけど。
「何すればいい?」
「お野菜はおじいさんが切ってくださったので……あ、カレールウってどこにありますか?」
「こっちの棚。花音ちゃん、辛さはどれくらいがいい?中辛と辛口とあるし、甘口はないけど、あんまり辛いのが得意じゃなければハヤシライスのルウもあるから、中辛のと混ぜればマイルドな味になるよ」
「……こんなに種類があるんですね」
カレールウを何箱か並べると、花音ちゃんがぽかんとした顔になった。
俺にはこれが普通だけど、そういえば一般的にはそうでもないのか。
「うん。母親があれこれ試したい人で、美味しそうだったから、とかいっていろいろ買ってくるんだよね」
「そしたら、中辛のこれとこれをお願いします」
「了解」
花音ちゃんが肉を切る間に鍋を出す。
油を引いて火にかける。米はじいさんが炊飯器にセットしてくれていたから大丈夫。サラダもあったほうがいいかもしれない。
隣を見ると、温まった鍋に花音ちゃんが肉を入れていて、底からジュウジュウと音が立っていた。
まな板と包丁を受け取って洗っていると、なんだか夫婦みたいで、思わずニヤけてしまう。
花音ちゃんが手際よく肉を炒めたり野菜を鍋に足しているのを見ると、もうダメだ。顔がゆるみきってるのが、自分でもわかる。
「……藤乃さん?」
「ん、なに?」
気づいたら花音ちゃんが俺を見ていた。
顔はゆるんだままで、正直どうしようもない。
「何か、いいことでもありましたか……?」
「あった。花音ちゃんが隣で料理してる」
「それ、いいことですか?」
「もちろんいいことだよ。幸せすぎて、破裂しそう」
思わずそう言うと、花音ちゃんは不思議そうに首を傾げる。
「……そんなに……?でも、藤乃さんが洗い物をしてるの、いいですね。素敵な旦那さんになってくれそう」
「花音ちゃんが、どんな旦那さんがいいか教えてくれたら、頑張って近づくよ」
「それ……プロポーズですか?」
「プロポーズは、告白のあとに改めていたしますので、しばしお待ちください」
かしこまってそう言うと花音ちゃんがニコッと微笑んだ。
「私がおばあちゃんになる前にお願いします」
「……告白については、今月中を目処に計画しておりますので」
「あ、そうなんですね?……楽しみにしてます」
花音ちゃんが少し慌てた様子で鍋の中身をかき混ぜる。シンクの泡を流してから鍋に水を入れて蓋をする。
振り返ると、じいさんは台所の机で新聞を読み、その向こうのリビングでは親父がソファに寝転がっていた。
「親父、いつの間に帰ってきたんだよ」
覗き込むと、スマホでなんかのゲームをしている。
「お前らがいちゃついてる間に帰ってきたよ。ちなみに桐子さんは一通り爆笑してから風呂に行った」
「声かけろよ……」
「ヤダよ。なんで息子がいちゃついてるの邪魔しなきゃいけねえんだ」
顔を上げもしない親父にじいさんが笑いながら声をかける。
「小春にそっくりじゃねえか」
「んなこと……なくもないな。やだなあ、もうちょっと桐子さんに似りゃよかったのに。なんでそんなに俺にそっくりになっちゃったんだよ、藤乃は」
「知らねーよ!」
花音ちゃんがくすくす笑いながら皿を出していたので、俺も台所に戻ってスプーンを出したり、冷蔵庫からレタスとかトマトを出して簡単にサラダを用意する。
風呂から出てきた母親が、「いつもそれくらいやってくれたらいいのに」なんてぼやく。
「母さんが台所にいる間は親父がべったりくっついてて、俺の手伝いなんかいらないじゃん」
「それはそうね」
「親に向かってべったりとか言うんじゃねえよ」
「小春さん、私にべったりでしょう?」
「はい、べったりです……」
呆れていると、隣にいた花音ちゃんが俺のシャツの袖を引いた。
「須藤さんのお家って、みなさん本当に仲がいいんですね」
「んー、ていうか、親父は母さんにベタ惚れだし、じいさんもばあさんが大好きでさ。小さいころからずっとそれ見せられてたから、そういうもんだって思ってたんだよね」
そう言うと、花音ちゃんが小さく「あー……」と頷いた。
「……藤乃さんも、だからそういう人なんですね」
「え、なに、そういう……?」
聞き返すと冷蔵庫から麦茶を出していた母親が笑い出した。
「あはは、そうね。藤乃はお父さんそっくりだから」
「なんだよ、それ」
「藤乃さんも、素で口説くというか、甘くなるというか……お父さんも、そうなんですか?」
花音ちゃんが聞くと、母親が大きく頷いた。
「ええ、そうよ。すごいのよ、今でも二人きりになると言うのよ。“かわいい”“綺麗”“桐子さんより素敵な人はいない”って」
「親父……」
「藤乃さんも同じようなこと言ってるじゃないですか」
「そうだけど! しょうがないじゃん、花音ちゃんがかわいいんだから……」
「そうだそうだ!」
親父がソファから起き上がってきた。
「綺麗だと思う相手に綺麗って言わないでどうすんだ! 世界一美しいです、桐子さん!」
「はいはい、小春さんはカレーにルウ入れて。藤乃は客間に布団出して、乾燥機かけてきて」
「「はい……」」
「花音ちゃんは、こっちでゆっくりしててね。ごめんなさいね、晩ごはん作らせちゃって」
「いえ、おじいさんと藤乃さんが一緒に作ってくれたので私は全然……」
布団を用意して戻ると、親父がカレーをよそっていたので、皿を並べながら配膳を手伝った。
花音ちゃんが「ありがとうございます」って微笑んでくれたもんだから、ついデレッとしてたら、向かいで両親がまったく同じやり取りをしていた。……やっぱり、血は争えないんだな……。
全員で手を合わせて食べ始めたけど、俺は花音ちゃんばかり見てて、食べるのが遅くなり、怒られた。
「いいことを教えてやろう」
先に食べ終えたじいさんが麦茶を飲みながら言った。
「結婚したばかりのころの小春……お前の親父も桐子さんばっかり見てて、飯が遅れては、しょっちゅうばあさんに怒られてた」
「それ、いいことかあ?」
じいさんは笑いながら台所を出ていった。
俺も急いで食べ終える。片付けは親父と母親に任せて、花音ちゃんを客間に連れて行く。
「ごめん、うるさかったよね」
「いえ、賑やかで楽しかったです。うちの母も強いほうですけど、藤乃さんのお母様はまた少し違う雰囲気ですね」
「そう?親父がああだからね。あーでも、ばあさんもあんな感じだったかな。たぶん、じいさんと親父の好みが一緒なんだ……」
てことは、花音ちゃんも母親に似てるってことか?
……やばい、なんか妙な気づきをしてしまった。
考えないようにして客間の扉を開ける。
途端に雷がゴロゴロ鳴って、網戸が風でガタガタ音を立てた。
ふと横を見ると、花音ちゃんが俺のシャツの裾をそっと掴んでいた。
「びっくりした?」
「……はい。いきなり音がするとちょっと」
「まだ時間あるし、もう少しだけ一緒にいてもいい?」
「お願いします」
花音ちゃんを、客間……と呼んでいる玄関横の和室に通して、布団乾燥機を片付けた。扉は半分ほど開けたままにして、部屋にあった座布団に腰を下ろす。
花音ちゃんも、おずおずと近くの座布団に腰を下ろしたけど、雷が鳴るたびに肩をぴくっと跳ねさせていた。
「……花音ちゃん、雷って苦手?」
「そ、そんなことは……えっと、いきなり音がするのが、ちょっと……」
「そっか。もう、秋の花って出てきてる?」
「へ?秋の花ですか……?……そうですね、ケイトウやクルクマがそろそろピークです。ヒマワリがもうすぐ終わりかなあ。あとガーデンマムを出荷に向けて調整中です。駅前の花壇に植えるようにビオラ、パンジーも温室で育苗中ですね。あとは……」
花音ちゃんは、楽しそうに笑いながら花の話をしてくれた。
よかった。雷から気が逸れたみたいだ。
一時間くらい話していると、花音ちゃんの目が少し伏せてきた。
「花音ちゃん、眠い? 明日、市場に行くときに起こすから、そろそろ寝ようか」
「……はい。あ、でも……一個聞いていいですか?」
「なあに?」
「今日、手をつながなかったり、触れないようにしてたのって……藤乃さんのお家だから、ですか?」
花音ちゃんは、ときどきこうやって、すごくストレートに聞いてくる。そういうところは瑞希と似てて、なんだか面白い。
「うーん。由紀さんが、俺と親のことを信用して花音ちゃんを泊まらせてくれたんだよね。そこで手を出すのは、その信用を裏切ることになる。俺たちの仕事って、そういう信頼が何より大事だからさ。人間性を疑われたら、それだけで取引がなくなる」
そう言うと花音ちゃんは俺を見たまま何度か瞬きをした。
……ちょっと迷ってから、もう一度口を開く。
「それに、俺はまだ花音ちゃんに何も伝えてない。気持ちを伝えてないのに、そういうことをするのは違うでしょ。……言ったよね。俺は、花音ちゃんをちゃんと大事にしたいんだ。」
「なるほど……」
聞いていたのか、いなかったのか。花音ちゃんはふわっとあくびをして、体を起こした。のそのそと布団に潜るから部屋を出ようと腰を浮かせたら手が差し出された。
「……ちょっとだけでいいから、手を握ってください」
「……うん。ちょっとね」
「ありがとうございます」
花音ちゃんの目はほとんど開いていなくて、声も少し低く、ゆっくりと話す。
「藤乃さんのこと、好きになってよかったです。……私も藤乃さんも、四捨五入したら三十ですよ? どっちの親も、なんでまだくっつかないのって思ってますし」
なんて返せばいいのか分からないまま、花音ちゃんが「ふふっ」と小さく笑った。
「だから……手を出してもらっても、よかったんですよ? ……でも、うん。私、あなたのこと、もっともっと好きになりました。おやすみなさい、藤乃さん。また明日」
……どうすればいいんだ、俺。
好きな子にあんなこと言われて、そのまま寝られてしまって。俺の手を握ったまま、幸せそうな顔で眠ってる。
「……勘弁してくれって。生殺しでしょ」
寝顔を少し眺めて、そっと手を布団の中へ戻した。
部屋の灯りを落として、静かに扉を閉めた。
洗面所で洗濯物を干して、乾燥機をセットしておく。
自室に戻って、そのままベッドに倒れ込む。
「……ほんと、勘弁してほしい」
今夜は、しばらく眠れそうにない。
手を出さないのは、何も感じてないからじゃない。それを言う前に寝ちゃうなんて……やっぱり、生殺しだ。
翌朝は少し早めに起きて、洗濯物を片づけておいた。
花音ちゃんの服を持って部屋に行くと、寝ぼけた顔でこちらを見上げた。
ゆっくり体を起こして、ぼんやり部屋を見渡したあと、また俺に微笑みかける。
俺のシャツを着た花音ちゃんは、首元がゆるくて全体的にぶかぶかだから、いつも以上に細く見える。
「……おはようございます、藤乃さん」
喉を鳴らして、ゆっくり言葉を探す。
「おはよう、花音ちゃん。服は乾いたから、ここに置いておくね。洗面所は空いてるから、よかったら使って。朝ごはんはおにぎりだから、出るときに持たせるよ」
「えっ、あの、そこまでしてもらうなんて……! 洗濯までしてもらっちゃって……!」
「気にしなくていいよ。俺も由紀さんの家で、よくごはんをご馳走になってるし」
「そ、それは畑を手伝ったときだけです」
「気になるなら、今度花を頼むときに、ちょっとサービスしてくれたら嬉しいな。俺がいたら着替えにくいだろうし、先に外に出てるね。支度ができたら出ておいで」
寝起きの花音ちゃんがあまりにかわいくて、ずっと見てたら我慢の限界がきそうだった。だから、早口になって、その場を離れた。
でも、扉を開けたところで、つい振り返ってしまった。
「手は出さないって決めてるけど、出したくないわけじゃないんだ。だから、あんまり無防備に煽られると困る。花音ちゃん、かわいすぎて我慢がきついから」
それだけ言い残して、扉を閉めた。
完全に言い逃げだけど……昨夜の生殺しの返事、ってことにしておこう。俺なりに、優しさのつもりだ。
母親を助手席に乗せて、花市場へ向かった。花音ちゃんが由紀さんの家へ歩いていくのを見送りながら、俺は仕入れにまわる。
最後に由紀さんのところへ寄ると、瑞希がひらひらと手を振ってきた。
「よーお。悪いね、花音、泊めてもらって」
「いいよ。晩飯、作ってくれたから」
そう言うと、瑞希が顔を寄せてきた。
「花音がさ、手ぇ出されなかったって言ってたけど……マジ? お前、ついてないんじゃないの?」
「ついてるから、寝られなくて地獄だった」
「真顔じゃん、マジでウケる。お詫びに、余ってるセンニチコウやるわ」
「……ありがたくもらうけどさ。ドライフラワーにでもしようかな」
そんな話をしていたら、母親がやってきて、由紀さんの親父さんと話しながら花を選んでいた。俺も瑞希と相談しながらいくつか花を選んで、母親と一緒に台車を押して車へ戻った。
母親の運転する横で、おにぎりを食べながらスマホを見ると、花音ちゃんからメッセージが届いていた。
『昨晩はありがとうございました。これからもうっかり煽ってしまうことがあるかもしれませんが、そのときは無理に我慢しなくても大丈夫です。次は来週後半にうかがいます』
……ほんとさ、花音ちゃんは!
俺が、もたもたしてるから……情けないな、ほんと。
おにぎりを頬張りながら、スマホでカップル向けのデートスポットを検索する。
帰宅すると、昨日からガタピシ鳴っていた網戸が外れて傾いていた。まるで、格好悪くて傾いている今の俺みたいだ。




