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Day16「にわか雨」

 ビアガーデンに行ってから数日後、私は須藤さんのところへ納品に向かっていた。

 須藤造園の駐車場に車を止めた瞬間、前に藤乃さんに会ったときのことがよみがえった。

 ビアガーデンで絡まれて困っていたとき、助けてくれて、優しく慰めてくれて……私、藤乃さんにばかり守られてる気がする。

 帰ってから、夜中の勢いで『早く会いたいです』なんて送ってしまって……恥ずかしくて、どうすればいいかわからない。

 しかも朝起きたら、『俺も花音ちゃんに会いたい』なんて……まるで恋人みたいな返信が届いていた。

 もう……どうすればいいの? 藤乃さん、やっぱり私のこと、好きなんだよね……。私も、好き。けど、私から言って違ったらどうしよう……。

 考えごとを抱えたまま台車を押し、花屋さんの裏口をノックした。

 藤乃さんが欲しがっていたケイトウとワレモコウ、まだ少ししか採れなかったけど、きっと喜んでくれるといいな。


「いらっしゃい、花音ちゃん」


 けれど、出てきたのは葵さんだった。カウンターの向こうで奥さんが接客をしている。


「こんにちは、葵さん。ヒマワリとリンドウを持ってきました。それとこちら、数は少ないんですが、藤乃さんが仏花に使いたがっていたと聞いて……ケイトウとワレモコウです。次回は、もう少し多めにお持ちしますね」

「ありがとう、ママさんに伝えておくね。藤乃くん、今日は午前中の剪定がちょっと長引いててね。海の近くの大きな公園に行ってるんだけど、もうすぐ戻ると思うよ」

「そうなんですね。お会いできなかったのは残念ですけど、藤乃さんが頑張ってるのはちゃんと知ってるから、大丈夫です」


 私のことを、大切に思ってくれてるのも、ちゃんと伝わってる。

 ……うん、仕方ないよね。

 接客を終えた奥さんに納品書を渡して、花を確認してもらう。受領書にサインをもらって、そのまま店をあとにした。

 台車を車に積み終えたとき、藤乃さんがエプロンをかけて、店の近くを歩いているのが目に入った。


「タイミング、悪かったな……」


 声、かけようかな……やめたほうがいいかな。

 ……じゃあ、電話してみようかな。

 スマホを取り出して顔を上げると、藤乃さんがふと立ち止まった。

 今だ、と思ったそのとき……誰かが店の前、歩道から話しかけていた。

 ……きれいな、女の人だった。

 遠くからでもはっきりわかる、さらさらの長い髪と、ぱっちりした大きな目。

 藤乃さんより頭一つ分くらい小さくて、頬を染めて話している。

 藤乃さんがどんな顔をしているかは分からないけど、スマホをそっとポケットに戻して、そのまま車に乗り込んだ。いつもより少し急いで家へ向かった。

 途中でにわか雨に降られて、フロントガラスの向こうがにじむようにぼやけて見えた。



 その夜、寝ようとしたときにスマホが震えた。……藤乃さんだ。ロック画面には、「今日、会えなくて残念」……と表示されている。


「……明日にしよう」


 今日はなんだか、疲れちゃったし。まだ十時半だけど、朝は四時前に出なきゃいけないし。

 部屋の明かりを消して、ベッドに身を投げる。スマホを枕の下にしまい込んで、ぎゅっと目を閉じた。



 翌朝は、いつもより三十分も早く目が覚めた。


「……いやな夢、見ちゃった」


 夢の中で、藤乃さんが昨日のあの女の人と並んで歩いていた。

 いつも私に向けてくれる、あの甘くてとろけそうな笑顔で彼女を見つめながら、藤乃さんはどんどん遠ざかっていった。私はただ、見ていることしかできなかった。

 ぼんやりしているうちに、目覚ましが鳴り出した。その音で我に返って、ベッドを抜け出す。

 夢は夢。仕事、行かなきゃ。スマホはそのまま、上着のポケットに放り込んだ。


 市場で花を並べる。今日は父と二人きりで、父はお得意様と何か話し込んでいた。

 しばらくして藤乃さんが姿を見せ、私を見つけるとぱっと笑顔になって駆け寄ってきた。


「おはよう、花音ちゃん」

「……おはようございます」


 きっと、私の顔、引きつってる。目を合わせられなくて、思わず視線を落としてしまった。

 藤乃さんが私の顔を覗き込んだ。


「調子悪い?」

「い、いえ、そんなことは……」

「そう? 昨日、ケイトウとワレモコウありがとう。会えなかったのは残念だけど、いくつかブーケにして写真送ったんだけど……」

「あ……すみません。昨日、早めに寝ちゃって、今朝もバタバタしてて、まだスマホ見てなくて」


 やっぱり、藤乃さんの顔は見られない。髪を直すふりをして、そっと視線を外す。

 ちょうどそのとき、父が戻ってきた。「台車、取ってくる」と早口で言い残して、その場を逃げるように離れた。呼び止められたけれど、振り返る勇気も、立ち止まる余裕もなかった。

 ……何やってるんだろう、私。

 車の荷台から、なんとなく台車を取り出す。残っている花は少しだけで、私と父で持てば台車なんて必要ないのに。

 やっぱり、藤乃さんの顔は見られなかった。だめだな、私。


「……戻ろう」


 とぼとぼと店に向かう。藤乃さん、もういないよね。いても、どうすればいいか分からないし。

 いきなり挙動不審みたいになって逃げちゃって……自分でも、意味が分からない。


「お父さん、ごめんね。台車、持ってきた」

「おう、そろそろ片付けようか。でもさ、藤乃ちゃん泣かすなよ? こいつ泣き虫なんだから」

「え?」


 ……なに言ってるの、お父さん。

 父が指さす方を見て、思わず息をのむ。藤乃さんが、うずくまっていた。

 しゃがみ込んで、膝の間に顔をうずめるようにして、腕で頭を抱えている。


「えっ……なにしてるの……?」

「花音に嫌われたって、泣いてる」

「……うそ、でしょ」

「藤乃ちゃんは昔っから泣き虫だからなー。須藤そっくり。そこは桐子さんに似ればよかったのに」


 父は「あはは」と軽く笑いながら台車に残った花を乗せている。


「藤乃ちゃん、これ全部持ってってよ」

「……も、もらいます……ぅ……」

「ってわけでさ、花音はこの台車と藤乃ちゃん、車まで運んであげて。片付けは俺がやっとくから。泣き止んだら、みんなで朝飯食って帰ろうな」

「えー……、うん、わかった」


 藤乃さんの隣に、そっとしゃがみ込む。足元には、水がぽつぽつと落ちた跡が残っていて、ふと昨日のにわか雨のことを思い出した。


「藤乃さん? とりあえず、車に移動しませんか。ここ、うちの店の前なので……ちょっと目立ちますし」

「花音!? 言い方ってあるだろうが! お前が泣かせたんだぞ!?」


 父が目を丸くして振り返る。そんなこと言われても。


「私、泣いてる人を慰めたことってないんだよね」

「そかもしれんけどさ!?」

「とにかく、行きますよ藤乃さん。私、意外と力あるって言いましたよね? 本気出せば、百キロ近くまで持ち上げられますから。台車で運ばれたくないなら、自分で立って歩いてください。……それとも、お姫様抱っこがいいですか?」

「うちの娘、怖……なんでこんなに母ちゃんそっくりなんだ……?」


 野次馬みたいになってる父を無視して、私は立ち上がった。

 すると藤乃さんが私のズボンの膝のあたりを掴んだ。


「……手、つないでほしい」

「わかりました。行きましょう」


 掴まれた手をそっとほどいて、私の手に重ねる。少し迷ってから、恋人みたいに指を絡めた。

 藤乃さんが、ゆっくりと顔を上げた。鼻と頬が赤くなっていて、父の言うとおり、本当に泣き虫な男の子みたいな顔だった。

 ポケットのハンカチを差し出すと、つないでない方の手が受け取った。


「行きましょう」

「……うん」


 片手に藤乃さん、片手に台車。なんだか、大荷物を抱えたお母さんみたいな気分で、駐車場へと向かった。

 途中で知り合いの農家さんにあったけど、


「藤乃ちゃん、ほんとに相変わらず泣き虫だねえ」

「花音ちゃん、お母さんにそっくりになってきたね……」


 みんなして、父と同じようなことを言う。

 泣いていても、からかわれたりしないのは――きっと、藤乃さんの人柄なんだと思う。

 私はそういうところが好きなんだ。

 だからこそ、悲しませたくないし、嫌なことがあったら、ちゃんと話さなきゃ。

 藤乃さんは、そういうのを嫌がる人じゃないから。


 須藤さんのトラックに着くと、藤乃さんが鍵を取り出して荷台を開けた。花を積み終えてから、藤乃さんを運転席に座らせる。

 横に立って、藤乃さんの脇腹のあたりに、そっと体を預けた。

 もっとくっついていたかったけど……なんていうか、それが私の精一杯だった。


「藤乃さん、話を聞いてもらっていいですか?」

「……うん」

「昨日、須藤さんのところを出たとき、藤乃さんがすごくきれいな人と話しているのを見かけて……」

「……うん? 誰だろう……?」


 藤乃さんがやっとまともに私の顔を見た。

 ……切れ長の一重の瞳が、眼鏡の奥でほんのり潤んでる。鼻も頬も、ハンカチでこすれてさっきより赤い。なんていうか……守りたくなった。泣かせたのは、私だけど……。


「お店の横で、髪がさらさらで藤乃さんより頭一つ分小柄で」

「茉莉野かな? 確かに昨日の夕方相談に来てたわ。あいつ、すぐ葵と喧嘩するから、最近店に入れないようにしてたんだけど……ごめん、それで……?」

「いえ、それだけです。その……茉莉野さん? とにかく、きれいな方と藤乃さんが話しているのを見て、ずっとモヤモヤしてました。……夢にも、出てきちゃって」

「夢?」


 ……あ、しまった。余計なこと、言っちゃったかも。

 すぐ近くにあった藤乃さんの手に、そっと触れる。びくっと震えたけど、いつものようにはつないでくれなかった。寂しくて、自分から指を絡めた。


「その……茉莉野さんと藤乃さんが並んで歩いてて、私からどんどん離れていっちゃう夢で……それだけ、なんですけど」

「俺、そんなこと……絶対にしないよ」


 震える声に、思わず顔を上げる。藤乃さんは悲しそうな顔で私を見ている。


「花音ちゃんのこと、置いていったりしないよ……絶対」

「ごめんなさい、藤乃さん。私……たぶん、焼き餅焼いてたんです。私、かわいくないし、華奢でもないし、女らしくもないから……ああいう美人さんが藤乃さんと一緒にいるのを見て……なんだか、かわいい顔してましたし」

「かわいいよ、花音ちゃん」


 藤乃さんはムスッとした顔で、やっと手を握り返してくれた。


「いつも言ってるでしょ? 俺が知ってる女の子の中で、花音ちゃんが一番かわいいんだよ」

「そんなことは……」

「ある。……あります。あるんです」


 まっすぐに見つめられて、そう言われたら何も言えない。

 私が言葉を探していたら、藤乃さんがふっと微笑んだ。


「それと、夢の話は理人には内緒で。あいつのこと、弟分としてそれなりにかわいがってるからさ」

「しませんけど……。でも、どうして理人さん?」

「茉莉野は、理人の好きな人なんだ。昨日も、誕生日に大きな花束をもらったけど、手入れとか保たせ方が分からないって、相談に来てたんだよ。だからね、もし花音ちゃんが“かわいい顔してた”って思ったなら――それ、理人に向けた顔だよ」


 たぶん、私はすごく間抜けな顔をしていたと思う。

 というか、恥ずかしい……。勘違いで焼き餅を焼いて、藤乃さんを傷つけて……穴掘って埋まりたい……。


「ごめんなさい、藤乃さん」

「ううん、俺こそ、情けなくてごめん。かっこわるくてごめん。ちゃんと君の話を聞けば良かったのに」

「私が勘違いして、焼き餅焼いて、拗ねて……ほんとに、お恥ずかしいです……」


 一から十まで私が悪いのに、そんな顔で私を見ないでほしい。


「じゃあ、お互い様ってことにしよう。そろそろ朝ごはん食べに行こう? 親父さん待ってるよ」

「……はい」


 絡めていた指を離して一歩下がる。藤乃さんが降りてきて、腕をそっと掴まれた。


「俺のかわいい花音ちゃんが、かわいくないなんて言った罰です」

「……え?」


 静かに引き寄せられて、思った以上に強く抱きしめられた。

 耳元に吐息がかかって、ぞわっとする。


「あの、藤乃さん……」

「花音ちゃんが世界で一番かわいい」

「っ……」


 腕を伸ばして、大きな背中に触れた。シャツがうっすら汗ばんでいて、手にぺたりと張り付いた。

 すぐに互いの温度で熱くなりかけたところで、体が離れた。


「行こうか」

「……はい」


 車のドアと鍵を閉めて、並んで歩く。

 手、つながないんだなと思ったら、藤乃さんが振り返った。


「手、つなぎたいけど、知り合いがいっぱいで恥ずかしいから、次のデートのときにね」

「は、はい。……楽しみにしてます」


 藤乃さんがはにかんだ。

 ――かわいいのは、藤乃さんのほうだと思う。


「ところで、どうして茉莉野さんと葵さんって、喧嘩しちゃうんですか?」

「基本的に性格がそっくりなんだよ。あと、葵の彼氏の朝海と茉莉野が幼なじみらしくて。どっちかが引っ越して、小学校の途中までみたいだけどさ。それで茉莉野がちょっとマウント取っちゃったらしくて、それ以来ずっと犬猿の仲」

「あらら……」


 並んで歩いて、市場の食堂に向かう。

 父を探すと、ちょうどトレーを持って座ったところだった。


「由紀さん、ご迷惑おかけしました」

「いいよお。花音がなんかしたんだろ?」

「まあ、そうだけど」

「仲直りしたならそれでいい。二人ともさっさと食え。帰ってから仕事が山ほどあるぞ。痴話喧嘩してる場合じゃねぇ」

「痴話っ!? 否定できないけど、でも……! 藤乃さん、ごはん買いに行きましょう!」


 ろくなことを言わない父を置いて、食券を買いに行く。

 藤乃さんは、やけに嬉しそうについてきた。私だけ慌てて、券売機に向かう。


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