Day14「浮き輪」
その日の朝、私は一人で花市場に買い出しに行った。
自分用の秋冬向けに育てる種を買いに来た。畑は広くないけれど、隣に温室もあって、種類はそこそこ育てられる。
父は切り花と鉢植えを卸に行っていて、兄の瑞希は畑の水やり。だから一人で気楽に市場を見て回っていた。
買い終えて父のところに顔を出すと、まだ時間がかかると言われた。
「このあと農協に寄るから、花音は先に帰ってろ。さっき藤乃ちゃんが一人で来てたから、一緒に飯でも食ってけよ」
「大きなお世話!」
とはいえ、藤乃さんがいるなら会いたい。
駐車場で須藤さんの車を探していたら、ちょうど藤乃さんが荷台の前でスマホを取り出すところだった。
「藤乃さん!」
そう言って駆け寄ると、なぜか藤乃さんは両手で顔を覆ってしまった。
「かわいい……!」
「な、なんですか、いきなり……」
藤乃さんは、私を見るたびにそればかり言う。
今日の私は白い半袖シャツに濃いグレーのサロペットと、由紀農園のロゴ入りの黒いキャップ、足元はショートブーツ。
……全然かわいくない。
藤乃さんは、オーバーサイズの白い半袖シャツに細身のジーンズ、胸当てのない短めのエプロンというシンプルな格好。でも、背が高いから、それだけで十分かっこよく見える。
「ごめん、花音ちゃんがあまりにかわいくて、ちゃんと見られなかった」
「もー、すぐそういうこと言うんだから。藤乃さんだって、いつもかっこいいですよ」
「そう言ってくれるの、花音ちゃんだけだよ。でも、それが一番嬉しい。おはよう。種を買いに行ってたんだよね」
「……おはようございます。父に会ったんですよね。藤乃さん、もう帰るところですか?」
「朝ごはん食べて帰ろうかと思ってた。……誘ってもいい?」
「朝ごはん、一緒にどうですか?」
そう言うと、藤乃さんが少しはにかんで頷いた。
かわいくて、目をそらしたくなるのは、こっちなのに。
「先に言われちゃった。どこがいいかな? この時間だと、市場の中くらいしか開いてないけど……」
「じゃあ、テイクアウトして少し走りましょうか?」
「あ、それなら海の方に行かない? 海水浴の時期だから、海の家が出てて、ベンチもあると思う」
「そうしましょう!」
そのまま藤乃さんと並んで市場の食堂へ。お弁当を買って、それぞれの車に戻り、連なって走った。
久しぶりの海は、朝日を受けてきらきら光っていた。
「わあ、海、ほんとに久しぶり! 潮風、いい匂いですね」
「この仕事だとなかなか、まる一日休めないしね。あ、ベンチあっちにあるよ」
「はい! わ、砂が……」
「良かったら、つかまって」
砂に足を取られてよろけたら、藤乃さんがすっと手を差し伸べてくれる。
……少し迷って、手を握らせてもらった。腕の方が自然だったかもしれないけど、私は藤乃さんと手を繋ぎたかった。
「……手、繋いでもいいですか?」
「もちろん。行こうか」
藤乃さんが優しく握り返して、歩き出す。
顔が熱いのも、手のひらがじんわり汗ばんでるのも、きっと夏の日差しのせいだけじゃない。
ベンチの砂をはたいて、並んで座る。
藤乃さんがニコッと笑って磯辺揚げを差し出すから、遠慮なくいただくことにした。
「藤乃さんのお弁当の揚げ物、なんですか?」
「白身魚と磯辺揚げ。そっちは?」
「唐揚げとソーセージです。そっちにすればよかったかな」
「磯辺揚げ二個入ってるからあげるよ」
「え、悪いですよ」
「代わりにソーセージちょうだい」
ニコッと笑って藤乃さんが磯辺揚げを差し出すから、お言葉に甘えさせてもらう。
「……ん、あ、美味しい。うん、次はこれにします。……藤乃さん?」
藤乃さんは、箸を差し出したまま、顔を真っ赤にして固まっていた。
どしたの……。
「いや、その……お弁当に入れてもらおうと思ってただけで……」
「えっ? あっ、すみません!……食べさせてくれるのかと……すみません……」
私のばか! 瑞希じゃあるまいし!
そもそも瑞希に「あーん」したのなんて、何年前よ……!
「恥ずかしい……ごめんなさい……」
「えっと、大丈夫。ちょっと驚いただけだから。……俺もしてほしいって言ったら、嫌?」
「……嫌じゃ、ないです」
「良かった。……ソーセージ、もらっていい?」
箸でそっとソーセージを摘んで、真っ赤な顔の藤乃さんに差し出す。
「どうぞ……」
「失礼します」
大きな口が開いて、ソーセージが一口で食べられた。
……大きくて、手まで食べられるかと思った。
「……ありがと。ちょっと塩っぱいんだね。ごはん進む感じ。……花音ちゃん?」
「す、すみません……。藤乃さん、口、大きいですよね……ちょっと、ドキドキしちゃって」
慌てて目を逸らして、お弁当の続きを食べる。
視界の隅に、打ち捨てられた浮き輪が砂をかぶっていた。
それを見て、ちょっと冷静になる。
……危なかった。
藤乃さんの、大きな口にキスしたくなった。食べられてもいいなんて……いやいや、朝から何考えてるの。
「そういえば、藤乃さんが一人で仕入れに来るのって珍しいですね」
そう言って顔を上げると、藤乃さんは頬をもぐもぐさせながら頷いた。
「今日はみんな忙しくてさ。母親のテストも合格したから、行ってみろって言われてさ。まあ、母さんや親父の知り合いの農家さん回るだけだし、やっとって感じだけど。花音ちゃんは?」
「私は種の仕入れです。今日は、畑の一角で試しに育てるための……ほとんど趣味みたいな畑用の種を買いに来ました」
そう言うと、藤乃さんが頷いた。
「あのチューリップとかバラも、そうやって育てたの?」
「そうです。うまくいったら、父や瑞希に相談して、大きい畑で育てて販路に乗せます」
お弁当を食べ終えて、藤乃さんも同じく食べ終わっていたので、一緒に片付けて立ち上がった。
「そろそろ車に戻りましょうか」
「うん、帰らなきゃね。あ、でも、転びそうだから……車まで、手、繋いでいい?」
「……どうぞ」
今度は私から手を差し出した。
大きな手が重なって、やっぱり優しく握られる。
そっと握り返して歩き出すと、藤乃さんが柔らかく微笑んでいて、ドキドキは当分おさまりそうになかった。
車まで戻ると、藤乃さんが私の手をぎゅっと握り直した。
「今日買った種がうまく育ったら、見せてほしいな」
「はい、もちろんです。藤乃さんが欲しくなる花にできるよう、頑張ります!」
「うん、楽しみにしてる」
ゆっくりと手が離れる。指が離れきる直前に少し触れ合って、藤乃さんの目が切なそうに細められた。
でも、何も言わずにそのまま離れていった。
私も何か言いたかったのに、言葉が出てこなかった。
「あ、そうだ。夜ごはんに誘うって言ってたでしょ。よかったら、駅前のビアガーデン行かない? お客さんにチケットもらったんだ」
「ビアガーデン! ぜひ行きたいです」
「よかった。日付は後で相談しようか。場所は花音ちゃんの最寄り駅のところで……」
藤乃さんがスマホで場所を表示する。
駅ビルの屋上らしくて、特設サイトにはビール以外のアルコールや、食べ放題メニューなんかも紹介されていた。
「このページ、送っておくよ」
「ありがとうございます」
「朝ごはんも、また一緒に食べよう」
「はい。お願いします」
それぞれの車に乗り、シートベルトを締めてエンジンをかける。ギアを入れてアクセルに足を乗せてから、もう一度藤乃さんのほうを見る。
「……好きだなあ」
藤乃さんも同じようにこちらを見ていた。
目があったから小さく手を振ると、とけるように微笑んで手を振り返してくれる。
口パクで「またね」と言うと、頷いてくれた。
……だからってわけじゃないし、伝わらなくても全然いいんだけど、口パクで「すき」と言ってみる。
藤乃さんは目を丸くして、口をパクパクさせた。それから口元を押さえて、目を逸らす。
……えっ、伝わっちゃったかな。
どうしようか迷っていたら、藤乃さんが真顔でまっすぐ私に視線を戻した。
そして口をわずかに動かす。
「……なに……? おれも……? いやいや……」
いやいや、そんな、都合の良い話ないでしょ。
もう一度手を振って、今度こそアクセルを踏み込んだ。
最後に見えた浜辺では、さっきの浮き輪が風に流されて、海をぷかぷかと漂っていた。
「ただいまー」
「おかえり、花音。親父はどこだ?」
駐車場で出迎えてくれた瑞希がキョロキョロと辺りを見回す。
「農協の話し合いって言ってたよ。種、このあたり買ってきたんだけど、どうかな?」
「カッコウアザミ、ブルーサルビア、ケイトウ、ルドベキアは赤とピンク……」
瑞希は返事を待たずに助手席のカゴを覗いている。
いくつかある種を頷きながら見ている。
「悪くないな。……なんつーか、ちょっと藤乃の好みに寄ってる気がするけど……」
瑞希の鋭すぎる指摘に反論できない。
だって、完全にそのとおりだから。
「だ、だって……藤乃さん、すごく褒めてくれるから。つい、藤乃さんが好きそうなものばかりになっちゃって」
「まあ、わからんではねえけど……」
瑞希は種の入ったカゴを持って歩き出す。
「俺と親父が信頼してるのは、お前の眼と手だからさ。お前が育てるものなら商品になるって思ってるから、畑の一部を任せてるし、仕入れも任せてるわけだろ。……それに、藤乃の好みと花音の好みは、ちゃんと分けて考えるべきだしな」
「……はい。気をつけます」
「藤乃も、花音の腕をちゃんと認めてるからさ。お前が勧めた花を買ったり、楽しみにしてくれてるんだろ」
そこまで言ってから、瑞希は私の顔を見てにやっと笑った。
「とはいえ、お前が嫁いだら、お前の畑をどうするかは考えないといけないんだけどさ。あ、知ってると思うけど、須藤さんとこの庭にも空いてる畑があるから、言えば使わせてくれると思うよ」
「な、嫁ぐって……!? そんな予定ないから!」
「ないの?」
「き……希望的観測くらいなら、あるかも……」
「嫁ぎたい?」
「まだそこまで考えられない……。ていうか、なんで私が藤乃さんのこと好きな前提で話進めるのよ」
聞き返すと瑞希がブハッと吹き出した。
「なんでバレてないと思ってんだよ。藤乃が俺のこと『お義兄さん』って呼んでる理由、わかってんだろ?」
「理解すると対応に困るから分からないふりしてる……」
「ウケる、藤乃かわいそ。あはは」
瑞希は笑いながら私の畑に向かってしまった。
なんなの〜〜〜。
自分の心配でもしてなよ、ばか兄貴!
心の中でだけ言い返して、兄の後を追う。




