Day12「色水」
その日、道が混んでいて、須藤造園に着いたのはいつもより遅い時間だった。店先では葵さんが誰かと話していた。
「お知り合いの方ですか?」
受領書にサインする藤乃さんに聞くと、ゆっくりと笑う。
「あれは葵の王子様」
「王子様……?」
ついカウンターから店先を覗いた。
背筋は真っ直ぐで、癖のある髪にシャープな顔立ち。目つきは鋭いけれど、葵さんを見る目は穏やかで優しかった。
「……どこかでお見かけしたような気がします」
「あいつ、網江朝海っていうんだけど、警察官なんだ。今は違うけど、なりたての頃は……地域課? 交番勤務で近所を回ってたから、由紀さんのところにも顔を出してたかもね」
「なるほど」
言われてみれば、たしかにそうかも。
姿勢が良くて、体つきもしっかりしている。警察官だと言われれば納得できる。
「気になる?」
藤乃さんが、私の視線を遮るように顔を覗かせた。前にも、理人さんを見ていたときに同じことがあったのを思い出す。
「そうですね。警察官と大学生がどうして付き合うようになったのか、ちょっと気になります。お付き合いされてるんですよね?」
「気になるの、そっち? 葵とは、高校を卒業したときから付き合ってるよ」
「詳しく聞きたい……けど、勝手に聞くのはよくないですよね」
そんなふうに遠慮していたら、葵さんがカウンターに戻ってきた。
「そろそろ上がるね。あ、花音ちゃん、こんにちは」
「こんにちは。……もしかして、彼氏さんがお迎えにきてくれたんですか? いいなあ……」
つい、本音が出た。
葵さんはエプロンを脱ぎながら、苦笑して藤乃さんを見た。
「藤乃くん、何言ったの?」
「朝海は葵の王子様って言った。朝海の話、していい?」
「いいよ。朝海くんはね、最高にかっこいい私の王子様なの。三年かけて落としたんだけど……詳しくは藤乃くんに聞いて。じゃあ、お先に」
「おう。気をつけて帰れよ」
「お疲れさまです」
葵さんは満面の笑みでカウンターから出て行き、藤乃さんも立ち上がって手を振った。
網江さんは軽く会釈し、葵さんは手をぶんぶん振って、二人は寄り添うように出て行った。
正直、ものすごくうらやましい。
私もいつか、あんなふうに藤乃さんの腕に手を添えて歩きたい。
思わず藤乃さんの腕を見てしまう。
いつもの花屋さんの制服らしい白いワイシャツと黒いスラックスに黒いエプロン。夏だからワイシャツの袖が肘のあたりまでまくられていて、思ったより腕が太いのがわかる。
……かっこいいなあ。
「花音ちゃん?」
じっと見つめていたら、藤乃さんが不思議そうに私を見ていた。
「す、すみません……。なんでもないです」
「この後、用事ある?」
「ないです。納品は全部終わってますし、畑の世話も午前中に済ませました」
私が首を振ると、藤乃さんが柔らかく笑った。
「じゃあ、この時間はお客さんも少ないし、葵と朝海の話でもしようか。来客があったら、そっちを優先するけど」
「はい、お願いします!」
「俺は手を動かしてるね。あと一時間くらいで店じまいだから、そろそろ片付けないと」
「あ、お手伝いします」
そう言って腰を浮かせると藤乃さんは少し目を見開く。
「……ありがとう」
家に戻るのが遅くなるとだけ連絡して、藤乃さんから箒を受け取った。
店の前を掃きながら、藤乃さんの声に耳を傾ける。
「葵と朝海が出会ったのは、葵が高校生になったとき。電車で通学するようになって……うん、混雑した電車でトラブルに巻き込まれるようになったんだ」
藤乃さんはどこか遠くを見ながら話す。
言葉をすごく選んでるけど、きっと葵さんは嫌な思いをしたんだと思う。……混んだ電車の中で。
「それで、葵が学校に行きたくないって言い出して、トラブルがわかって、お母さんと一緒に警察に相談に行ったらしい。でも“毎年のことだから”って、あしらわれちゃったらしくて」
「えっ……犯罪なのに?」
思わず声が出てしまって、藤乃さんは困ったように私を見た。
「ご、ごめんなさい。藤乃さんに言っても仕方ないのに……」
「ううん。気持ちはわかるよ。後で聞いた俺も、そう思ったから。葵の通ってた学校って進学校でさ。みんな物静かでおとなしい子が多いんだって。それで毎年、狙われるらしい。ひどい話だよね」
カウンターを片付けながら、藤乃さんの目がふっと細くなった。
そんな藤乃さんに、私が言えることなんてなくて、黙って箒を動かす。
掃き終えて箒を返し、店先の花の片付けを手伝っていたら、お客さんが来たので私はカウンターの奥に引っ込んだ。
若い女性が藤乃さんに笑顔で話しかけていて、藤乃さんも笑顔で受け答えをしながら少し前に私が納品したヒマワリを勧めている。
藤乃さんは、ヒマワリにミスカンサスとローズマリーを添えて、ミニブーケを作って渡した。女性はキラキラした笑顔で受け取って……。
……仕事なんだから……。でも、そうか。もし藤乃さんと一緒になったら、こんな場面を何度も見ることになるんだ……いやいや、付き合ってもないのに、何考えてるの……!
「お待たせ」
「あ、いえ。大丈夫です……」
ぐるぐる考えていたら、女性を見送った藤乃さんが、私のほうを振り返った。
「どこまで話したっけ? 葵が警察に相談に行ったって話はしたよね。そのとき、新人として聞き取りの補助に入ってたのが朝海だったんだって」
「なるほど……?」
「でも、さっき言ったとおり、メインで対応した人の反応があまり良くなくてさ。葵ががっかりしながら警察署を出たら、朝海が追いかけてきてくれたんだって」
「……」
思わず身を乗り出したら、藤乃さんに笑われてしまった。
つい……!
「それで、まともに相談に乗れなかったことを謝って、できる限りのことはしたいって言って、被害を受けた時間とか細かく聞かれたんだって」
「……それ、網江さんは大丈夫だったんですか? 新人が勝手なことして叱られたりとか」
「どうかなあ。あいつ、そういうの言わないから」
藤乃さんはレジを操作しながら言う。長々とレシートが吐き出されて、そろそろ今日の営業もおしまいらしい。
「その何日か後、登校中にまた被害に遭いかけたとき、朝海が相手の腕を掴んで止めてくれたんだって」
「えっ……それ、お休みの日にってことですか?」
「そう。非番の日に早起きして、葵から聞いた時間と路線を狙って乗って、助けてくれたんだって」
「それは王子様ですね。惚れちゃいます。うわぁ……そっかぁ……すごい……」
つい盛り上がってしまうけど、葵さんが受けた心の傷を思えば、はしゃいじゃいけない。だからできるだけ抑えるけど、でも、すごい。葵さんが三年かけるのも納得のかっこよさだ。
藤乃さんが店頭の植木鉢を片付けていたので、私も手伝った。
シャッターを下ろし、カウンターの外の電気を消す。
「それで、葵は高校生活の三年間をかけて朝海を落としたってわけ。卒業式の少し前に、朝海がうちの店に来て、葵の卒業に花を贈りたいから花束を作ってくれって言ったんだ」
「すごい……完全に王子様じゃないですか……」
そう言うと、藤乃さんがなぜか口をぎゅっと閉じた。
「……花音ちゃんも、そういうのされたことある?」
「ないです。花農家に花束を贈る人なんて、いないですから」
「ほしい?」
「どうでしょう。藤乃さんからいただいたシャクヤクは飾ってますけど……だから、藤乃さんがくれるならなんでも……すみません、口が滑りました」
慌てて口を閉じたけど、もう手遅れだった。藤乃さんは顔を真っ赤にして、私を見ている。
少し固まったあと、大きな手で口元を隠して、そっぽを向いた。
「……次の誕生日に、おっきい花束用意するね」
「できれば、取っておけるのがいいです。えっと……誕生日が近くなったら、リクエストしてもいいですか?」
「お待ちしております」
藤乃さんは顔を赤くしたまま、バケツに染料を溶かして色水を作った。いくつか用意して、そこにかすみ草を挿していく。
「やっぱり、そういう……んー、王子様みたいなのって憧れる?」
「私はあまり……聞くのは好きですけど。ほら、私、身長があるので、そういう王子様とお姫様みたいなのは無縁じゃないですか。だから、話を聞いてときめくのが楽しいというか」
「ふうん」
黙って色水にかすみ草やカーネーションを挿していく藤乃さんを見つめた。
私から見れば、藤乃さんだって十分、王子様だ。
ぶつかったときに抱きとめてくれて、迷子になった私の手を引いてくれた。
泥だらけの大女でしかない私を「かわいい、かわいい」と言って、大事にしてくれるこの人が王子様じゃなければ、なんなのだろう。
「よし、こんなもんかな。遅くなっちゃったね。手を洗ったら、車まで一緒に戻ろう」
「……はい」
いつか、こういうことも一緒にできたらいいな。
そして、手を洗ったら同じ家に帰れたらいいのに。
……いやいや、飛躍しすぎ。付き合ってもいないのに。
手を洗い終えた藤乃さんと、お店の裏口から一緒に出る。
空には夕焼けの名残があって、東の空には星がチカチカ光っていた。
「あのとき……葵は、俺と理人にはなんにも言わなかったんだよね」
あのとき、というのは葵さんが高校生になったばかりのときのことだろう。
「まあ、言いにくいのはわかるけどさ。店も忙しい時期だったし。それが落ち着いた初夏くらいに、店に飛び込んできて『藤乃くん、私、好きな人ができたの!』って。驚いたよね」
「……それって、どれに驚いたんですか?」
「全部かなあ。ひどい目にあったのに言わなかったことも、好きな人ができたことも。俺が弟子離れする前に、弟子に師匠離れされちゃってさ」
藤乃さんは前を見たまま、ぼんやりとつぶやいた。
「まあ、そんな気はしてたんだけどさ。葵はかわいいから。ちゃんと幸せにしてくれて、守ってくれる人が見つかってよかったよ」
それって、どういう気持ちなんだろう。
……藤乃さんは、葵さんをどう思っていたんだろう。
「……藤乃さんって、葵さんのこと、好きだったんですか?」
我ながら、ずるい聞き方だったと思う。
あえて過去形で聞いた。もし昔そうだったとしても、今は違うんだよね、って。
「うん。ずっと好きだよ。でも、朝海のとはちょっと違う。俺、あいつのおむつ替えたり、風呂に入れてやったりしてるし、あいつの親父さんと結婚式で一緒に号泣する約束してるからさ」
「なんですか、それ」
意味がよくわからなくて、つい聞き返してしまった。
安心していいのかどうか、さっぱりわからない。
――安心って、なに?
「葵が大学生になったときに、親父さんと酒飲んでさ。彼氏ができたって号泣する親父さんを慰めて、なんかそういう約束したんだよね。……まあ、できれば俺より後にしてほしいけど」
藤乃さんがそこまで言ったところで車についた。
車に乗り込み、ドアを閉めようとしたら、藤乃さんの手がそれを押さえた。
藤乃さんが屈んで顔を寄せてきたけれど、逆光で表情はまったく見えなかった。
ドアに添えられた、染料の色が残ったままの指先ばかり見つめてしまう。
「葵には葵の王子様がいるし、俺には俺のお姫様がいる。……いると思ってる。うまく言えないけど、気をつけて帰って。怪我したり、危ない目にあったりしないで。着いたら、ちゃんと連絡して。俺、心配性だから」
そう言って、藤乃さんはそっと車のドアを閉めた。
……それは、藤乃さんが私の王子様になってくれるってことで、いいのかな……?
いつも攻撃力が高くて、私はやられっぱなしだ。
シートベルトを締めて、エンジンをかけ、それから窓を開けた。
「……藤乃さんは、最初から私の王子様です。王子様に心配かけたくないので、安全運転で帰ります。今日は遅くまでありがとうございました」
言うだけ言って、急いで窓を閉めた。
軽く会釈すると、藤乃さんが一歩下がって手を振ってくれた。
そっとアクセルを踏んで、車をゆっくり走らせる。
私の王子様(予定)が、ミラー越しに見えなくなるまで手を振ってくれていた。




