Day11「蝶番」
初夏の夕方、外に小さな雨粒が落ちはじめていた。
葵がバイトに来る予定だけど、濡れる前に着けるだろうか。
店先のブーケを店内に運びながら、急激に暗くなった空を見上げる。
じいさんは剪定を終えて帰宅して、シャワーを浴びると言っていた。親父も敷地内の低木を見終えたら、家に戻るって話だった。母親は店の車で、公民館にアレンジを教えに出かけている。雨が降る前に着いていればいいけど。
軒先にビニールの屋根を広げて、店の入り口に雨が入らないようにする。
店内の明かりを一段明るくしてカウンターに戻ったら雷が鳴った。
「うわ……っ」
びっくりして、振り返ったら棚にぶつかる。
棚の扉が軋んで、蝶番がギイギイと不快な音を立てた。
あー……嫌なこと、思い出した。
もう、二十年も前のことなのに。
雨の夕方、伯父の家にいたときのことだ。
トイレかなんかで一人で廊下に出たら伯父に呼び止められた。
「なんで、お前みたいないけすかない小僧なんか」
「お前みたいなナヨナヨした糞ガキ、顔も見たくない」
「鈴美と比べて、何の取り柄もない糞ガキのくせに」
そんな言葉を吐きながら、伯父は、まだ低学年だった俺を突き飛ばした。
トイレのドアに背中をぶつけ、蝶番が軋んだ。泣くこともできず、ただ呆然と伯父を見上げていた。
そんな思い出が、山ほどある。
外では雨がざあざあと叩きつけ、時おり雷が低く唸った。
「藤乃くん!?」
「……葵?」
気づいたときには、葵が目の前で俺を見上げていた。
「顔真っ青じゃん!とにかく座って、水飲んで!」
「……何でもないよ」
「何でもない人はそんな真っ青にならないの!」
強引に椅子に座らされて、ペットボトルを手に押し込まれた。
開ける気力もなく、ただ見ていたら、葵が代わりに開けてくれた。
「で、どしたの?」
「何でもないって。……ちょっと、嫌なこと思い出しただけ」
そう答えたら、ピンクのスニーカーが、いつの間にか脚の間に滑り込んできた。
顔を上げたら目の前に葵がいて、肩に手が乗せられる。
「葵?」
「ほんっっとうに、バカなんだから」
葵の細い手が肩に乗せられる。
ぐっと顔が近づいて、覗き込まれた。
相変わらず目がでかいな、なんて思っていたら──視界に星が散った。
「あっ痛っっ、いってえ!!」
「勢いつきすぎた。私まで痛い……」
葵は額を押さえて足元にしゃがみ込んでいる。何やってんだ、こいつは。
「バカはそっちだろ、ほんと痛え……」
「ごめんて。……鈴美ちゃんでしょ」
「……なんで?」
「藤乃くんが、そんな死にそうな顔するの、鈴美ちゃんのことだけじゃん」
涙目で見上げてくる葵の頭を、つい、ぐしゃぐしゃに撫でていた。
猫みたいにすり寄ってきた葵を軽くいなして、窓の外を見た。
まだまだ雨脚は衰えない。
「雨の音とか、蝶番がギイギイ鳴るのを聞いてたら、ふと思い出しちゃっただけ。何もできない、何にもないガキだって言われたなって」
「……藤乃くんが、何もないなんて、あるわけないよ。それ、鈴美ちゃんが言ったの?」
「いや、伯父。鈴美の父親。なんか昔から目の敵にされてたんだよな……」
「それさあ……、それ……」
「うん?」
気づいたら、葵が今にも泣きそうな顔をしていた。
ほんと、バカだな。
そんな顔、する必要なんてないのに。
「そういうの、思い出すことあるの? その、今までにも」
「……どうかな」
ぼんやりと雨垂れを眺める。雨の勢いは増す一方で、きっと瑞希と花音ちゃんは畑の世話で走り回っているんだろう。
「たまに……あるかな。寝る前とか、夢で見たりするときが」
「ママさんは、知ってるのそれ?」
「知らない。言ってないし……言えるわけないだろ、あれだけ揉めたんだから」
「じゃあ、そういうときって、どうしてるの?」
「お前らが送ってきた、くだらない写真とか見たり……あとは庭とか花壇の写真集めくったり……」
「花音ちゃんの写真見たりしてるの?」
「なんで知ってんだよ……悪かったな、気持ち悪くて」
「悪くないし、キモくないでしょ」
ようやく、葵が笑って立ち上がった。
「心細いときに、好きな人の写真見て安心するのって、よくあることだよ。私だって、試験中は朝海くんの写真見てるもん」
「そっか」
「でも……藤乃くんには、それじゃ足りなさそうだね」
葵は店のエプロンを身につけて、半開きの戸棚を閉めた。ギイギイ鳴っていた音が、ようやく止んだ。
立ち上がると、雨は少し弱まっていた。
葵と並んで店先から外を眺めると、遠くに母親の運転する車が見えた。
「止まない雨はないって言うけど、どうせなら、そのあとに虹も見たいよね」
そう言って、葵は雲の切れ間の方を見ている。
「贅沢だな、お前は」
「知らなかった?」
「知ってた」
でも、葵が見てるのは西の空だし、夕方の今は虹は見えないんじゃないかって思った。
次の日の夜、一人で店仕舞いしてたら裏口がノックされた。
葵はとっくに帰ったし、母さんはたぶん家で晩飯の支度中。じいさんと親父がノックなんてするはずもない。
「はーい、どなたでしょうか?」
扉を開けたら、真顔の花音ちゃんがいた。
「えっ、花音ちゃん!? どしたの……?」
「こんばんは、藤乃さん。すみません、こんな時間に」
「いや、いいけど……、あ、中にどうぞ」
こわばった表情の花音ちゃんを事務所に通して、散らかっていた伝票を端に寄せ、レジも閉めておいた。
冷蔵庫にあったペットボトルを手渡す。たぶん葵のだけど、明日買っておけばいいか。
「ありがとうございます。すぐに帰りますから……」
「何かあった?」
「……葵さんから、藤乃さんが落ち込んでるって連絡が来て」
「……それって」
花音ちゃんはお茶を机に置くと、そっと俺の手を両手で包み、目を伏せた。
「私、藤乃さんの手が好きです」
「え……っ」
手が急に熱くなって、たぶん一気に汗が出た。
花音ちゃんはそっと俺の手を撫でた。
「藤乃さんの手、あかぎれも切り傷もたくさんあります。何もない人の手がこんなにボロボロなわけないじゃないですか」
「花音ちゃん……」
「皮も固くなっていて、鋏が当たる場所にはタコができてます。手だけじゃないです。花を見るときの藤乃さんの顔も好きです。真剣で、一所懸命で、真っ直ぐに見てるじゃないですか。何もなくなんてないです。そんなひどいこと言う人、誰ですか。……私、怒りますよ」
握った指に、ぎゅっと力がこもる。
花音ちゃんはうつむいたまま、肩を小さく震わせていた。
泣かないでよ。君が言われたわけじゃないのに。
「ありがとう、花音ちゃん。怒ってくれて……でも俺は大丈夫。もう昔のことだから」
「どれだけ昔のことでも、藤乃さんが傷ついた事実は消えません。不当なことを言われたなら、怒るべきです。藤乃さんが怒れないなら、私が代わりに怒ります」
「……うん、ありがとう。花音ちゃんが怒ってくれたおかげで、もう大丈夫」
ゆっくり顔を上げた花音ちゃんは、うるんだ目で、ちょっと不機嫌そうな顔をしていた。
その顔がたまらなくかわいくて、やっぱり俺は花音ちゃんが好きだ。愛しくて、どうしようもない。
こんな俺のために、わざわざ来てくれて、こんなに目を涙でいっぱいにして。
「花音ちゃん……少しだけ、抱きしめてもいい?」
そう言うと、花音ちゃんは顔を真っ赤にして、口をぱくぱく動かした。
「……どうぞ」
「ありがとう」
そっと手を離して、花音ちゃんの背中に回した。
初めて抱きしめた女の子は、想像以上に柔らかくて、あたたかくて、いい匂いがした。
花音ちゃんの腕が背中に回って、優しく抱き寄せられた。
……よかった。ちゃんと、ここまで来られて。逃げ出さなくて、本当に、よかった。
しばらく抱きしめて、ゆっくり体を離す。
名残惜しかったけど、こんな情けない俺を慰めてくれた花音ちゃんに、ここで手を出すのは違う気がして、そっと離れた。
「ありがとう、花音ちゃん。……駐車場まで、一緒に行こう」
「……はい。あ、でも……たまに嫌な夢を見たり、眠れなくなることがあるって、葵さんから聞きました。そういうときは、連絡くださいね」
「でも、そういうときって夜だし」
「大丈夫です。私、子守歌、歌いますから」
花音ちゃんはにっこり笑って、俺の顔を覗き込んだ。……どうにも、俺はこの子に敵わないらしい。
「……ありがとう。寝かしつけてほしくなったら、連絡するよ」
「はい。お待ちしてます」
裏口を開けて、ふたりで外に出た。
昨夜とは打って変わって、雲ひとつない夜空に星がまたたいていた。風がかすかに吹いて、湿った土の匂いがする。
隣に花音ちゃんがいて、ただそれだけで、すごくいい夜だった。
「藤乃さん、良い夢を」
花音ちゃんは由紀さんの営業車に乗り込むと、窓を開けてくれた。
「ありがとう。花音ちゃんも、良い夢を。おやすみなさい」
今なら、キスしても許されるかもしれない――
そう思って、目を閉じて、ゆっくり開いた。
花音ちゃんはやわらかく微笑んで、エンジンをかけた。
一歩下がって車から離れる。
手を振って、ゆっくり遠ざかっていく車を見送った。
店に戻って片付けを終わらせる。
家に帰ると、台所から母親が顔をのぞかせた。
「遅かったわね。何かあった?」
「伝票が一枚見当たらなくてさ。探したら、机の下に落ちてた」
「……そう。さっさと風呂入っちゃって」
「うん」
シャワーを浴びて、夜ごはんを食べて、自分の部屋に戻った。
本棚に飾ってある、ガラスケースに入ったピンクのチューリップをそっと手に取る。
蝶番のきしむ音は、もうどこにも聞こえない。
翌朝、母親と花市場に行くと駐車場で花音ちゃんに会った。
「おはようございます、藤乃さん」
「おはよう、花音ちゃん。荷物、手伝おうか?」
つい、いつもの癖で言ったら、花音ちゃんが微笑んだ。
「瑞希がいますから大丈夫ですよ。藤乃さんは仕入れでしょう? 今日のオススメはカラーです。苗だとニチニチソウもご覧になってください」
「花音ちゃん、しっかりしてるわねえ。藤乃も見習いなさいよ。由紀さんのところは最後に行きましょうか。大荷物になっちゃう」
「お待ちしております」
花音ちゃんは母親に軽く頭を下げて、俺にも少しだけ手を振ってから、台車を押していった。
「藤乃?」
「うん」
「逃がしちゃダメ。でも、がっついちゃダメよ」
「あなたのお父さんも、昔ね……」
「え、それ聞く流れ?」
両親ののろけ話とか、朝から勘弁してほしい……。
ていうか、じいさんも母親も、俺が花音ちゃんを好きって前提で話すの、やめてくれないかな。……そんなに顔に出てる?
ひと通り顔なじみの農家を回ってから、最後に由紀さんのところへ向かった。
カラーはあまり残ってなかったけど、ニチニチソウはいくつかあったから、見せてもらった。
「あ、クルクマほしいな」
「いいわね。これとこれなら、どっちがいい?」
「左。茎がしっかりしてる」
「このニチニチソウは?」
「右、葉っぱがピンと張ってる」
「このベニバナは?」
「んー、真ん中のかな。花びらがきれいに開いてる」
「よろしい。じゃあ、残りの予算で藤乃がいいと思う花を選んで」
母親が頷いて一歩下がった。
そばで見ていた由紀さんの親父さんが、「おっ」と声を上げた。
「ついに藤乃ちゃんも一人前かい?」
「遅いくらいよ。でもまあ、そろそろね」
……やっと母親のテストをクリアできたらしい。
次からは、一人で仕入れさせてくれるのかも。……でも、いきなり一人はちょっと大変そうだな。
やって来た瑞希と相談しながら、どの花を仕入れるか決めていく。
「よし、これでお願いします」
「はいよ。……うん、悪くない。このクルクマ、花音の一押しなんだよな」
「あ、そうなんだ? 全部買っとけばよかった」
「でも買わないだろう? そういうとこだよ」
「えっ、それが原因で、もてないのか……?」
「違ぇよ……。ま、そう思ってるくらいの方が花音も安心だろ。よし、店仕舞いするから、帰れ帰れ」
雑にあしらう瑞希に追われて、車に戻る。
帰り道、助手席で朝飯をかじりながら、クルクマをどんなアレンジにしようか考える。
花音ちゃんみたいに、かわいくて、見てるだけで心が和らぐ……そばにいるだけで救われるような。
そんなアレンジを作りたい。




